第23話 雨に沈む教室

 階段を下りて一階が見えた時、俺は目を疑った。廊下が水没し始めていたからだ。雨も止まず、貯水槽からあふれる水もさらに増している。このままだと一階が水没するんじゃないだろうか。

 なら秋希達が危ない。俺は上履きを濡らす覚悟を決めて、一階へと降り立つ。既に水かさはすねまで来ており、走りにくくなっていた。それに秋希たちのいる教室までが、妙に長く感じられた。速度で言うと、なんでもなかった時と比べても半分ほどしか足を動かせていないからだろう。

 秋希たちのいる教室へ来る頃には、既にすねも水没して、太ももの辺りまで来ていた。ネズミたちも跡形もなく消えていやがったし。くそ、これなら最初から探しに行く必要なんてなかったじゃねぇか。なんて愚痴をもらしながら、教室を開ける。水圧のせいか開けにくかったが、びくともしない程ではなかった。戸を開けると、小暮と坂橋の頭だけが浮かんで見えていた。一体なにをしているんだと辺りを見回すと、秋希たちの入っているロッカーが見当たらないような。

 そこへ小暮が水面から頭を出して、大きく息継ぎをする。顔に着いた水を拭って、俺と目が合った。


「ト、トオル!」


 随分と慌てた様子で呼びかけてくる。


「どうした?」

「秋希たちが……!」


 小暮が下へ指を指す。水の中へ顔を入れると、倒れているロッカーが見えた。中から誰かが叩いているのか、ガンガンと響いていた。

 嘘だろ。ロッカーが沈んでんじゃねぇか。しかも、よりにもよって入り口の部分が床でふさがれている。慌てて水面から顔を離すと、同時に坂橋も顔を出したようで目が合う。


「おいトオル! やべぇって、秋希たちが!」

「分かってる!」


 このまま溺れさせるもんかよ。俺は腰を落として、ロッカーの持ち上げられそうな部分をつかむ。坂橋と小暮も同じようにロッカーを持とうとしていた。


「いいか!? 一二の三でもちあげんぞ!」


 ああ、と二人は同時に頷く。俺は数を数えて、三を言った瞬間に力を籠める。男三人でめいいっぱい持ち上げているにも関わらず、ロッカーは全く上がる気配がない。

 翌々考えれば、中には人が三人も入っているんだ。それにロッカー自体も重い訳だから、その分重くなるのは当然。水にぬれて、手がうまく固定されないのも理由の一つだ。必死で握力を使おうにも、つい手がすべって力が上手く入らない。

 ならせめて転がそうとしても、倒れていないロッカーがせき止めているせいで転がせない。次に上を持って、なるべく重量がない方へと立てようともした。だがどういうワケか全く持ちあがる気配がない。三人には声も届かないだろうし、足側へ向かえと言っても伝わらないだろう。

 その間にも水かさはまして、すでに腰当たりまでやって来ていた。既に誰かしら溺れていても不思議じゃない。俺は力を振り絞り、もう一度と手指と足腰に、これ以上ないくらいの力をこめる。すると段々とロッカーが持ち上がる感触があり、しばらくすると俺の足に何かがぶつかった。咥えていたライトをそちらに向けると、丁度涼野が出てくるのが見えた。涼野はもがくように浮上してきて、水面に顔をあげると金切り声のような息を思い切り吸いこむ。


「大丈夫か涼野!?」


 涼野は呼吸を整えながら、下を指さす。


「杏子ちゃんが……!」


 下を向いて、ロッカーを指さす涼野。既に人一人分は軽くなっていてだいぶ楽に持ち上げられるようになっていた。にもかかわらず、秋希と杏子が出てこない。


「おい、どうして秋希たちが来ない!?」

「杏子ちゃんの足が……挟まって……!」


 すると下から、もう一人出てくるのが見えた。髪の色からして秋希だと分かった。秋希も水面から顔を出すと、思い切り息を吸いこむ。


「トオル! ロッカー立てて!」


 告げたのは、他でもなく指示だった。軽くなった分、俺たち三人でロッカーを立てる。すると水の中で、杏子が縮こまっているのが見えた。


「何があったんだ、秋希!」


 秋希は呼吸を整えてから、早口で言葉を続ける。


「いきなり強い風が吹いて来たと思ったらロッカーが倒れて。その弾みでアンの足と掃除道具が絡まって!」


 んな馬鹿な話あるかよと思っていたが、本当らしくよく照らしてみると、掃除道具が杏子の足へ複雑に絡み合っていた。

 そこへ秋希が息を深く吸うと、再び水中にもぐり杏子の救出へと向かおうとしていた。だが水かさは既に胸元まで浸食して、既に足のつきも悪くなりつつあった。ふと涼野が水面でもがいているのが見えた。


「おい、涼野!」

「た、助けて!」

「どうしたんだよお前まで!」

「ごめん! わたし泳げないの!」

「なにィ!?」


 この期に及んで泳げないってアリかよ。くそ、と悪態をついている間にも、涼野は苦しそうにもがいていた。


「小暮、ライトを頼む」


 俺は小暮にライトを渡す。


「トオル!?」

「俺は涼野を担いで安全なとこに行くから、お前はここで秋希たちを手伝ってやれ!」

「わ、分かった!」


 俺は涼野の元へ泳いで、肩を貸しながら泳いでいく。水かさは既に俺の顎あたりまでやってきて、涼野では足が付かないのだろう。廊下に出て、浮遊物をかき分けながら進んでいく。


「ごめん。こんな時に泳げないだなんて……」


 悪びれるように謝る涼野。


「気にすんな。そういやお前、水泳の授業あんまり出てなかったしな」

「うん。わたし、日焼けすると肌に異常が出て、両親からもなるべく日当たりのいいところを控えるようにって言われてて」


 うちの学校のプールは屋外にある。それも日当たりのいい場所で、よく女子陣が日焼けを気にしていたのを覚えている。というか、プールの授業があった日は殆どが日焼けしているほどだ。


「そりゃあ、夏場は地獄だろうな」


 うん、と涼野は力なく返事をする。段々と水かさが増して、俺もそろそろ泳がないときつくなってきた。それからすぐに二階へと上がる階段を見つけて、涼野を降ろす。


「俺は秋希達を手伝うから、お前はここにいろ」

「え? 一人で……」声を荒らげかけた涼野だが、俺の意図を組んでくれたのだろう、頷く。「わかった。待ってるね」

「すぐもどるからよ」

「うん」


 力ない返事を聞いて、俺は急いで一階へと戻る。水かさは既に俺の身長を超えて、一階を水没させかけていた。窓辺を見ると、外もまるで海のように水浸しになっていて、細かい浮遊物が浮き上がっていた。こんなのってアリかよ普通。

 教室まで戻ると、既に入り口の部分は浸水しきっており、もぐらないと入れそうになかった。持っていたペンライトは意外にも防水に対応してくれていた。おかげで水に浸けているというのにしっかりと明かりを照らしてくれている。だが持っていた物のうち、マッチ棒は完全に駄目になっただろう。仕方がない。

 それはともかくして、俺も杏子の救出へと手を貸そうとした。先ほどから秋希たちも何とかしようとしているが、結果は芳しくないらしい。だがもっとひどい状況にもなっていた。唯一顔をあげていた坂橋が、慌てた様子で俺を見る。


「おい、トオルやべぇって」

「お前は何やってんだよ、手伝ってやれ!」

「分かってっけどっ! でも……」


 ええいくそ、七めんどくさい奴め。そこへ水面から顔を上げた秋希と小暮が、俺に気が付いてこちらを見る。


「トオル! 杏子の意識が……!」


 杏子が沈んでから、すでに数分は経過している。常人でも一分持てば万々歳だ。


「ちきしょう、何がつっかえてんだ?」


 俺も水面へと潜って、ロッカーを明かりで照らす。違和感にうろたえつつ目を開けて、杏子の様子を確かめる。ハッキリとは見えないが、息をせず口を開けたまま浮力に体を預けていた。足元では箒やちり取り、バケツが散乱しており、その中でも折れた箒が杏子の――それもよりにもよってケガしてる方の足をしっかりとはさんでいた。試しにどかそうとしても、びくともしない。折れた箒が、マジックショーで見る箱に剣を突き刺すようなやつみたいに刺さっていたせいだ。ロッカーの壁には、わずかに引きずったような跡も見られた。

 たたき割ろうと拳を打ち付けても、水圧のせいかうまく力が入らないし、力も分散する。それにほうきの取っ手部分は金属製だ。なんでこんなのが折れるんだか。恐らく倒れた際に、三人の体重で無理やり曲がってしまったんだろう。でなきゃ金属がそう簡単に曲がるもんか。もう一方は持ち手が竹製ではあったものの、こいつを折ったら杏子の足に刺さる位置にあった。奥の方へ折ろうにも距離が足りないし、弄る度に足を圧迫する形になってしまう。

 そこへ秋希と小暮がやってきて、三人で手前の箒だけでもなんとかできないかと引っ張る。だがやはり引っかかっているせいで、びくともしない。上に上げれば杏子の足を圧迫するし、下げたくても床面に当たってどうにもできない。水面を見あげると、水かさは天井へと達しつつあるようだった。俺たちは息継ぎできる間にと、一旦顔を上げる。するとやはり、顔を上げた先では目の前に天井があった。恐らくこれが最後の息継ぎになるだろう。


「くそ、このままじゃ全員溺れんぞ」

「じゃあどうすればいいの!? このままじゃあアンが……!」


 何かないか探すか。いや、その間に杏子が死んでしまう。だからと言って、どうすればいいのかも見当がつかない。水かさはいよいよ、教室を沈めようとしていた。早く判断を決めなければ。杏子だって、時間が経てば蘇生の可能性も低くなっていく。


「……杏子はオレに任せろ」


 俺は耳を疑った。それは小暮でも俺でもなく、坂橋の口から出た言葉だった。


「待って、一人でどうする気?」


 驚きつつ、秋希は冷静さを保つように尋ねる。


「このままじゃ全員溺れんだろ? だったら三人は早く逃げろよ」

「坂橋、お前……」


 小暮も関心と呆れの両方が混ざったような反応を見せた。


「それに、おめぇらばっかカッコいいとこ見せてんのもムカつくしよォ」と言いつつ、顔を赤らめる坂橋。「とにかく、さっさと行け! 間に合わなくなんだろ!」

「でも、坂橋君……」

「ったく秋希、人がせっかくかっこつけようとしてんだから、任せろっての!」


 秋希が納得いかないのも分かる。三人でどうにもならなかったのに、坂橋一人で救出できるとは思えない。だが同時に、このままでは全員溺れてしまうのも確かだ。水かさも既に上がり切って、鼻先が天井に着き始めている。


「もう時間がねぇ! 後は頼むぜ」


 そう言って、坂橋は水面へと沈んだ。


「待って! ねぇトオルどうしよう!?」


 いつになく取り乱している秋希。俺だって手を貸したいが、もし助けられなければ全員死ぬだけだ。それにここは、坂橋を信じたい。

 ここまで散々な対応の坂橋だが、もしこれが普段通りなら俺はこいつと仲良くしていない。ただ口うるさく弱腰でいるだけなら。けれども、俺は知ってる。


「……行くぞ、秋希」

「トオル、もしかして見捨てる気!?」

「坂橋なら大丈夫だ。こいつはやると決めたらそう簡単に曲げねぇからな」


 その姿は秋希だって何度も見た事あるだろうに。何なら褒めた事だってあるじゃないか。


「秋希、ここは坂橋を信じておこう」


 付け加えるように、小暮も付け加える。


「……分かった」


 完全に納得はしていないんだろう。だが秋希は頷く。俺たちは水中に潜ると、それぞれ坂橋の肩を叩いたりして去ると伝え、教室を出る。水かさは廊下の天井まで達して、いよいよ二階に上がるまでは息継ぎが出来ない程になっていた。

 これまで坂橋が取り乱すのも分かる。突然意味不明な状況に巻き込まれて、しかも方や心霊現象、片や災害みたいな状況。俺だって冷静さを保つので精いっぱいだが、心根ではもううんざりしている。それは認めよう。

 きっと人体模型に追われたりして割り切ったのだろう。それで奴はようやく、この状況がふつうじゃないと飲み込めたんだろうな。それに坂橋を信用できる一番の理由がある。

 一年の頃か。まだ坂橋が部活をやっている時だ。その時ある先輩が、明らかに間違った対応をしていて、それを周りが竦めようかとしていた。しかしその先輩は三年生であり、同学年の仲間もそいつに同調していた。この時立ち上がったのが、坂橋だった。あいつは直接先輩たちに間違ってると叩き付けた。勿論先輩は逆上し、喧嘩に。当然力の差ははっきりしていたため、坂橋が病院送りにされた。だがこのおかげで、先輩は退学。そいつに同調していた奴らも大人しくなり、部の空気はよくなっていった。しかし坂橋も喧嘩をした張本人なため、退部を余儀なくされた。それでもアイツは、信念を貫けたことの方が嬉しいって言ってたっけ。

 その時、一緒に部を抜けた人物がいる。それが当時マネージャーをやっていた杏子だった。アイツも、坂橋のそういうトコに惚れたんだろうな。んで二人は付き合ってってなったけど、まあ普段の坂橋がみっともなくてな。杏子だって何も悪い訳じゃない。最初の頃は仲良くやってても、お互い不満が募ってしまったってワケだ。

 だからといって、今日まで散々嫌がっていた坂橋は、杏子を助けようとしている。手を貸したくても、状況が状況だ。だからここは、アイツに任せる方が良かった。それに俺だって、杏子を助けてくると信じている。

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