第32話 約束
「お母さん……?」
秋希はめをうっすらと開けながら尋ねる。するとおばさんは、秋希の手を握り締めた。
「ごめんね秋希。辛い思いをさせてしまって」
「どうして、お母さんがここに」
「そんな事はいいの。それより……」秋希の言葉を遮り、おばさんは葉子を見つめる。「葉子ちゃん。狙いは私だったんでしょ」
葉子も本命が来て嬉しいのか、再び笑みを浮かべた。
「会いたかったよ詩織ちゃん」
「私もだよ、葉子ちゃん」
葉子はじっとおばさんの姿を見る。満足したのか、頷いて再び話を続けた。
「すっかりおばさんになっちゃったんだね」
「そうね……」
「……感想を聞かせて。親友だった私を見殺しにして、幸せになった気分は?」
皮肉めいた尋ね方だった。おばさんも葉子の意図を理解したのだろう、重々しく頷く。
「ずっと後悔してた」
「私と一緒に死ねなくて」
「ううん。葉子ちゃんに謝れなくて」
おばさんの言葉は、葉子が期待していたものではなかったようだ。再び眉間へ皺が寄る。
「何よそれ」
「確かにあの時、私は葉子ちゃんと死ぬつもりだった。お互い、辛い状況だったからね」
「そうね。私も吉原にでも売り飛ばすって話が上がってたし、詩織ちゃんだって……退学を進言されてたじゃない」
「今でも覚えてる。臆病風に吹かれた私の手を握ってくれた、葉子ちゃんのぬくもりを」
おばさんは示すように、右腕を胸の前で握る。
「ならどうして」
「……怖かったの」おばさんは涙声ながら答えた。「あの時、地面の下で……無残な姿になった葉子ちゃんを見て、わたし……」
声が震えて、最後の部分はよく聞こえなかった。けれども謝罪か何かかは分かった。だがそれも葉子が聞きたい言葉ではなかったようで、首を横に振る。
「それでも、約束を破った事には変わりないよ」
「そうだね……ごめんね……」
「今さら誤ったって遅いよ。それに……詩織ちゃん、私はあなたを許せない」
「うん……分かってる」
「分かってないよ」葉子は語気を強める。「ならどうして、あの時一緒に死んでくれなかったの? そうじゃなくても、私の後を追いかけるぐらいはしてほしかった。けどあなたは結局生きて、あろうことか幸せを得ている。約束を破っておきながら、どうしてそんな事が出来るの!?」
おばさんは言い返せなくなったのか、返事をしなかった。だが葉子は、それを許さないと言わんばかりに詰め寄る。
「どうして!? 私詩織ちゃんに何度も頼みごとをした!? 約束を破った事だってある!? 私は詩織ちゃんの頼みを聞いてあげてたでしょ!? もちろんその事に不満はないけど、でもどうして、たった一度の頼みを聞いてくれなかったの!?」
「ごめんなさい……」
「詩織ちゃん、どうしてっ!!」
「ごめんなさい……!」
泣き崩れるおばさん。葉子はもう一度尋ねようとした口を閉じて、歯を食いしばる。
「……詩織ちゃん、私だって本当は死にたくなかった。あなたとどこか遠い所に行って、二人だけで頑張って暮らすって、そんな事も考えたよ」葉子は眉間の皺を消さないまま、口元をほころばせる。「でもきっと、お互いの両親がそれを許してくれなかったはず。いつかは見つかって連れ戻される。そのあとできっと、もっとひどい現実が待っているんだろうって。そう思ったから、私は死ぬことを選んだの。それは他でもない、詩織ちゃんを苦しませないようにするために」
「葉子ちゃん……」
「なのにどうして……。私だって、自分の夢を叶えたかった。素敵な人と結ばれて、幸せな家庭を築きたかった。そしていつしか孫に囲まれて、惜しまれながら病院のベッドで亡くなって……そういう死に方をしたかった。なのに……」
誰だってそうだろう。過去に自殺した人は多いが、誰一人としてそれは追い詰められたからその道を選ばざるを得なかったという人ばかりのはず。それに、葉子の話を聞いていると納得できる部分があった。時折、本当は生きていたかったと、そう言ってるも同然な話しもあったな。
「……分かってるよ、葉子ちゃん」
「だったらっ……!」
「だから、その為に来たの」おばさんは涙を拭って、はっきりと前を向いて立ち上がる。「葉子ちゃん、今さらでごめんね」
「待ってお母さん、どうするつもり!?」
じっと様子を伺っていた秋希も立ち上がり、おばさんを止めるように腕を掴む。
「葉子ちゃんが欲しいのは、わたしの命。トオルくんのものでも、秋希のものでもない。そうでしょう?」
尋ねられた葉子は、頷く。
「……そうね。本人が来たのだから、もう詩織ちゃんの娘に用はないわ」
ヤツとしても願ったりかなったりだろう。他でもない本命が来たのだから。
「やめてよお母さん! そんなのあんまりだって!」
泣きべそをかく秋希。おばさんはそんな秋希の頭を、優しくなでる。
「秋希。あなたはもう十分立派になったわ」
「何それ、そんな話聞きたくない!」
初めての光景だった。思えば俺は今まで、秋希が誰かに甘えるという姿を見たことがない。けれども決しておかしな姿ではなかった。秋希だってまだ子供。誰かに甘えるのは当然だ。その相手が母親であれば、尚更おかしいところはない。
「お願い、わたしの話を聞いて」
「嫌だ! 逝かないでお母さん!」
駄々っ子のように、秋希はおばさんの胸元へ飛び込む。それをおばさんは、暖かく迎え入れた。
「わたしはね、葉子ちゃんと約束したの。一緒に死のうって」
「そんなの……知らないよ!」
「いい? 誰かと約束したら、それは絶対守らなきゃ駄目なの。わたしは守らなかったから、秋希やトオルくんたちを危ない目に合わせてしまった。一歩でも間違えれば、皆がわたしのせいで死んじゃってたのに」
「ねえもういいから、一緒に帰ろうよ!」
「けれどもあなたは、皆と力を合わせて乗り越えられた。だからもう、わたしに出来るのは……秋希がこれから、たくさんの経験をして、もっと立派になって、幸せになるのを見届けるぐらい。でもそれは、天国からでもできるのよ」
「嫌だよそんなの!」
「いいえ、きっとあなたならできる」
「絶対嫌! お母さんがそんな事言うなら、私、一人暮らしなんかしない! 悪い男と結婚して、傷つく度にお母さんに泣きつくから!」
それは冗談だろう。というか冗談であってほしい。おばさんも冗談として受け取ったのか、苦笑をうかべながらも秋希の前髪を優しくなでる。
「大丈夫。あなたは何も間違えたりしないから。それに……」するとなぜかおばさんは、俺を見る。「あなたのまわりには、あなたが道を違えた時に直そうとする人がいるもの。だから大丈夫」
それが、俺なのだろうか。確かにもし秋希が冗談まぎれに叫んだ通りの道を進むなら、俺は全力で止めると思う。でもそれは、涼野や小暮、坂橋に杏子だってそうだろう。
「でも嫌……!」
「秋希……」おばさんは秋希を強く抱きしめる。「……わたしの娘として生まれてくれて、ありがとう」
そう呟き、額に口づけをすると身体を離した。
「お母さん……!」
秋希の制止も空しく、おばさんは振り返る。
「葉子ちゃん。約束を今果たすね」
その表情は、決意に満ち溢れるように堂々としていた。強く握った拳や足は震えて、満足に呼吸も出来ていない。それでも、娘の為に命を張る。秋希は、いい母親を持っていたんだな。
そう感心しながら、対して葉子はと見る。だが葉子の様子がおかしかった。目を丸くして、顔を震わせている。
「どうして……」
「葉子ちゃん……?」
「どうしてなの……」すると葉子は、顔を両手で覆い、膝から崩れる。「どうしてみんな、私を悪者にするの……!」
葉子は泣いていた。
「葉子ちゃん……」
おばさんは再び、その名を呼ぶ。
「私、何も悪い事してないのに。どうして皆、私を悪者にするの? どうして私ばっかり、悪者にされなきゃいけないの?」
震える声で、切実に訴えかけてくる葉子。そんな彼女の側へ、おばさんは近寄る。そして彼女の肩に手をかけると、目を合わせた。
「葉子ちゃんは何も悪くないよ」
おばさんは首を横に振り、言葉を強調する。
「詩織ちゃん……」
「何も悪くないんだよ。わたし、葉子ちゃんが勉強を頑張ってた事も、運動だって陰で努力してたって知ってるよ。でも知らない人から見たら、きっとそれが厭味ったらしく見えたんだと思う」
「そんなの……分かってるよ」
「けどそれは、その人のせいなんだよ」本当は言っちゃいけないんだろう。だがおばさんは、明言した。「みんな、自分の境遇に満足してないし、抜け出す為に一杯努力してる。でも葉子ちゃんみたいに、壁を簡単に乗り越えるような人を見ると、その人たちは自分の努力は無駄だって思っちゃうんだよ」
「私、そんなつもりないのに」
「わたしもね、生きているうちにそういった、人間の嫌な部分を見て来たよ。何なら大学では、私も葉子ちゃんみたいな状況にいたんだからね」
「詩織ちゃんが……?」
「うん」葉子が教えてくれたおばさんは、勉強が出来ず運動も駄目だったそうだが。そんな相手から自分も似た境遇と言われば、誰でも驚くだろう「あれからわたしも必死で勉強して、気がつけば学内でも上位の成績を収められるようになったの。するとね、わたしと同じ道を歩んでいた人たちが、こぞって嫌な事を言うようになったの。どうせ体でも売って、教授らに成績をせがんでるんだろだろうって」
「それで、詩織ちゃんはどうしたの」
おばさんは自信満々に、首を横に振る。
「何も」
「え?」
「何もしなくていいんだよ。その人達の事なんか放っておいて、ひたすらに進めばよかったの。最終的に誰も何も言わなくなったし、その人達なんか私、今頃どうしてるかも知らないもの」
「そう……なんだ」
「もし葉子ちゃんにこの事を教えられたら、きっと……」
その先の言葉は続かなかった。言っても後の祭りって奴だろう。お互い分かっていたようで、その場で固まる。ふとおばさんは、葉子の瞼に滴っていた涙を拭いてあげた。
「本当にごめんなさい。葉子ちゃんとの約束を破っちゃって」
再三の謝罪。すると葉子は、首を横に振ると、おばさんへ抱き着く。
「……寂しかった。ずっと会いたかった。もっとお話をしたかった」
「葉子ちゃん……」
「もし願いが叶うなら、私……今度こそ詩織ちゃんとずっと居たい」その願いを俺は否定できなかった。秋希も涙をこらえつつも、何も話さなかった。「けど私、やっぱり悪者になりたくない。詩織ちゃんにまでそんな扱いされたら……私は……!」
葉子は拳を固く握る。おばさんはその手に優しく振れると、自然と手が緩んでいった。
「わたしが頑張れたのは、葉子ちゃんのお陰だよ。葉子ちゃんはいつだって、わたしの目標だから」
「詩織ちゃん……!」
感極まった葉子は、女の子らしい泣き声を上げた。それは恨みや怨念のこめられたものではない、人間らしい声だった。俺はしばらく、ずっとそうさせてあげた。
結局のところ、花菱葉子は被害者でしかなかった。妬みによって惑わされた人たちが、彼女を死へと追いやった。そこには、誰も彼女を心配するという気持ちはない。手前勝手な感情を優先して、劣等感をごまかして溜飲を下げたかっただけに過ぎなかった訳だ。結果、誰かが犠牲になったとしても、当人たちにはありふれた日常として処理しただけだろう。
確かに俺たちは、今晩で散々葉子に苦しめられた。死の危険すら何度もあっただろう。けど仕方のない事だ。人間社会において優しいや聖人君子という言葉があるのは、世の中に悪意の方が多いからだ。葉子だって向けられた敵意に対して、怒りの感情が沸いたりもする。その方向が間違っていたとしても、仕方がないだろう。それでもし俺や秋希、あるいは他の誰かが犠牲になったとしたら。それはもう負の連鎖の始まりだ。それは簡単に止められない、らせんのようなものなんだ。いつまでも続き、やがて全員が死ぬまで終わらないだろう。それを理解せずに、人は誰かを苦しめ続けるんだろうな。
しばらくして、葉子も落ち着いたのだろう。鳴き声が止んだ。二人は抱きしめ合ったままだが、俺たちに声をかけてくる。
「……トオルくんに、秋希ちゃん」
俺たちは呼びかけに応じるように、そばへよると膝をついてしゃがむ。
「葉子さん。これからどうするんですか」
秋希が恐る恐る呟く。葉子は穏やかな微笑みを見せた。
「私は……やっぱり悪者になれない。だから、皆を帰してあげる」
「お母さんも……?」
「本当は一緒に居たいけど、でもあなたから詩織ちゃんを奪うのは嫌だから。もうこれ以上、悲しみたくない。悲しませたくない」
「葉子さん……」
するとそこへ、おばさんも顔を向ける。
「でも少し待ってて。わたし、しばらくは葉子ちゃんと一緒に居たいから」
「お、お母さん……?」
「大丈夫」変わって、葉子が答える。「ちゃんと帰してあげるから、心配しないで」
「本当に……?」
「ええ。約束するから」
葉子が口にした約束は、何物にも代えがたいほどに重く感じられた。それだけに、信用もできると思えた。
「……分かりました」
秋希はしばらく考え込んだのち、そう答える。葉子は微笑みで答えると、今度は俺の方へ向く。
「トオルくん」
「えっと、俺に何か用でも?」
「用って程じゃないけど、でも……」葉子は頬を赤らめながら、微笑む。「羨ましいって、思っただけ」
「は、はぁ……?」
一体何が羨ましいというのか。ひりついた空気も和らいで、俺はつい気が抜けてしまった。
「その真っ直ぐな気持ち、いつまでも忘れないでね」
「え、えぇ、まあ……」
誉め言葉として受け止めるべきなんだろうか。ひとまずはそう返事をしておく。
「さあ、二人は早く行って」すると今度は、手を振り払う仕草を取る葉子。「最後に、二人だけで話したいから」
「……トオル」
葉子の言葉に同調するように、秋希が俺の手を掴む。
「あ、ああ」
そうだな。ようやく会えた二人なんだから、水入らずでいろいろ話したいだろう。邪魔しちゃ悪い。そう思って、俺も頷いて、もう一度葉子の方へ振りかえる。
「……じゃあな、葉子さん」
「……葉子さん。お母さんの事、お願いします」
続いて秋希も、別れの挨拶を告げる。
「他の皆にも伝えて。巻き込んでごめんなさいって」
葉子の言葉を受け取り、俺たちは振り返って光の方へ歩く。途中で振り返りたい気もしたが、振り返らなかった。別に戻れないとかそういうんじゃないが、これ以上あの二人の邪魔したくなかったからだ。
光の中に入っていくと、暗闇が消えていった。つい振り返ると、そこにはすでに二人の居た暗闇が無くなっていた。
「大丈夫だよ、トオル」心配になった俺へ、分かったように告げる秋希。「葉子さんはきっと、お母さんを無事に帰してくれる」
「いや、分かっててもな……」
何となく不安に駆られてしまう。だがそんな俺の手を、秋希は握り締めて来た。
「トオル」
秋希は上目遣いになって、俺をじっと見つめる。
「……何だよ」
「さっきトオル、私を助けるために手を伸ばしたでしょ?」それがどうした、と心の中でつぶやく。「あの時ね、本当は嬉しかったんだ」
「はぁ……?」
「そりゃあ、私だって本当は死にたくなかったよ。まだやりたい事はたくさんあるし、それに……」
「それに?」
尋ねても、言葉は続かなかった。それから俺たちは、じっと互いに見つめ合う。秋希め、一体なにを考えているんだか。疑問に思いつつ、何となく待ち続けている。てかこれ、どうやって出るんだろうか。
そう考えていると、どこかから聞き覚えのある声が聞こえた。
「……これ、誰の声だろう」
秋希も聞こえたようで、辺りを見回す。するとどこから現れたのか、金髪の見覚えある男がこちらに向かってくるのが見えた。
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