第22話 少女からの提案
戸を付け終わった時、廊下の向こうから人体模型が来るのが見えた。しかも奴は、小走りで近づいて来てやがる。俺はネズミに気を取られながらもその場を脱して、すぐさま逃げる姿勢に入る。
「おい、そこのキモイの! こっちだ!」
人体模型は包丁を構えたまま、マラソンランナーのような姿勢で向かってくる。早さ自体は大した事なさそうだが、奴を引きつけながら逃げなければならない。俺も少しゆっくりめに走る。
近くに雷が落ちて、その度にペンライトの光と雷光が交差し廊下を照らす。時々振り返っては、人体模型が来ているかを確認する。奴はしっかりと、ライトで照らせば見える距離にいた。
教室を出たのは、奴から逃げる為だけではない。状況を打開するために、ネズミたちをどうにかできる道具などを調達するためだ。せめてネズミ共さえ何とか出来れば、あの部屋から全員逃げられるだろう。だが俺の知る限り、ネズミ捕りか何かはこの学校にはなかった。でも理科室には火元があるので後はどっかにスプレーみたいなのがあればいい。それで即席の火炎放射器を作り、ネズミを焼く――というよりは、威嚇してやるためだ。それだけでも状況は良くなるはず。
後は人体模型をどうするかだ。ガイコツみたいにぶん殴れば動かなくなるだろうか。でもさっきかなてこを投げ当てたというのに、何事もなかったかのように追ってきている。動きもガイコツ以上によくなってるし。振り返ると、相変わらず小走りではあるが俺に向かってくるのが分かる。
階を上がり、理科室へと向かう。探す時間もあるため、少しばかり足を早くしておいた。理科室を見つけて、机に置いといたマッチ棒と、念のため残量が大目のアルコールランプを持つ。いざとなったらこいつをぶん投げるか。
理科室を出ると、雷光が人体模型の場所を知らせる。すでに教室二つ分の差まで詰められていた。俺は急いで駆けだして、次に三階へと向かう。理由は二つ。秋希たちを逃がす際、なるべく人体模型を遠ざける為。もう一つは、先輩の誰かしらが、スプレーか何かを持ってないかと確認するためだ。
女子たちが、いわゆる消臭剤なり芳香剤なり、あるいはヘアスタイル用としてスプレーを持っているのを見たことがある。それがあれば、即席の火炎放射器が出来る。
手始めに最初の教室へと入る。するとそこには、意外な存在がいた。さっき図書準備室で見かけた、あの女子生徒だった。彼女は窓辺へ寄りかかり、雨降る空を見ながらたそがれているようだった。
「あんた……」
驚くあまりつい声を洩らすと、女子生徒はこちらへと振り向く。古風なおかっぱ髪に、セーラー服。よく見ると、卒業文集にあった集合写真で、おばさん達が着ていたものと全く同じものだった。
「また会ったね」
呑気な声で挨拶をしてくる女子生徒。廊下にはすでに、人体模型が近くまで迫っていた。
「悪い、急いでんだ」
「どうして?」
女子生徒はなぜかこちらへと向かってくる。うろたえて後ずさりをすると、どうやら目的は俺ではなく戸の方だった。するとなぜか、戸の鍵を閉めた。
「ちょっと、おい!」
声をかけたが、女子生徒は首を傾げたのち、反対側の戸も鍵を閉めた。そこへ人体模型がやってきて、戸へぶつかるとじっと小窓からこちらを見つめてくる。俺は飛び上がるように後ずさって、つい窓側へと向かってしまう。
「どうしたの? そんなに怯えて」
対して女子生徒は、状況が分かってないのか全く怖がる様子はない。一体なにを考えてやがる。
「廊下よく見ろって。人体模型が動き回ってんだろ」
「ふーん、そうなんだ」
あまりにも薄い反応が返って来る
「いやいや、何でカギ閉めたんだって」
「だって、邪魔になるでしょ? あいつ」
一応は認識できているようだが。
「出られなくなっちまっただろうが」
「その内あきらめて帰ると思うよ」
まるで危機感がないような態度に、苛立ちを覚える。だが俺はこの女子生徒に会いに来たわけじゃない。スプレー缶を探しに来たんだった。ここは怒りをこらえて、辺りを見回す。
「何してるの?」
「探してるもんがあって」
戸の方を振り返ると、どうやら人体模型はさっきみたいに戸を一人で開けられないらしい。だが現状では、ここから出るわけにはいかなかった。
「今度は何を探してるの?」
「スプレー缶だ。もしかして知らないか?」
「分かんない。見てないから」
心底興味なさそうな返事だった。自殺に関する手がかりと違い、手伝う気はあんまりないんだろうか。
そもそもだが、見つけたとしても出られない。戸の向こうには人体模型が待ち構えているからだ。マッチ棒もあと一本しかなく、ここで使えばネズミを追い立てられなくなってしまう。女子生徒はその内諦めるなんて言ってたが、戸の方を見る限りまだ廊下側にいる。
「さっきは手伝ってくれたろ。今回は嫌なのかよ」
試しに声をかけてみると、女子生徒は腕を組んで唸り声をあげる。
「嫌じゃないけど……」
歯切れの悪いところで言葉が続かなくなる。
「何かあるのか」
「ないけど、ちょっと気になる事があって」
「どうした」
女子生徒は腕組をほどいて、こちらをじっと見つめる。暗闇なのに、瞳の輝きが見えた。
「キミ、逃げないの?」
随分と素っ頓狂な質問だった。そんなの、廊下側を見りゃわかるだろうに。
「廊下見てみろよ。すぐそこに動く人体模型がいるだろうが」
「でもこっち来てからは動いてないし、反対側からなら出られるかもしれないよ」
何言ってんだと思いつつも、スプレー缶探しを辞めて反対側の戸へと回る。すると女子生徒の言う通り、人体模型はこちらへ来なかった。さっきはふり向いた首すら、こちらを向かない。それどころか、振り返りすたすたと立ち去っていく。
「どうなってやがんだ」
「分からないけど、諦めたんじゃないかしら?」
前置きの割には随分知った風な感じではあったが。
「あんた、一体誰なんだ? どうしてこの学校にいる?」
この女子生徒が何者なのか、俺は分からない。何故昔の制服を着ているのか。だとして、どうしてここにいるのか。もしかして幽霊なのか。
「分からない。目が覚めたらここにいて」
言葉とは裏腹に、女子生徒は全く焦っている様子がない。むしろこの状況を受け入れているみたいだ。そこからはまた話が途切れる。つまりこの女子生徒も、俺たちと同じ紛れ込んだって訳か。にしては旧式の制服を着てるってのが気になる。
「あんた、ウチの学校の生徒なのか?」
「うん。当然でしょ」
「けどその制服、今のウチのもんじゃないだろ。一体どうしたんだ」
女子生徒は答えなかった。嘘であると隠す為の沈黙ではなくて、まるでその場で凍えて固まったかのような反応だった。しばらくして目をぱちくりさせると、窓の方へ振り替えり、先ほどまでのように窓辺へ寄りかかる。
「見て。今なら雷もやんだし、雨も風も落ち着いてるよ」
とんだ嘘を、と思いながら窓の外を見ると、そこには俺が普段見る街の景色が映っていた。一面続く住宅街の向こうには、摩天楼が続く。そこで女子生徒が窓を開けようとしていた。呼び止めようとした時には既に遅く、部屋に外の空気が入って来る。
驚くことに、さっきの嵐が嘘のように、穏やかな風が吹いていた。少し涼しげだが、動き回って暑くなった体にはちょうどいい温度だ。
「どうなってんだよこれ」
雨も小雨程度に勢いが落ち着いている。これなら確かに帰れそうだ。
「ほら、今なら帰れるよ」
確かに帰るには絶好のチャンスだ。だが秋希たちを放置したまま、帰れるはずもない。
「いや、友人がまだいるし」
「その時間はないかも」
女子生徒が言ってすぐ、遠雷が見えた。同時に強めの風も吹いてくる。
「けど、アイツらを放っておけねぇって」
教室の外ではネズミも待ち構えているだろうし。俺が追い払っておかないと、女子たちは出られない。
「きっと大丈夫だよ。天気が良くなってきたのも分かってるはずだし、先に帰っちゃうよ」
「だとしても、アイツらを置いて自分だけ帰んのは無理だ」
「そう?」
「ああ」
沈黙が流れる。風はまた穏やかになって、雨も弱まっていく。また遠雷が見えたが、さっきよりは遠くなっていた。
「キミってさ」ふと女子生徒が声をかけてくる。「優しいんだね」
「別に優しくねぇよ。友人を見捨てないのは当たり前だろ」
「そうだよね。友達なら見捨てないよね」
女子生徒は窓を閉めて、振り向くと戸の方へ向かう。
「あんた、どこ行くんだ」
「さっきの質問の答え、教えてあげるね」
振り返り様に、女子生徒は微笑みながら投げかける。一体何の質問について、と俺は唾を飲む。
だがその答えを聞こうとした矢先、上の方から轟音が鳴り響く。まるで何かが破裂したような音だった。何が起きたのかと窓を開けて確認しようとした。
その時、上から滝のように水が落ちてくるのが見えた。慌てて首をひっこめて、窓を閉める。もしかして、屋上にあった貯水槽がはじけたのか。
「おい! 屋上で――」
女子生徒にも伝えようと振り返った時、既に姿はなかった。勝手にどこへ行ったんだ。いや、もういい。今のうちにと、俺はスプレー缶探しを再開する。ひとまずこの教室を探して――と思ってたら、ロッカーにありがたくスプレー缶が置いてあった。これで一応は必要なものが揃った。後はネズミたちを追い払えば、アイツらも無事に逃げられるだろう。
気がかりになったが、破裂した貯水槽からあふれる水が、段々と勢いを増してきている事だった。まるでダムが決壊したかのように、学校中へと広がってる気がする。
嫌な予感がした。俺は手にしたものを持って、廊下へと出る。雨風はさっきまでの勢いを取り戻し、雷も近くで落ちてきた。もう後には引けない。俺は急いで階段へと向かう。
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