第3話 衝撃と出会い

「ー…。」

目が覚めたと言うことは、眠っていたのだろう。低血圧の節がある志津は、脳に血液が巡るまで静かにベッドの中で待っていた。

遮光しないカーテンから朝日が差して、夜の名残を残した室内を青白く照らしている。窓の外で鳥たちが囀っていた。その声は朝を迎えることのできた喜びに満ちていた。

ようやく意識がはっきりしてきた志津はゆっくりとベッドから起き上がる。そっと裸足を下ろすと、5月のフローリングの床が少し冷たかった。

テーブルに置いたテレビのリモコンを手に取って、何気なく電源を押す。画面が映った先にニュース番組が放送されていた。

そこには、昨夜の飛び降り自殺の件が報道されていた。この昨今、自殺者が珍しくない殺伐とした時代というのに随分と騒がれている。どうやらその当事者に注目が集まっているようだった。


山吹 月路


アナウンサーから青年の名前が告げられて、志津はようやく彼の正体を知る。月路は今、注目されている歌手だった。動画から火が付き、確か今秋に放映される映画の主題歌を歌うはずだ。

朝の6時30分という時間帯にもかかわらず、志津の勤務先の花屋を背景に自殺現場には何台ものカメラが回っているようだった。

「…死んじゃったんだ。」

ぽとん、とインクが滲むように志津は呟く。もしかしたら、一命を取り留めているかも知れない、との淡い希望は儚く散った。

「あ。あれ、俺。」

不意にすぐ隣から声が聞こえて、志津の心臓の鼓動が大きく飛び跳ねた。

「…。」

志津は油の切れたロボットのようにぎこちなく、視線を動かす。

そこで見たのは、飛び降り自殺をしたはずの月路だった。月路は特に驚いた風でもなく、自分の自殺報道を見ている。

「…ーっ!!」

何?そっくりさん?いや、不審者…!

悲鳴を上げそうになるのを堪えて、志津は口元を両手で覆う。

玄関、鍵をかけたよね!?

こじ開けられたのだろうか。

今更、チェーンをかけていなかったことを志津は悔やむ。

不審者なら、下手に刺激をしない方が良い。相手が武器を持っていたら、襲いかかってくるかも知れない。

穏便に。ここは、穏便に相手の話をまず聞こう。で、お帰り願おう。

「あのぅー…。お兄さん、部屋を間違えちゃった?」

声を上ずらせながら問うと、月路はようやくテレビから志津を見た。柔らかな飴色の瞳だった。

「さあ。どうなんだろう。」

「どう、というのは…?」

「そういえば、君は誰?」

「先にお前が名乗れよ。」

あまりにものんびりした月路の声音に、志津は思わず突っ込んでしまう。

「俺?俺は、山吹 月路。あ、ほら今、テレビに映った。」

「この人、亡くなってますけど。」

「うん。死んじゃったね。」

テレビの画面ではすすり泣くファンの姿が映し出されている。朝早くに訃報を得て、現場に駆けつけたようだった。

「あー…。泣いてくれる人がいるんだ。」

「そりゃいるでしょ。山吹 月路って人気の歌手だもん。」

「知ってんじゃん。ありがとー。」

ますます意味がわからない。

志津は段々と混乱し始めた。

「ちょっと待って。…どゆこと?」

こめかみに人さし指を当て、唸るように考え込む。

「え、何?幽霊?」

「それだ。」

月路がぽんと手のひらを拳で叩いた。

「俺、多分、幽霊。」

「はああああっ!!??」

突拍子もない月路の正体に、志津は盛大な声を漏らす。そして手のひらを横に振ってみせる。

「いやいやいや、何言ってんの?思いっきり足があるじゃん。」

「そうなんだよね。不思議だね。でもさ…、見てて。」

月路はそう言って、部屋の中で一歩踏み出した。志津が見つめる先にとことこと歩いて行き、廊下に続く閉まった扉をそのまますり抜けてしまう。

「えー!」

志津は追いかけて、扉を叩いてみる。木製の固い扉だった。

「すごくない?便利でしょ。あ、でも気合を入れれば、触ることはできるみたい。ほら、あれだ。ポルターガイスト。」

そう言って、ひょっこりと月路は壁から顔を覗かせる。

「便利っていうか…。マジか…。あ、夢かな?」

そう言うと、志津はベッドへと向かい再び布団に潜り込んだ。

「寝逃げはよくないぞー。」

そう言って、月路は志津の肩に触れた。

「!」

その冷たい肌の感触に、志津は驚きに目を張って月路を見る。

「あ、触れた。」

月路は自分の手のひらをまじまじと見つめた。そして徐に志津の頬を、つん、と人さし指で突いた。その刺激で志津の頬が僅かに沈む。

「へえ。君には普通に触れるんだ。」

「…あの。楽しげなところを申し訳ありませんが、つんつん突くのやめてくれませんか…。」

月路の指から逃げるために志津は布団を引っ張り上げて、頬を隠す。

「ごめん、ごめん。」

ぱっと両手を広げて、もう突かないと月路は意思表示を示した。志津は小さなため息を吐きつつ、ベッドから起き上がる。

「あなた、本当に山吹 月路なの?」

「うん。証明できるものは何もないけど。」

「これって夢だと思う?」

「さあ。でも夢だとして、今、君に憑いているのは本当だと思う。」

志津は自分の膝に頬杖をつきながら、月路を眺めた。その視線を受けて、月路はほんの少し首を傾げて見せた。

長い前髪がさらりと流れ、涼しげな目元を隠す。鼻筋は通っていて、形良く顔の真ん中に収まっている印象だ。唇は薄く、小さい。中性的で柔和な印象を受けるが、耳朶に開けられたピアスホールの数がいかつい。

この容姿を含めて人気が出ていたはずだ。確か、甘いマスクに腰に来るハスキーボイスが魅力と言われ、褒めそやされている。

「…そんなに見つめられると、照れるな。」

月路が苦笑を交えながら、頬を人さし指でかいた。

「あ…、ごめんね。」

その場を取り繕うために立ち上がり、志津はキッチンに向かった。

「とりあえず、お茶でも淹れます。山吹さんも飲みますか?」

「そうだね。頂こうかな。」

志津は、何だか妙なことになったな、と思う。自称、幽霊とお茶を飲むのは初めてだ。

湯沸かしポットに水を入れて、スイッチを入れる。お湯が沸くまでに茶筒から茶葉を計って、急須にセットした。

「ー…、」

背後でテレビを見ながら、月路が歌を口ずさむ。その歌は彼の代名詞とも言われている、男女の恋を謳った歌だった。心に光がぽっと灯るような、温かい手のひらで包み込まれるような感覚に陥る。

そうだ。

この歌は、山吹 月路にしか表現が出来ない。

お茶を淹れた湯のみを二つ用意して振り返ると、残念なことに彼の歌は止んでしまった。

「…お茶、どうぞ。」

「ありがとう。」

とりあえずテーブルを挟んで座り、月路の前に湯飲みを置く。テレビのニュースは、月路の自殺報道から天気予報に変わっていた。

5月の気候は穏やかで、今日は昨夜の雨も止み、一日快晴の予報だ。夜に降った雨もきっと新緑の若葉たちには恵の雨なのだろう。

志津は熱いお茶を冷ますように息を吹きかけながら、少しずつ口に含む。ほうじ茶の香りが柔らかく鼻腔を抜け、舌に香ばしい渋味が少し残るようだった。ふと気が付くと月路はお茶を飲むことなく、その湯のみを両手で包み、香りを楽しんでいた。

「…猫舌なんですか?」

「え?んーん。何だろう。香りだけで、味もわかる気がして。もしかしたら飲食は俺には必要ないのかも。」

せっかく用意してくれたのにごめんね、と月路は言う。

「あ、そうなんですね。」

祖母の家にあった仏壇に炊きたてのご飯をお供えしていたのは案外間違いではないのかもな、と志津は人知れず納得した。

とりあえず用意してみた二人分の朝食も、彼は食することは無かった。

「お味噌汁って、こんなに味わい深い香りをしていたんだね。いつもパンとか、ヨーグルトとかで簡単に済ませちゃってたから新鮮。」

志津が作った和食のラインナップを月路は嬉しそうに囲むものの、やはり食べる気にはなれなかったようだ。

「それにしても、君…、」

月路が言い淀み、志津は自分が自己紹介をしていなかった事に気が付く。

「志津です、私の名前。早瀬 志津。」

「志津ちゃんね。朝からよく食べるんだねえ。」

いきなりの名前呼びに、若干の戸惑いを覚えつつも志津は答える。

「私、花屋で働いてるんで。意外と体力勝負なんですよ。」

言いながら、志津はご飯のおかわりに席を立った。よく食べる志津を月路は何故か嬉しそうに見つめている。

「食べっぷりの良い人を見てるのって、気分が良いよ。」

にこにこと微笑みながら見守られて、志津は何だか恥ずかしくなった。恐らく朱く染まってるであろう頬を隠すように、味噌汁の椀を傾けて顔を隠した。

一方で、テーブルの際に置いたスマートホンが鳴った。着信だ。

「ちょっと、すみません。」

「どうぞー。」

月路に断りを入れて、志津は電話に出る。相手は志津が務める花屋の店長だった。

内容は、今日一日の臨時休業を伝えるものだった。何でも月路のファンや報道関係者で店の前がごった返していて、商売を始めるのは危険だと判断したらしい。

「…そうですね、生花の入った花瓶を倒されたら危ないですし。はい。私は大丈夫です。…ありがとうございます。」

最後に店長から労いの言葉をかけられ、志津はお礼を言って電話を切った。

「今日、仕事が休みになっちゃいました。」

「…。」

「山吹さん?」

僅かに漏れる電話の音声を聞いていたのだろう、月路が何かを考えるように沈黙する。

「…志津ちゃんの勤務先って、あの花屋さん?」

番組の終わりに、もう一度だけ映った自分の自殺現場の背景に映る花屋を指差した。志津は、ああ、と頷いてみせる。

「そうですけど。」

「そっかー…。ごめんね、迷惑かけて。」

月路は軽い口調に反して、深々と頭を下げた。

「仕方ないんじゃないですか。きっと心が一杯一杯だったと思うし。」

志津がそう言いながら、用の済んだ食器を片付けていると月路が後を追ってきた。

「志津ちゃんって、妙に冷静だよね。」

「あまりにも現実離れしてるんで、麻痺しちゃったのかな。」

食器を洗い、食べなかった月路の朝食にラップをかけて冷蔵庫に仕舞う。出勤が無くなった今、次の行動が手持ち無沙汰になった。

「今日、仕事が無くなったってことは予定は何も無い感じ?」

「そういうことになりますね。」

そう言うと、月路が両手を合わせて乞う。

「お願いがあるんだけど、聞いてくれない?」

「事と次第に寄りますけど…、何でしょう。」

志津は首を傾げながら、問うてみることにした。

「俺が死んだ場所に行ってみたいんだ。連れて行ってほしい。」

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