第4話 音楽の神を引き連れて。
月路の願いを受けて、志津はアパートを出た。現場に行くには通勤路と同じ道を行けばいいだけなので、勝手知ったるものだった。
「…山吹さんが見えるのって、私だけなんですかね。」
志津は小さく呟くように、月路に問う。
出勤ラッシュのピークを過ぎたとはいえ、そこそこ人通りの多い駅前を月路と供に歩いていても誰も二人を気にする素振りを見せない。月路ほどの有名人なら、本来大騒ぎになっているはずだ。
「そうみたい。」
当の月路本人は、嬉しそうにきょろきょろと辺りを見渡している。
「変装もしないで、こんなに静かに歩くのは久しぶり。」
月路は無邪気に駆けだして、集まった鳩を散らしている。通行人は突如として飛び立った鳩に驚いているようだった。どうやら動物には本能か彼の気配を感じ取れるらしい。
…私って、動物並み?
ほんの少し、複雑な心境だった。
駅前のシンボルツリー、花見の役目を終えて葉だけになった桜の木を月路は仰ぐ。差し出した手のひらに木漏れ日が小魚のように泳いでいた。そういえば、彼だけに影が無かった。
温かい日差しを浴びて、眩しそうに月路は目を細めている。そんな月路の隣に寄り添うように、志津は立った。そして彼と同じように木の枝を仰いでみる。
木の葉が太陽光を浴び、葉脈が透けて血管のように張り巡らせているのがわかった。
「綺麗ですね。」
「うん。生きてるって感じがするね。」
死んでいる月路から聞くと違和感が半端なかったが、別に口にすることは無いだろうと思い、志津は口を噤んでいた。それから月路は志津が声をかけるまで、ずっと桜の木を見上げていた。月路にとって桜は花見の季節だけでなく、愛でる対象なのだということを知った。
電車を乗るために改札を通っても、月路は誰からも咎められる節は無い。ラッキー、と言って月路本人は喜んではいるが、本当は寂しいのではと志津は心配になった。
敷かれたレールを辿り、電車がホームに滑り込んでくる。志津が驚いたのは、すれ違う乗客が月路の体を通り抜けたことだ。それについて後に問うと月路も、自分の中を人を通り過ぎるのは風が通り抜ける感じ、と言って不思議そうにしていた。
電車内に乗り込むと、ちらほらと席に空きはあるが志津は出入り口のドア付近で立つことにした。
「俺のことは気にしないで、座って良いんだよ?」
「いえ。隣に座る山吹さんに重なるように、他の人が座ってもいけませんし。」
志津の答えに月路は一瞬驚いたように目を丸くして、そして微笑んだ。
「優しいね、志津ちゃん。」
駅を三駅過ぎて、四駅目で電車を降りた。駅を出て、大通りを行けば花屋、もとい月路の自殺現場に着く。大通りの手前で人だかりを見て、それだけで場所がわかるようだった。近づくにつれて、月路のファンらしき人が涙を浮かべている場面を見ることが増えていく。
自然と会話が無くなる。花屋の店の前では未だに報道のカメラが回っていて、すすり泣くファンがインタビューに応えていた。
昨夜降った雨が月路の血を洗い流し、道には彼の死を悼む花束が溢れかえっていた。
その様子を見つめる月路の瞳には何の感情も見つけられない。じっと落ちた地面を見て、次に飛んだビルの屋上を見た。
「…、」
月路がはっとして、志津を見る。志津は月路の手を握っていた。
「…ありがと。」
志津の手を握り返すその手はひやりと冷たかった。二人はしばらく佇むように、その場に立ち尽くしていた。
刹那、一際大きく泣き崩れる女性がいた。両手で顔を覆い、膝をついて嗚咽を零している。
「知ってる人…?」
志津の問いに、月路はゆっくりと首を横に振った。
恐らく、月路を自らの光として崇めていたのだろう。彼女は光を失って、これからどうするのだろうか。
不意に、月路が歌を口ずさみだした。優しく、甘く響く旋律は風に紛れるように消えていく。
私以外に聞こえない歌声が、どうか彼女にも届くと良いのに。
志津の願い虚しく、月路の歌の途中で女性は友らしき人たちに慰められながら去って行った。
「私たちも、行こう。」
「え、どこに…?」
志津に手を引かれ、月路は戸惑ったように首を傾げてみせる。
「アパートに戻ろ。これからのこと、話し合わなきゃ。今、山吹さんを認識できるの、私だけみたいだし。」
「…うん。そのようだね。」
幽霊の存在を確定させて、月路が志津の後ろをついてくる。まるで音楽の神を引き連れているようだった。
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