第31話 記憶
目が覚めると、俺は教室のような場所に立っていた。そこには見覚えのあるセーラー服を着た女子生徒達や、学ランを着た男子生徒たちが授業を受けていた。皆昭和時代に流行っただろう髪形なりをしており、教師も見るからにきつそうなビン底眼鏡をかけていた。
窓の方へ目をやると、建設途中のビルや古めかしい住宅街が並んでおり、その先で、果てしなく続く工事用の布が建てられた場所もあった。俺は何となく、この景色に覚えがあった。
ここは恐らく、俺たちが通っていた学校の過去だろう。現在とは何もかもが違うが、雰囲気は全く同じだった。
他にもおかしな点があった。どうやら生徒達は俺に気が付いていないらしい。教師が黒板から手を放して、誰かを指す。声は聞こえなかった。俺はその教師と目を合わせたつもりだというのに、向こうは何の反応も示して来ない。突然見覚えのない恰好をした男が来ていると知れば、普通は何らかの反応をするだろうに。指されたと思われる女子生徒は、立ち上がり投げかけられた質問を答えていた。
どうしてこんな場所に来たのだろうか。俺はひとまずその場を去り、戸のかけ口へ手を伸ばした。だがかけ口をうまくつかめず、あろうことかすり抜ける。つい自分の手を見たが、はっきりと見えていた。あるいは俺も、幽霊となってしまったのだろうか。
戸をそのまますり抜けようとすると、身体は何かにぶつかる事もなく廊下へと出る。その先の景色も、やはり俺の通う学校のものだった。俺は廊下を進んでいく。
途中で、おばさんのクラスだと思う教室を見つけた、戸をすり抜けて覗いてみると、窓際の方にかつてのおばさんの姿があった。おばさんは必至に黒板とノートを交互に見て、がりがりと音が聞こえるくらいに書き込んでいた。近づいて覗いてみると、かなり汚いノートが出来上がっていた。そういや、秋希もあまり字がきれいな方じゃない気が。一応書道教室に通って矯正したと言ってたっけか。どうやらこの辺は受け継がれているらしい。
こうしていてもやはり気がつかれないあたり、この世界では誰も俺を認識していないようだ。これが死後の世界ってか。にしては想像していたものとは違いすぎる気が。
おばさんの様子を見ていると、花菱葉子の事についても気になった。一応、他の教室を覗いてみる。確かあの女曰く、おばさんとは別のクラスだったそうな。ならあの卒業文集にあった写真にいないのも当然だ。いや、それでもきっと写ってないだろうな。
やがて葉子がいる教室を見つけられた。奴はおばさんと打って変わり、授業をラジオのように聞き流していた。黒板を見る代わりに、切なそうな表情で窓の外を見る。きっと建造途中の建物を見ながら、黄昏ているのだろうか。窓の向こうでは、俺の時代では建っているはずのビルが鉄骨だけになっていた。
その教室では、何人かの男子生徒が葉子をちらちらと見ていた。何人かは友人同士でこそこそ話し合ったりして、その度に教師が振り返り喝を入れるような表情を浮かべる。男子生徒は萎縮していた。そんな事があっても、葉子は振り返らず窓の外へ顔を向けたままだった。試しにノートをちらっと見ると、とても美しい字体で、既に黒板の内容が、その後書かれるだろう内容含めてノートに写し出されていた。
突然誰かの身体が見えて、驚きのあまり後ずさる。どうやら授業が終わったようで、各々立ち上がったり背伸びをしたりしていた。だが葉子は立ち上がらず、ずっと黄昏たまま。
辺りを見回していると、意地の悪そうな女子生徒がこちらにやって来る。片手にはノートを持っていた。彼女は明らかに葉子の方を注視し続けている。何をするつもりなのかと眺めていると、女子生徒は葉子の頭でノートを開いた。するとノートからは消しゴムのカスが降りそそがれる。ぱたぱたと念を押すように女子生徒ははたいて、後ろで見ていた仲間の女子生徒らと笑い合うと、葉子へ何かを告げてそのまま仲間の元へ戻っていく。彼女らは満足したのか、教室を出て行った。
これは間違いなくいじめだろう。過去のものとはいえ、俺はやるせない気持ちになった。だが葉子の方は、そんな事も気にせず相変わらずと言った様子だった。その表情は、まるで諦めていたかのように映っていた。彼女にとっては、こんな事序の口なのだろう。もっとひどいいじめを受けていたに違いない。
同情していると、いきなり葉子は頭に残った消しカスを振り払い、表情を明るくして廊下の方へ顔を向けた。なにがあるのかとそちらを向くと、おばさんが葉子に声をかけていたらしい。葉子はすぐさま立ち上がり、駆け出しておばさんの元へと向かっていった。俺も後を追いかけるように廊下へ出たが、何故か突然、いたはずの生徒達がすべて消えていた。まるで夕暮れを過ぎたかのような景色だった。
そこで改めて、冷静さを取り戻す。俺はどうしてこんなとこにいるのか。そうか、秋希を助けようと、一緒に飛び降りてしまったんだっけか。肝心の秋希はどこにいるんだろうか。
考えがよぎる。もしこれが葉子の見せているものなら、きっと屋上にいるかもしれない。あるいは先に、秋希がこの景色を見ていたんだろう。だとすると、その上で死を提言するに決まってる。俺は急いで、屋上へと向かった。
屋上ではやはり、花菱葉子と秋希がいた。だが二人とも俺が来るのをまっていたかのように、まだ廊下にいるこちらへ一斉にふり向く。ドアは開けてないし、この世界では音が聞こえないはずなのに。
「トオル……」
秋希が心配そうな表情を向けてくる。
「秋希」
不思議と息は普段通りだった。結構走ったつもりなんだけどな。
「結局、キミも来てしまったんだね」
葉子は落胆した様子で、俺を睨む。
「みたいだな」
「みたい、じゃなくて。どうしてトオルも来ちゃったの」
秋希は眉間にしわを寄せて、俺の肩を掴む。どうやら俺達は互いに触れられるらしい。同じ死人――というよりは幽霊だからだろうか。
「悪い。思わず飛び込んじまった」
「思わずって……。トオル、昔からよく考えないで行動する時あるけど、今回ばかりはやめてほしかった」
言われた通り、俺は時々自分でも何でこんな事したのかという行動に出ることがある。例えば中学時代に秋希を罵り始めた時とか。行き当たりばったりって言う奴か。
「でも後悔はしてねえよ」
「トオルはそうでも、私はやるせないよ。死なせちゃったし」
死なせた、という事はやはり、俺たちは死んだのだろうか。俺は葉子の方を見る。奴はこちらを見ていたが、特に反応はなかった。
「なあ」試しに呼びかけてみる。「ここはいわば死後の世界ってヤツなのかよ」
すると葉子は俺から目を離して、手すりにもたれかかる。俺も奴が見て居た方へと顔を向けた。これが昭和の夕暮れってやつなのだろう。古めかしい住宅街に、発展途中の街並み。時折通る車は懐かしの愛らしい形を帯びており、行き交う人も一様に黒い髪をなびかせる。俺たちの時代じゃあ、染めた髪の方が当たり前なのに。葉子はこの景色を見ながら死んでいったのだろう。
「今とは全然違うでしょ」
俺の心を見透かしたように、葉子が尋ねる。
「質問に答えてくれよ。ここは死んだ後の世界なのか」
「ここは、いわゆる三途の川って所。現世である此岸と、あの世である彼岸の境目」
「にしちゃあ川が見えないな」
正確には、景色の奥の方に川は見えている。だが学校からは程遠い。
「実際に見た人はいないからね。もしいたとしても、その人は必ずあの世へ行くから」
だから、正確には知らないってか。
「でも三途の川って概念があんだから、誰かしらはここに来て生還したんだろ」
「さあ、それは私には分からない」心底どうでもいい話だったのか、葉子は深くため息をついてからこちらを再び見る。「それで、どうだった? 私の学校生活は」
俺は先ほど見た景色を思い出す。恐らくあれは氷山の一角だろうし、葉子は同情を求めていない。
「あんたがどういう学園生活をしてたのか分かったよ」
「そう。どれだけ頑張っても、誰も褒めてくれない。いいえ、詩織ちゃんだけは褒めてくれたっけ」
ふと空模様が怪しくなっていった。だんだんと暗い雲が空を覆い、風も吹いてくる。だが俺達は風に触れる事も、煽られもしなかった。木々もゆれているのに、ざわめきが聞こえない。次第に大粒の雨が降り始めるも、それらは全て俺達を通り抜けていく。
ふと入口の方に、二人の女子生徒がやって来る。おばさんと葉子だった。葉子は意を決したように硬い表情を浮かべていたが、おばさんはまだ戸惑っていたのか、眉をㇵの字にして背中を曲げていた。
「『詩織ちゃん。もうすぐだね』」
葉子がつぶやいた。いや、生前の葉子が口を動かしていたのに、声は後ろから来ていた。振り返ると、幽霊の葉子があの時口にした言葉を再現していたらしい。
「葉子さん……?」
「『大丈夫。死んでも私たちはずっと一緒だから』」
再び生前の葉子達へと顔を向けると、どうやらおばさんがしり込みをしたらしい。手を握っていたが、その場を離れようとしていた。
「『詩織ちゃん。このまま生きてみた時の事を考えて』」再び口パクに合わせて、幽霊の葉子が吹き替えを続ける。「『詩織ちゃんだって、もしかすると売られるかもしれないんだよ。愛してもいない里親だとか、薄汚い男にいいように弄ばれたりとか、詩織ちゃんはそれでいいの?』」
その言葉で意を決したのだろう。おばさんはおもむろに顔を上げると、柵の方を見据えて頷く。
「『大丈夫。ずっと私が手を握っててあげるから。こうすれば、死んだ後もずっと一緒に居られる』」
やがて二人は柵を越える。不思議な光景だった。生前の葉子の背後に、幽霊となった葉子が手を沿える。やがて強風が吹き荒れたのだろう、おばさんがつい手を放して、両手で柵を掴む。だがその一方で、風にあおられた葉子が宙へと投げ出される。
「あっ……!」
我を忘れたのだろう、秋希がつい声を洩らして、手を伸ばそうとした。だが手は届かず、葉子の身体は地面へと落ちていた。残ったおばさんは、やがて風が収まるとヤツの落ちた場所を見つめる。その表情は段々と青ざめていき、やがて耐えられなくなったのか柵に頬を擦りつけて涙を流していた。何度か同じ言葉を呟いて、柵を越えてこちらに戻って来る。そして逃げるように屋上を離れていった。
「ごめんなさい……」
秋希が呟く。それは誰かに謝るためではなく、自らの母親が口にした言葉を述べただけだろう。口の形からして、俺もそう言っていたのではないかと見当がつく。
「きっと詩織ちゃんならそう言ってたんでしょうね」葉子は柵を握る。段々と力を入れて言ったようで、指が震えていた。「けど謝る位なら、どうして私を見殺しにしたの? 一緒に死のうって約束したのに」
葉子は誰に言うわけでもなく、呟いて自分の肩を抱く。それから両腕を降ろすと、再び俺たちへ顔を向ける。
「これで分かったでしょう。詩織ちゃんが裏切ったって」
たとえそれがしてはいけない約束だとしても、約束をしてしまった以上守るべきだろう。違えれば裏切りとなる。ごく普通の理論だ。葉子がおばさんを恨むのにも一理ある。命という取り返しのつかない部分で約束をしたのなら当然だ。けどその代償に、関係のない人間を巻き込むのは間違っている。たとえそれが当人の娘だとしても、そこに手をかけるのはいけないはずだ。
「だからって、どうして秋希なんだよ」
「話を聞いてなかったの? 私はね、裏切りの代償として選んだの。私たちは一緒に死のうって、確かに約束したのよ? なのに約束を破ったのだから、代償を求めるのは当然でしょ」
「葉子さん、アンタは代償が欲しいのか?」
「そうだって言ってるでしょ」
再三尋ねられて、葉子は機嫌を悪くしたらしい。眉間にしわが寄り始めていた。
「なら葉子じゃなくて、代わりに俺が一緒に死んでやる。それならどうだ」
バカな考えだってのは分かってる。でも秋希を見殺しにするくらいなら、俺が死んだほうがマシだった。
「は?」
「ト、トオル何言ってんのっ!」
よほど素っ頓狂に聞こえただろう葉子は、首をかしげる。秋希の方は、ひどく取り乱していた。
「確かに俺は東峰家の人間じゃないし、おばさんや秋希の父親と交流こそあってもそれだけだ。けどアンタが代償をもとめるってんなら、別に俺の命でもいいだろ」
「お願いだから、トオルやめて!」
秋希は俺の腕につかまり、何度も強く揺らしながら訴えかける。葉子の方は、どうやら呆れたのか肩をすくめていた。
「何を言うかと思ったら。あのねキミ、それは道理にかなってないのよ」
「俺だって理屈にあってないのは分かってんだよ。けど、友人が黙って死ぬのを見過ごせる程賢くねぇんだよ俺は」
「トオル……」
心配そうに見つめる秋希。俺もそちらを見て、頷く。
「それにお前のほうが、いろんなヤツから必要とされてんだろ。なら、お前は生きるべきだ」
「でもそれじゃあトオルが……」
「気にすんな。自業自得で死んだって思っとけ」
少しでも気晴らしになるように、そう言ってみる。けど秋希は首を横に振る。
「嫌だよそんなの。それこそ私が耐えられないよ」
「俺だって同じだ。お前を見殺しにしたら、ぜってぇ一生後悔する」
「トオル……」
お互い譲らずか。中学以来だろうなこんなの。高校入ってからはこうやって言い合う事もなくなったし、本当に懐かしい。相変わらず秋希は譲る気がないようで、頑なに俺の腕を離さない。かくいう俺も、譲るつもりは毛頭ない。ホント、俺たちって気が合うよな。
などと思っていると、どこかから禍々しい雰囲気が漂ってくる。そちらを向くと、葉子が鬼の形相とも言える表情でこちらを睨んでいた。
「……どうして」まずい。そう思った時には何もかもが遅かった。「どうしてなの。何で貴方達はそうやって、互いを……!」
言葉に詰まったかと思うと、葉子は頭を抱えて発狂したように叫ぶ。その声は耳がさけるほどに強く、俺は耳を塞いだ。しかも霞む視界の中、景色が黒ずんでいく。葉子はその中でさらに叫びながら、地面に拳を打ちつけたり首を何度も横に振っていた。
「や、やめろ……!」
その声が届いたのかは不明だが、しばらくして葉子は一旦落ち着きを取り戻す。だが表情は変わらなかった。
「どうして、私にはそんな人がいなかったの! みんな私を罵って、邪な感情を向けて、お父さんやお母さんだって、私に少しでも寄り添ったことないのに! 何で貴方達は!」
「葉子さん……! 落ち着いて……!」
「どうしてなの! 私何か悪い事でもした!? ただ必死に勉強して、運動も頑張って、それの何が悪いの!? 見た目は生まれつきだからしょうがないでしょ!? 私だって男たちのいやらしい目つきで見て来る事を知ってたら、女の子から妬まれるって知ってたら、こんな顔で生まれたりしなかった!! 誰か教えてよ! 私の何がいけないの!」
なぜかは知らないが、段々と力が抜けていく気がした。まるでどこかへ落ちていくような感覚が押し寄せる。その間も葉子は何度も「私の何がいけないの」と叫び、悲鳴を上げ続けた。せめて何か一声でもかけられればと、俺は必至で喉に空気を取り込もうとした。だがうまく入らない。そもそもこの世界に空気という概念があるのか。鼻や口に、空気の感触がない。ここは本当に、生と死の境目だって言うのか。
既に辺りは景色を失い、真っ黒な空間だった。道もなければ壁もない。だが互いの身体は見えている。秋希も葉子の叫びに、耳を塞ぎながらのたうち回っていた。せめて秋希だけでも、そう思って手を伸ばす。けれども届かない。進もうにも、身体を押し寄せる落下感が進んでくれない。きっと俺たちは、本当に落ちているんだろう。その先が天国か地獄かは分からない。けどただ一つ分かっていたのは、俺は答えを間違ったという事だけだ。結局俺は、秋希を死なせてしまうんだろう。あげく俺自身ですらあの世行きなのだから、とんだへまをしたもんだ。段々と手に力が入らなくなり、耳から両手が離れる。
「違う、悪いのはお前達だ! 私を蔑んだお前達が悪い! 何もしないお前達が悪い! 違う、私が死ぬんじゃなくて、お前達が死ぬべきだったんだ! そう! 全員が死ねばよかったんだ! 私じゃない、お前たちだ!」
おまえたちというのは、俺と秋希の事ではない。葉子をいじめ、蔑み、邪な感情を向けた者達の事だろう。けどそんなのは何の慰めにもなかった。どうせ俺たちはもう、死ぬんだから。
「やめて! 葉子ちゃん!」
ふと目を閉じかけた時、一条の光と共に聞き覚えのある声が聞こえた。すると葉子も発狂を止めて、静かにそちらを見る。
「……詩織ちゃん」
そこにいたのはほかでもないおばさんだった。姿形は俺が知る中年女性の姿ではあったが、葉子は彼女が東峰詩織だと分かったようだ。
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