第30話 怨霊

 屋上へとつながる小窓から、外の様子が見えた。相変わらず雨は激しく降りそそぎ、風も荒れている。だがその真ん中で、雨風をものともせずに佇む姿があった。以前この学校で使われていた、旧式のセーラー服に身を包む女子生徒。ふと目が合うと、奴は手招きをした。俺はドアノブに手をかけて、捻る。普段締まっているはずの鍵は、開いていた。その時思った。きっと今まで、あの女が道を示してたんだろう。そして……。

 そこから先の話は、本人から聞く方がいいだろう。俺はドアを開けた。突風が一斉にやって来るが、二階での暴風のように吹き飛ばされるほどではない。体中に雨も打ち付けるが、痛みや冷たさは自然と感じなかった。俺たちは一歩一歩を踏み抜いて、少しずつ女子生徒に近づく。


「やっぱり、来てくれたんだね」


 女子生徒は呑気な表情でこちらを向く。


「あんたに話がある」


 やがて手が届く距離まで近づいて、俺たちは足をとめた。


「こんな天気の中で?」


「聞かせてくれ。あんたが死んだときも、こんな天気だったのか?」


 尋ねると、女子生徒は笑みを消す。沈黙の中、雷が鳴った。


「言った通りだったでしょ」


 雷が鳴る頃に、正体がわかる。でも俺はもっと前から知ってた。というより、簡単な推理ですぐ辿り着ける。自分達が怪奇現象下にあると否定しなければ。

 次に質問しようと、秋希が前に出てくる。


「教えて。私のお母さん――東峰詩織とはどんな関係だったの!?」


 その名前が出てくると、女子生徒はわずかに眉を吊り上げる。


「詩織ちゃんは何も言わなかったんだね。娘にも私の事隠して」

「お母さんと何があったの! 教えて、葉子さん!」


 名前を出されて、女子生徒は微笑む。


「私の名前、ちゃんと知ってくれたんだ」


 答えにたどり着くのは難しくなかった。同学年でありながら集合写真に写らず、しかし俺たちの知りたいことを知っている。俺たちの目の前にいる、セーラー服に身を包んだ女子生徒こそが、自殺した花菱葉子だった。


「お願い、教えて」


 再三の問いかけに、葉子はすぐに頷いた。すると突然、辺りは時が止まったように動きがなくなった。風はなくなり、水滴は宙に浮いたままたゆたう。


「何これ……どうなってんの」


 うろたえる杏子。坂橋、小暮も落ち着かない様子で当たりを見回した。


「なるほど」だが唯一、納得したように涼野が頷く。「この世界の主は、葉子さんなんですね」

「賢いね。さっきの推理もお見事だったよ」葉子の言葉を聞いて、涼野は息を飲む。俺たちの話は全部筒抜けだったのか。「今この世界は現実世界と切り離されてるんだ。あなた達の現状は、文字通り神隠しにあっているという状態なの」

「一介の幽霊に、そんな力あるはずがないと思います」

「けど時間はあった」葉子は指を三本立てて、俺たちに見せる。「約三十年。その間に自分が置かれている状況、出来る事。全てを把握する時間は充分にあったから。後は望みが叶う瞬間を待っていただけ」

「でもその為には、秋希ちゃん……いいえ、東峰詩織さんの縁者が必ずこの学校に通うという確証がないと無意味だったはずです」

「けれども来た」葉子は腕を降ろす。「まあ確かに確証はなかったよ。何人かそれっぽい子を連れて来た事もあったけど、皆詩織ちゃんとは無関係だったもの」

「もしかして、時折出てた行方不明者は……」

「そう。私がこの世界に連れて来たの」得意げに微笑む葉子。まるで巻き込んだ相手をお構いなしという表情に、虫の居所が悪くなる気がした。「でも安心して。皆すぐに返してあげたから」

「確かに……全員何事もなく生還できてる……」


 俺が知る限り、行方不明なまま一生見つからないという事件はなかった。図書室で調べ物をした際にも、記事になったほどの事件には発展していない様子だ。


「私が干渉できるのは、あくまでこの学校の中だけ。だから詩織ちゃんと深いつながりがある誰かが来るまで、待つしかなかった」

「それじゃあ、この一件は全て……」

「あなたが考えた通り、本当の目的は……」葉子は秋希へ指を向ける。「詩織ちゃんの娘である東峰秋希、あなたよ」


 指されて、秋希は胸元で拳を握る。


「どうして、お母さんを恨んでいるんですか」

「もちろんその話もしないとね。詩織ちゃん、教えてあげてないみたいだし」俺達はかたずを飲む。葉子は一体、おばさんとどういった関係なのか。奴は手すりから身体を離すと、屋上の中心へと立つ。「私と詩織ちゃんんは、唯一無二の親友だった」

「親友……?」


 秋希が驚く。俺も驚愕を隠せなかった。今までに一度も、そんな話を聞いたことがなかったからだ。


「当時私は……自分で言うのも何だけど、優等生だったの。成績も一番で、運動も得意。けれども、誰もそんな私を褒めたりしてくれなかった。周りの女子からは妬まれ、蔑まさて、散々ひどい事をさせられた。かくいう男子だけど、大勢が擦り寄って来たわ。でも全員、私の身体だけが目当てだったの。そうやって毎日、嫌な学校生活を送ってた」


 実のところ、花菱葉子はあの卒業文集にあった集合写真の中で、一番の美人だと言える。たとえ当時の粗い写真で見ても、その事実は変わらないだろう。こんな美女、普通の男なら黙って見過ごすはずがない。そんな彼女が女子から顰蹙を買い、男子から邪な眼で見られるのは間違いないだろう。


「転校とかは……?」


 恐る恐る秋希が尋ねると、葉子は首を横に振る。


「両親にも行ったけど、駄目だったの。うちはかなりの名家で、父も母も、娘が進学校を転校したなんて話を広めたくなかったんだと思う。だから私は、嫌でも通わざるを得なくなった」

「そう……だったんですか」


 秋希にも覚えはあるんだろう。葉子の悲し気な声色につられて、顔を落とす。


「そんな時に、詩織ちゃんと出会った。彼女も同じく立派な家柄で、この学校に入学してきたの」


 思えばおばさんは、実家に帰ることをひどく嫌っていた。俺も機会があって何度か実家について尋ねたものの、適当にはぐらかせされた上、その話のおわりは必ず「二度と帰る気はない」で締めくくられていた。最初は親離れをしたいんだろうと思っていたが、秋希から実はかなりの名家だったと聞いて、思わず耳を疑ったんだよな。


「詩織ちゃんは、はっきり言って私とは真逆だった。勉強はてんで駄目だし、運動だって、それはもうぐずでのろまで……」罵倒している割には、とても嬉しそうに話す葉子。「……でも、こんな私をありのままで見てくれたの。羨ましいだとか、目標だとか。あの目の輝きは、今でも忘れられないよ」


 それは、俺がしるおばさんとは全く違っていた。運動については確かに秋希からも「からきし」だとは聞いていたけど、勉強に至ってはどうだろうか。もし本当に頭が悪いなら、医者にはなれていなかったはずなのに。


「二人は普段、どういう事をしていたんですか」


 興味本位からだろう、涼野が尋ねる。


「普通だよ。一緒に勉強したり、遊びに行ったり。クラスは違ったけど、授業や寝る時以外はずっと詩織ちゃんと一緒だったっていう感じ」

「ならどうして、お母さんを恨んでいるの」


 ここまでで葉子がおばさんを恨む理由はない。尤も、こういうのはありふれた話だった。大抵その後で、何かしらの問題が発生する。


「全てが狂ったのは、私の両親が死んだとき」葉子は穏やかな表情を消して、影を落とす。「不慮の事故だったって。酔っ払いが運転していた車が歩道に入って、そのまま……」


 言葉は続かなかったが、そこまで言われれば分かる。車は葉子の両親を撥ねたんだろう。


「そんな事が……」

「でも両親が死んだのはどうでもいいの」涼野の言葉を遮り、葉子は首を横に振る。「その後、私は親戚の人に預けられることになった。けどその人たちは両親をひどく妬んでいて、死を喜んだばかりではなく、娘である私をひどく扱ったの」


 少しずつ、葉子は怒りを露わにしつつあった。


「ひどい事をされたんですか」

「それはもう。家に入れさせてくれなかったり、学費を出してくれなかったり。何なら私を娼婦として売ろうとすら考えたりもしてたのよ」


 葉子の話を聞いて、俺はどうすればいいのか分からなくなってしまった。彼女が口にしたそれは、俺達高校生にはあまりにも残酷過ぎる現実を示していたからだ。


「けど同じころに、詩織ちゃんも成績不振で退学を迫られていたの」

「……お母さんが?」

「ええそうよ。でも詩織ちゃんも、両親から退学や転校は許されなかったの。詩織ちゃん、私から勉強を教わるたびに謝って来たの。出来なくてごめんなさい。とんまでごめんなさいって」


 聞いて、秋希の表情が一層暗くなっていく。自分の母親にそんな過去があったなんて、知りたくもなかっただろう。


「だから私たちは、死ぬことにしたの」


 いよいよ本題に入るかのように、葉子はじっと俺たちを見つめる。


「そんな……」


 秋希も言葉を失った。


「勿論詩織ちゃんも頷いてくれたわ。お互い、もう辛いのから逃げたいって一心で」葉子は天を仰ぐ。「丁度この時期に試験が迫ってたね。死ぬにはちょうどいい時期だよね」

「それで、葉子さんは……」


 涼野がおそるおそる尋ねる。葉子は深く頷いた。


「あの時も、こんな嵐だった。私たちは互いの手を取って、屋上の柵を乗り越えた。それから一緒に死のうとしたけど、詩織ちゃんが怖いって言って。その時たまたま吹いた風が強くて、私たちはつい手を放してしまったの。私は風に吹かれるまま、先に飛び降りたの。でも別に良かった。だってもうその時には、今すぐに死にたいって思ってたから」

「お母さんは、どうなったの」

「そう。そこで私は裏切られた」ふと雷が鳴る。再び雨粒が降りてきて、風が強く吹き荒れる。「最後に見た時、詩織ちゃんは逃げ帰ったの。柵をまたいで屋上に戻り、そのまま死んでいく私に目もくれず消えた」


 それがいい事なのか悪い事なのか、俺には到底判断できない。けれども葉子にとっては、ほかならぬ裏切りに感じたのだろう。


「葉子さん……」

「最後の最後で、心の底から信頼していた相手に裏切られる。その気持ちが分かる!? 私はずっと、詩織ちゃんだけはって思ってたの! なのに彼女は、最後まで私の後を追ってこなかった!」


 怒りの形相へと変わる葉子。死人でありながら、鬼気迫る迫力に圧倒されるほかなかった。


「当然私は恨んだ。逃げた詩織ちゃんを許さないって。私を裏切った事を後悔させてやるって!」言い終わると、眉間の皺を消して、代わりに高笑いをする。「けれどもその三十年後、あなたが来た。東峰詩織の娘、秋希が」


 葉子が再び指を指す。


「どうして私なの」

「決まってるでしょ。詩織ちゃんは私を見殺しにしただけじゃなくて、勝手に幸せすら手に入れていた。ならその結晶であるあなたさえ死なせれば、詩織ちゃんに対するこれ以上ないくらいの復讐になる!」

「葉子さん、そこまで……」


 恨みが尋常でないが、同時に理知的でもある。おばさんにとって、秋希はかけがえのない存在だろう。それを奪うというのは、確かに自らの死よりも苦痛となる。


「これで分かったでしょ。確かにあなたは何も悪くない。でもあなたは、母親のせいで死ぬの」

「お母さん……」


 秋希は落胆するように、膝から崩れる。


「秋希ちゃん……」


 側へ涼野が近寄り、背中をさする。葉子は思いのたけを打ち明けたからだろうか、段々と穏やかな表情へと戻っていった。


「葉子さんよ」今の内にと、俺は声をかける。「いくらなんでもそりゃあんまりじゃねえのか」

「ト、トオルっ……!」


 背後で坂橋が呼びかけるが、俺は無視した。


「キミの言ってる事は分かるよ。でも悪いのは詩織ちゃんだから」

「あんたが恨んでいるのはおばさん――詩織さんだろ? なら本人を相手にすりゃいいだろ」

「それは出来ないの。御覧の通り、私はこの学校にだけいられるから。ここから出られないの」

「……この場所に縛られているんですね」


 ふと涼野がぽつりとつぶやく。葉子はいわば、地縛霊のようなものか。死に場所であったこの学校の屋上に、何十年と棲み憑いていたのだろう。


「正確には、自分で縛りつけてるって感じだけどね」

「なら本人を連れてくりゃいいのか?」

「……トオル?」


 つい出た言葉に、秋希が驚愕の目を向ける。


「詩織さんと話が出来るなら、それでいいのか?」


 だからって別に、秋希の身代わりとして差し出すつもりはない。お互いに真実を話し合って、どうにか和解できればと思ったから提言しただけだ。だが葉子は、首を横に振る。


「お生憎だけど、もうその力は残ってないの」

「何?」

「これまであなた達に降りかかった現象は、全部私自身がやってたのよ? この天気も、ガイコツの模型を動かしたりも、一階を水没させたりもね」

「まさか、乗り移ってたんですか!?」

「ええそう」葉子は頭を軽くさする。「死んでも痛いのは痛いのね。あなた達、本当に容赦ないんだから」


 それで合点がいく。あのガイコツの模型も、人体模型も、全て葉子が乗り移って操っていたんだろう。だから人を殴ったような感触があったのか。


「……それは悪いと思ってるけど、だからって俺達を襲う理由はなかったろ」

「それはその子がさっき教えてくれたと思うけど」


 葉子は涼野を見つめる。


「わたし、ですか」

「言ったでしょ。推理はあってるって。でもその度に、たまたまあなた達も居合わせてたの。だから自分達も襲われたって思ったんでしょうね」

「……マジかよ」


 後ろで、小暮が倒れ込むのが分かった。


「そのお陰で、この三十数年ため込んだ力を全部使いきってしまったけど。本当にしぶとい人たち」


 褒められているのかけなされているのか、どっちにしろ嬉しいとは思えなかった。


「だから、秋希ちゃんのお母さんと会えないと?」

「自由にあなた達を送れないから」葉子はふかくため息をついた。死んでいるからか、あるいは強風の影響か風は聞こえなかった。「でも彼には提言した通り、あなた達は無事に帰してあげる」

「マジかよ……?」

「ホントに……?」


 坂橋と杏子が声を揃えて尋ねる。すると葉子は再びにやりと笑い、秋希の方へ顔を向ける。


「そこで取引。あなた達を無事に帰すかわりに、東峰秋希。あなたには私と一緒に死んでもらう」

「な……!」


 涼野は飛び上がるように、秋希から離れる。嫌がったというよりは、驚いてつい後ずさってしまったのだろう。


「何考えてんだよ、あんた」


 俺は秋希を庇うように前へ出る。


「もう分かってるでしょ。私の望みは、詩織ちゃんを苦しめる事。彼女の娘が命を捧げるのなら、巻き込まれた君たちを無事に帰してあげるって言ってるの」


 この女、そこまでして東峰家を苦しめたいのかよ。どうかしてるぜ。いや、どうかしているから死んだあと成仏しないで、化けて出て来てるんだろう。


「……本当に、皆を助けてくれるの」


 ふと秋希が変わって俺の前に出る。まさかこいつ……。


「やめろ秋希」

「でもこのままじゃあ皆死んじゃうんだよ。私、自分のせいで皆が死ぬのは嫌だから」

「だからって自分を犠牲にするなよ。そんなのおかしいだろって」


 つい言葉が出てしまう。いや、言わないといけない。こんなとこで秋希を見殺しになんてできるはずがないだろ。


「駄目だよ秋希ちゃん! 幽霊の話は信じちゃ駄目!」

「本当だよ。ちゃんと助けてあげる」涼野の言葉に、葉子が答える。「トオルくんだっけ? キミにはもう既に提示したはずだよね」


 確かに葉子は、一度俺に逃げる機会を与えている。あそこでは逃げなかったが、その気になれば俺達だけでも逃げられるだろう。


「あんた、そこまで……」

「キミたちを巻き込んだのは本当にごめんなさい。でも大丈夫。そこの金髪の子だって、傷は元通りにしてあげるから」


 葉子は杏子の怪我した足を指さす。


「……ホントに?」

「もちろん。痛かったでしょ? 本当にごめんなさい」


 恐らくあの時点で、秋希をいかに殺すかだけを考えていたんだろう。結果的に深手を負ったのは杏子だったが。


「よせよアン。秋希を見捨てる気か?」

「ば、バカっ! 誰も見捨てるなんて言ってないでしょうが!」


 坂橋と杏子も、葉子の提案に反対しているようだ。次に小暮が気になる。このなかで一番逃げたがっているヤツだが……。全員がそちらを向く。


「た、確かにおれは今すぐ逃げたい。けど……、それで秋希が犠牲になるのは間違ってる」


 俺たちに気を使ったのではなく、本心からだろう。小暮は立ち上がりながら、力強く答える。


「皆……」

 自分がどれだけ大切に思われてるのかを知って、秋希は瞼に涙を浮かべる。だがそれが葉子の気に障ったのか、眉間にしわを寄せる。


「仲良くお話してるとこ悪いけど、私もうくたくたたの。死んでるけど」死人のジョークは気味が悪かった。「どうしてもいやだって言うなら、皆一緒に死んでもいいのよ? 私としては、そっちの方が嬉しいけど」


 恐らく自分の境遇と重ねたのだろう。片や誰からも愛されず、信じていた相手に裏切られて死ぬ。片や誰からも愛されるヤツ。あまりいい気がしないのは当然だろう。

 秋希も話を聞いて、しばらく考え込む。俺たちに出来るのは、秋希がどういう答えを示すかを黙って待つしかなかった。たとえ葉子の提案を拒んだとしても、今度こそ俺たちは死ぬかもしれない。あるいはこのまま戻れず、永遠とこの世界に居なくてはならなくなるというのもあり得る。俺たちの命は、花菱葉子に握られているって訳だ。

 俺は花菱葉子を見る。奴は目を合わせてくると、にやりと笑う。本当に死んでいるのかという程に豊かな表情と、肌の色。幽霊ってのはこんなにも元気なのだろうか。

 やがて秋希がこちらを向き、悲し気な微笑みを浮かべて俺たちを見つめる。それから、葉子の方へふり向き直した。


「葉子さん」そして、腕を広げる。「それでみんなが助かるのなら、いいよ」

「秋希っ!」


 きっとそう答えてしまうだろうと思っていた。だが実際に口にされて、つい声が出てしまう。


「秋希ちゃん!」

「ちょっと、考え直してよ!」


 涼野、杏子が叫ぶ。


「待てって、考え直せって!」

「嫌だ、秋希!」


 坂橋、小暮も吠える。全員の願いは同じだったが、秋希は振り返り静かに首を横に振る。


「ありがとう。でももう決めたから」


 瞼からぽろぽろと涙がこぼれていく秋希。それでも決意は固かった。再び葉子の方へ向く。


「さあ、皆を帰してあげて」


 葉子は万遍の笑みを浮かべて、頷く。


「もちろん。さあ、私たちは逝きましょう」


 物騒な言葉のように思えた。葉子は手を差し伸べる。行くな、と俺たちは何度も叫んだ、けどやはり秋希には届かない。秋希はゆっくりとその手を取る。二人は柵を乗り越えて、嵐の中へ飛び込もうとしていた。

 ふと秋希が振り返る。何かを口にしたようだが、俺には聞こえなかった。その表情はひどく悲し気で、とても暖かい微笑みだった。そして二人の身体は、ゆらりと外へ投げ出されようとしていた。


「駄目だ、秋希!」


 力の限り叫び、駆け出して手を取ろうとした。自分でもどうしてそんな真似をしたのかは分からない。けどそうしないとダメな気がした。


「トオルっ!」


 目が合う時には、既にお互い地面へと向かっていた。背後でみんなの叫ぶ声が聞こえたが、段々と聞こえなくなっていった。段々と地面が近づき、もうすぐぶつかる。そう思った時、つい目を閉じてしまった。

 もう目覚める事はない。けど秋希と死ねるなら、それでもいい。俺はもう一度、死を受け入れる。

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