第12話 小休止

 俺たちがいた教室から便所までは、それほど離れていない。一分程度歩いた場所にある。三年の教室が近いこの便所は、俺たちは普段なら全く使わない。せいぜい先輩の御呼ばれから解放された後で、どうしても漏れるって時に使うだけ。でないと誰かに捕まってまたパシられたり、ダルい話を聞かされたりするからだ。いくらウチの学校が高偏差値だからといっても、人使いが荒い先輩がいるのはどこも同じなんだろう。

 便所に着いて、俺と小暮は小便器に。坂橋はどうやら大の方を催していたようで、個室へと入っていった。俺はここまでの緊張ごと吐き出すように、済ますことを澄ました。ここまで俺たちが沈黙をしているのは、さっきのケンカが原因なんだろう。坂橋になんて言えばいいのか分からないし、奴をのけ者にして俺と小暮だけで日常会話ってのもな。小暮もその辺は敏感な方だ。それをぜひ、いま置かれている怪奇現象に使ってほしいもんだが。

 当然ながら大の方は長い。俺たちが出来るのは、外で降りしきる雨を眺める事だけだった。やっぱり勢いは増しても衰えてもおらず、風も強さが全く変わらない。まるで機械で制御されているみたいだな。


「坂橋、まだか?」


 沈黙に耐えかねたのだろう、背後で小暮が呼びかけていた。


「ちょっと待てよ。詰まって出て来ねぇんだよ」

「そうか」含みのある返事をする小暮。何か話でもしたかったのかとそちらへふり向くと、丁度話が続いた。「お前、杏子の事どう思ってんだよ」

「んだよ、お前には関係ねぇよ」

「別に仲直りしろってんじゃないけどよ、怪我の様子くらい心配したっていいんじゃなかったのか」


 坂橋は分かりやすいくらい、大きなため息をついた。それを聞くと、こっちまで気がめいってしまう。


「治療はしたんだろ? だったらそれでもういいだろ、なあトオル」


 何で俺に同意を求めてきたんだか。きっと治療に携わった当事者だからって、安易な発想に至ったんだろうが。まあこいつには、俺たちがどうやって杏子の怪我を治療したか話してなかったしな。それで少しは気が変わってくれるといいんだが。


「杏子の怪我はかなりひどかったぞ。あの包帯の下には、縫合した痕があるからな」

「縫合?」

「傷口を縫ったんだよ。言っとくけど、小学校で習うお裁縫とは全く違うぞ」

「なんだ、そんなにひどかったのか」

「は?」おっと、つい声が漏れてしまった。あんまりにもこいつが馬鹿げた質問をしてきたもんで、つい。「あのな、秋希が縫合のやり方知ってて良かったな。でなきゃ杏子はとっくに死んでんぞ」

「足を怪我したぐらいでか? バッカらし」


 こいつマジで言ってんのか。と呆れていると、どうやら小暮も坂橋の無知っぷりに呆れている様子だった。


「坂橋、杏子の出血はかなりのものだった。下手したら失血死になってもおかしくなかったんだぞ」

「失血? 冗談だろ」

「冗談なもんか」


 返事は来なかった。ため息もなく、坂橋がどんなことを考えているのか、表情からも推し量れない。個室のドアの先で、奴はいったいどんな顔をしているのだろうか。しばらく待って、ようやくドアの向こうから笑い飛ばすような声が聞こえた。


「はっ。アホらし」


 それが、坂橋の返事だった。俺はなんというか、こいつが可哀そうに思えてきた。ここまでの現実逃避っぷりは、もはや芸術レベルだ。たとえ歩くガイコツが信用できなかったとしても、杏子の大けがは確かな現実だというのに。小暮はその事実からは逃げていないというのに、こいつは。

 あるいは、信じたくないのかもな。坂橋の肩を持つなら、まず俺たちが置かれている状況があまりにも非現実的過ぎる。その上で杏子が死にかけたなんて聞いても、頭が混乱するだけだろう。つまりこいつは、頭の中が絶賛こんがらがり中になってんだろうな。だから冷たい事を言い放てるって訳だ。正常性バイアスって奴で、どうあっても自分の日常を維持したくて仕方がないんだろう。

 これ以上何も話せない、と俺は小暮と目を合わせる。向こうも同じで、首を横に振っていた。

 その時、突然入口の方から何か落ちるような音が聞こえた。瞬時にして、俺は呼吸が止まった。慌てて小暮の腕を引っ張り、個室へと入る。


「おい、何だよ」


 隣の個室にいる坂橋が尋ねた。


「いいか、静かにしてろ」

「は? 何で」

「黙れって」


 俺はひそひそ声で叫ぶ。小暮の方を見ると、こっちも目を引ん剝くように丸くして息を殺していた。どうやらこいつは、完全に信じてなかったわけじゃない。そして互いに、同じことを考えている。

 もし誰かがいるとしても、俺たちの知っている人物ではない。秋希たちなら、俺たちがここにいると知っているし、呼びかけてくるだろうからだ。だが音は、何かを落とす音だけ。

 いや、耳を澄ますとまるで転がってくるようにも聞こえてくる。音は間違いなく、こちらへと向かってきていた。その度に、心臓が張り裂けそうなほど鼓動する。たとえ声を出さずとも、心音でバレてしまうんじゃないか。

 ライトを消して、かなてこをしっかりと握る。手汗もかき始めて、滑り落ちそうになってきた。


「くそ、何だよ」


 このアホが。よりにもよって、坂橋は声を出しやがった。すると音は、間違いなく俺たちのいる便所の前で止まった。頼む坂橋、これ以上何もしゃべんな。そう心で願う。

 音はこちらへ来る気配がない。もしかして、俺たちが姿を現すまで待っているのだろうか。だとしたら、持久戦をやろうって魂胆なんだろう。しかし意識すればするほど、心は向いてはいけない方へと持っていく。息を吐きだしたい。声を張り上げたい。つばを飲み込みたい。だが今、あらゆる音を聴かれればヤツはこっちに来るだろう。

 一方で、小暮はひきつったような表情のまま頭を振動させていた。これでようやく信じてくれたのだろうか。このまま膠着が続いても、どうにもならない。

 そうだ、むしろ危険なんじゃないだろうか。もし戻ってこなければ、秋希たちが探しに来るかもしれない。そこで奴は三人を襲って。特に杏子は助からないだろうな。あのガイコツみたいなのが来たら、間違いなく誰かが犠牲になる。だとしたら、やるしかない。

 俺は恐怖を飲み込んで、ドアに手をかける。すると小暮が腕を引っ張って、首を横に振る。行くなって意味だろう。だが俺は同じ素振りで返事をして、振りほどく。二、三回深呼吸をして、しっかりとかなてこを握ったままドアを開けて、そのままがむしゃらに走る。


「うおァァァっ……あ?」


 勢いよく出たはいいが、俺はわが目を疑った。便所の入り口にあったのは、何の変哲もない銀のバケツだったからだ。特に穴という穴もなく、使われた形跡がない。そういや、近くのロッカーに置かれているんだっけか。それもロッカーの上に。時折こいつは落ちてくる、と先輩の誰かが言ってたっけ。何でもロッカーには他にも、いろいろな小物が放っぽられるのだそうだ。普段は下敷きになっている者でバランスを取っているため落ちて来ない。しかしバケツの下に置かれた物が潰れるタイプなら、後はお察しの通り。ならロッカー中に入れとけばいいと、俺が言った気もする。なんて断られたのかは忘れたが。ともあれ、怖れていた事態ではなかったようだ。緊張を解くと、つい全身の力が抜けてその場にヘタレ込んでしまった。


「お、おいっ! ……え?」


 小暮もやってきて、音の正体に気が付く。すると向こうは、数秒目を丸くした弾固まると、鼻であしらうように笑い髪をかき上げる。


「ハハハ、まったく脅かしやがって」

「おい、何があったんだよ?」


 坂橋が戸の向こうから尋ねる。同時にポンッ、と軽い音がしたのち、水の中に何かが入る音が聞こえた。ようやく出たんだろう。


「いや、なんでもないさ」小暮は笑い声をあげながら返事をした。それから足に力が入らない俺の肩を軽く叩く。「分かったろトオル。ガイコツも気のせいなんだよ」


 とてもさっきまで怯えて震えていたとは思えない程、小暮は余裕しゃくしゃくといった態度だった。いや、だからこそだろう。目の前で起きているのは怪奇現象ではなく、偶然による現象だったからだ。これで一層、怪奇現象を信じる側が不利になったのは間違いない。そう思うと、やっぱりガイコツも何かの間違い――。

 と思った矢先だった。どこかから女の悲鳴が聞こえてくる。それも三人。しかも声には聞き覚えがある。


「何だ?」


 笑っていた小暮も、やめて構える。悲鳴は確かに、俺たちがいた教室から聞こえてきた。

「んだよさっきからよォ?」


 坂橋が水を流した直後に、個室から出て来て呑気に尋ねる。


「さっきの声、教室からだ」教えると、二人は驚くように固まる。「バカ、秋希達が危ないだろ!」


 ハッパをかけてやると、三回瞬きをした後で、二人は慌てるように頷く。俺たちはすぐに便所を後にして、秋希たちのいる教室へと向かった。今度こそまずい状況かもしれない。

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