第14話 秋雨に閉じ込められて

 玄関まで来て、それぞれ置いていた自分の荷物を見つける。やはりというか、外は尚も大雨が降りしきっている。風も同じく。どちらもまだ勢いを増しても、衰えてもいない。


「坂橋君、本当に帰るの?」


 秋希は杏子から手を放して、坂橋の方へ寄っていく。


「別にいいだろ。悪いか」

「外見てよ。まだあんなに霧が立ち込めてるし、雨も風もまだ強いし。それにきっと、校門までたどり着けないって」


 さっき何の気なしに帰ろうとした時は、一分以上歩いても校門にたどり着けなかった。それどころか、背後にずっと校舎があるという始末だ。


「んなもんまっすぐ歩きゃ帰れんだろ。ただ思ってたより歩いてなかったってだけじゃねーの?」


 なんて適当な返事を寄越してくる。


「まあ、多分そうだったりしてな」

「こ、小暮くんっ!?」


 涼野が驚いて声をあげる。その辺については、小暮もおおむね賛成なようだ。だが俺の感覚で言うと、ウチの学校の中庭はそんなに広くない。三十秒もかからずに校門までたどり着けたはず。方向を間違える、なんてのもありえない。もし間違っていたら、花壇に当たるからだ。校門までの通り沿いには、いくつか花壇が添えられている。そこから校庭側、あるいは駐輪場側へ道が分かれているのだが、視認出来てないとそちら側へ行くのは難しい。それに俺たちはあの時、間違いなく校舎の方へと向かっていた。


「考えてみろ涼野。こんなに霧が深いんだ。方角だって間違えるだろうし、感覚も違ってくる。お前も覚えがない訳じゃないだろ」

「そうだけど、でもあんなに歩いて校門までたどり着けなかったんだよ。それに振り返ったら、校舎がすぐ目の前にあって……」

「多分何らかの勘違いをしてたんだろ、おれ達は」


 理由まで説明する気はないらしく、小暮は鞄を背負う。坂橋はすでに、帰り支度を済ませていた。


「どーせ、何もかんも気のせいだろ。残りたきゃ残れよ」


 俺は涼野の方を向く。こういう時どうするのが得策なのかと、アドバイスが貰えたらいいが、という意味合いで。涼野はしばらく首をかしげていたが、坂橋からの催促によってすぐに返事を寄越す。


「……分かった。もう一回、皆で帰ってみよう」


 まるで死を覚悟したかのように、涼野は身体が震えていた。多分、この行動が一番よくないと知っているのだろう。だが犠牲者が出るかもしれないところで、何もせずに傍観できないという質か。


「絶対なんでもねぇって」


 願掛けか、あるいは俺たちに常識を叩き込みたいのか。それはともかくして、俺たちは身支度を済ませた。坂橋が取っ手を押して、開き戸を開ける。何となく、雨はわずかながら勢いを増している気がした。そんな事に気も留めず、坂橋は傘を開いて先に暗やみへと歩いていく。俺は念のため奴の先をペンライトで照らしながら、傘を開いて後に続いた。他もぞろぞろとやってくる。

 少し歩いて、念のため振り返ってみる。どうせ校舎がすぐ目の前にあるんだろう。そう思ったが、校舎は遠ざかっており、わずかに霧の中から見えるだけだった。


「ほらな、気のせいだったんだよ」


 背後から、坂橋が声をかけてくる。向こうも振り返って確認したんだろう。


「まあ、これで一件落着だな」


 小暮も完全に終わったと確信したのだろう。だがその後ろにいた涼野は、浮かない顔だった。俺はしばらくその場に立ち止まり、涼野の隣に来ると歩調を合わせる。


「随分浮かない顔してんな」


 ためしに声をかけてみると、涼野はうん、と頷く。


「何だろう、すごく胸騒ぎがする」

「俺もだ」


 振り返ると、やはり校舎は遠ざかっている。だが何故この霧は晴れないのだろうか。いくら霧が濃くても、遠くのビルの明かりが見えないなんてのはあるだろうか。確かに大雨でもあるし、風も吹いている。傘は何度も煽られて、足のあたりはすでに水滴がいくつもひっついている。普通のズボンなら、すでにびしょ濡れになっていただろう。

 嫌な予感はしても、後を追い続ける。でないと先に進む坂橋たちとはぐれてしまうからだ。こういう時、はぐれるのが一番よくない。涼野も同じ考えらしく、お互い何も言わなくても早足になっていた。

 大分進んで、そろそろ校門が見えて来てもいい気がした。やっぱりこのまま現れないのか。そう思っていると、奥の方で坂橋たちが立ち止っているのが見えた。


「ほらな、なんでもなかった」


 そう告げていたので、奴の周りをライトで照らしてみる。するとどうやら、校門にたどり着いたようだった。


「全く、とんだ一日になったもんだ」


 小暮は呆れたように、壁にもたれかかる。だが俺達の中で、一番この事実に喜んだのは杏子だった。杏子はたまらず、秋希の胸元へ飛び込んだ。秋希も頭をなでて、慰めていたようだ。


「わたし達、助かったのかな……」

「分からない」


 校門の先を照らしてみたが、建物も何も見えない。この先に、すぐ家があった気がするんだが。


「なんだお前ら、残りてぇのか」


 こちらに気が付いた坂橋が、調子付いた声色で茶化してくる。


「いや……」


 つい言葉が少なくなってしまう。それ以上に、俺はこの状況が不気味で仕方がない。


「トオル、そんなビクつくなって。らしくねぇぞ」

「お前なぁ……」

「まあいい。オレは先に帰るぜ」

「じゃあなトオル。杏子、ちゃんと病院行っとけよ」

「え? うん……」


 名指しされてたじろぐ杏子。その間にも坂橋に続き、小暮も校門を出ようとした。

 二人が同時に校門の外へ足を入れた問、犬の遠吠えが聞こえた。それも一匹ではない。詳しくは分からないが、それなりにいる。


「おい、何だ」


 足をとめる小暮。だが坂橋はさらに進もうとしていた。


「野良犬だろ。あるいはどっかのバカがちゃんとしつけてねぇか」


 確かに住宅街では、時折誰かが飼っている犬が遠吠えをするのはよく耳にする。だが数十匹も飼っているという話は聞いたことがない。じゃあ野良犬か。

 でも奇妙だ。遠吠えは校門の先ではなく、まるで俺たちを囲んでいるように聞こえた。距離は離れているようだが。


「犬じゃない……」


 ふと、隣にいた涼野が呟く。


「何だ涼野、またおかしなこと言ってんのか」


 相変わらず茶化す坂橋。


「この鳴き声、犬じゃない……」涼野が言い切った後で、付近から短い鳴き声が矢継ぎ早に響きわたる。「……オオカミだ」

「は? オオカミ?」


 聞き返す坂橋。よく聞くと、遠吠えはさらに数を増しているような気がした。次第に坂橋も、この鳴き声に恐怖を覚えたらしい。腰を低くして、辺りを見回していた。

 なぜこんな所にオオカミがいるのか。そんな事を考える前に、突然鳴き声が止む。俺たちは動けなかった。奴らは一体何をしようとしているのか。

 それすら考える余地は与えられなかった。バタバタと無数の足音が、一斉にこちらに近づいて来る。


「……逃げて!!」


 涼野のありったけの叫びで、俺たちはようやく行動に移せた。


「全員校舎に戻れ!」


 俺も叫び、全員に促す。全員傘をその場で放り、力の限り走る。涼野、小暮、坂橋までは良かった。だが肝心の杏子は走れない。秋希が支えていても、限界はある。俺はすぐに二人の元へ向かい、すぐに声をかける。


「秋希は右手と右足を」

「うんっ」


 考える間もなく、俺たちは杏子の体を支える。落ちかけた松葉杖を足で掬い、脇ではさんでおく。その間にも、犬かオオカミかは着実にこちらに近づいていた。逃げる間、杏子が後ろを振りかえて奴らが来ているか確認していたようだ。


「どうだ、来てるか?」

「ううん見えない!」


 今のところは大丈夫らしい。その間に、ひたすらに足を動かす。やがて校舎が見えて来て、涼野が戸を開けて待ってくれていた。


「早く!」


 俺たちは頷く間すら惜しんで、すぐに駆けこんだ。後者に入り、杏子を松葉杖と共に降ろす。それから俺はバッグの取っ手を使い、ドアの取っ手に引っ掛けて簡易的な鎖のように作り上げた。出来れば鍵を持ってくるのが良かったが、鍵のある職員室には入れないだろう。

 しばらくの間、ひたすらに戸の窓からそいつらが来ないか黙って見つめていた。だが音は姿を現さずに、音すらも消していた。完全に安全だと知って、一同はそれぞれその場にもたれ込む。


「何とか、逃げられた……」


 涼野は特に気が気じゃなかったようで、呼吸も荒く汗もひどかった。


「な、なんでこんなトコにオオカミが居るんだよ……」


 坂橋も必死に走ったからだろう、肩で息をしていた。


「んなの、知るわけねえだろ」


 小暮の言葉は、俺たちの考えを代弁していると言ってもいいだろう。こんな都会に、野生のオオカミがいる訳ない。もしかするとどっかで飼われていたのが脱走したのだとしても、いろいろ無理がある。なんでアイツらは、わざわざこの学校を、俺たちを狙ったのか。


「アン、大丈夫?」


 一方で秋希は、濡れた髪を気に留める事もなく杏子を心配していた。


「うん。ごめん秋希。あたし足手まといで」

「そんなことないよ。無事で何より」


 秋希は微笑みかけていたが、それが杏子にはつらかったのだろう。浮かない表情になってしまう。


「足手まといだ? ふざけんじゃねぇよ」だがそこへ、再び坂橋がケンカを吹っ掛けてくる。「むしろ疫病神だ。何もかもお前のせいだ」


 杏子は何かを言い返すだろうか。と思っていたが、言い返すどころか顔を伏せてしまい、すすり声になった。


「おい、泣けば許してもらえると思ってんのか? そーいう所もムカつくんだよお前。何でもかんでも泣いて許してもらえると思うなよ」

「坂橋くんっ!」

「うるせぇよ涼野。外野は黙ってろ」と強く言われると、涼野も黙ってしまった。「おい、どうすんだよ。この責任どう取ってくれんだよ」

「だって、こうなるなんて……」


 杏子も、もう言い返す気力がないんだろう。責めるように涙声ながら呟く。


「ねぇ坂橋君。もうやめなよ」


 秋希もたまらず止めに入る。


「だってこいつが勉強会だなんだっつって、俺らを巻き込んだんだろ。もしそんなのやんなかったら、オレとっくに帰ってたのによ」

「でも私はいろいろ手伝いやってたし、トオルたちも図書委員だったから、そのすぐ後にこうなったんだよ。アンは関係ないよ」

「んだよ秋希。お前そいつの肩持つのか?」

「当たり前だよ。アンは何も悪くないんだから」


 すると坂橋は、はっ、と吐き捨てるように声を洩らす。


「そうか。お前ら全員グルか? それとも何だ、オレのせいだって言いてーのか」

「誰もそんな事言ってないよ」


 秋希は杏子の肩から手を放して、立ち上がる。その声は、いつになく低くささやくようなものだった。以前にも、秋希のこんな姿に見覚えがあった。


「なら何だ? お前のせいか?」坂橋は順番に、俺たちへ指を向ける。「お前か? それとも実はお前か、トオル?」

「お前……ホント……」


 もう何を言ってやればいいのか分からなくなった。こいつは完全に錯乱している。多分何を言っても届かないだろう。


「俺は何も悪くねぇ。全部お前らのせいだ! こうなったのも全部お前らの――」


 そう叫ぶ傍らへ、秋希が近づいていた。秋希は坂橋の肩を掴むと、こちらへふり向かせようとする――と同時に、固く握りしめた拳を奴の頬目掛けて振りぬいた。乾いた音が遠くまで残響していき、殴られた坂橋は目を丸くしたまましりもちをつく。


「坂橋君」ひどく冷たい声。久しぶりに、秋希のキレた姿を見た気がする。「これ以上誰かを傷つけるなら……私、許さないから」

「秋希……?」

「それかせめて、黙ってて」


 最後に一言づけて、秋は拳をほどくと鮮やかに振り返り、杏子の元へ座る。


「秋希、どうして……」

「ごめんね、アン」


 杏子は責めも、何か言ってあげる事もせず涙を止めて俯く。一方で殴られたは、殴られた部分をさすりながら呆然としていた。やり方としては最悪だったが、ひとまずはお互い頭を冷やせただろう。いや、俺がどうこう言うべきじゃないな。きっとこれが一番の方法だったはずだし。


「すげぇ、秋希がキレるとこ初めて見た」


 茶化すつもりはないんだろうが、小暮が感心したように声を洩らす。


「うん。やっぱり、優しい人ってあんまり怒らせない方がいいね……」


 涼野の言葉は、俺にとって耳が痛い発言だった。中学の頃は、なんでこんな奴を毎日キレさせてたんだろうな。その結果こっちは前歯を折られちまったし。でもこっちだって鼻を折り返した……なんてのは自慢にもならないか。

 しばらくの間は、場が落ち着くのを待つしかないな。外を見ても、あの犬かオオカミがこちらに来る気配はない。俺は全員に窓から離れるよう促してから、そのまま特に指示を出さずに待つ。坂橋と杏子、秋希の様子からしてもまだそうするしかない。でもここも安全じゃなかった。風通しは良いだろうし、職員室みたいにガラス片が飛んできたら無事じゃ済まさない。それにあそこほど障害物もないし。なら早めに動いた方がいいか。


「なあ、ここは危険だし動いた方がいい」


 俺の言葉を聞いて、全員が一旦俺の方を見た後で戸の方へ顔を向ける。それで俺の言葉の意図を理解したのだろう、黙って立ち上がる。


「でもどうすんだ?」


 小暮の意見も尤もだ。安全な場所だったあの教室には、ネズミの大群が押し寄せていた。どこにも安全な場所なんてないのかもしれない。


「とにかく動こう」


 秋希の低い声に、全員が納得した。そうせざるを得ない。さっきの様子を見て、誰もこいつに逆らえるはずもなかった。俺たちはどこへ行く当てもないが、足を進める。

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