第5話 杏子の提案

 翌日は思っていた通り、雨が降っていた。というか大雨である。家を出たとたんから雨粒が傘を激しく打ちつけて、気を取られているうちに足が水たまりに入ってしまった。お陰でズボンのすそはもちろん、靴の中に関してはすでにびしょ濡れだ。歩く度にスニーカーの中からぴしゃりと水音が鳴り、中に入っていた水が足元をよく冷やしてくれる。冬なら絶対かじかんで痛んでくるだろう。

 なんでこんな時に、雨に弱い靴を履いたのか。それは急いでいたからだ。起きてからずっと雨が降っていると失念したわけではないのに、俺はうっかり晴れ間のような時間の過ごし方をしてしまった。で、親に言われるまでバスの時間をど忘れしていた。もしその便を逃したら、次に来るのは十分後。つまり遅刻が確定してしまう。これでも無遅刻は守りたいので、結果雨用の靴を履き忘れてしまったのだ。

 そのお陰で、バスには間に合いそうだが。バス停では既に多くの出勤者やら学生が並んでおり、その中には秋希もいた。残念ながら向こうの方が早くたどり着いていたみたいなので、俺とは離れ離れだが。それでもお互い目があった時に手を振ってあいさつをしたので、それでひとまずはいいか。

 バスは俺が到着して一分経たずにやって来た。もう一人駆け込んでくるサラリーマンが列の最後に入ったところで、ドアが開く。バスの中もすでに人でごった返しになっており、俺が乗る時には他の客を無理やり押しのけないと入れそうになかった。奥へと進むと、どうやら運が良かったのか、秋希が出口前の席に座っていた。丁度その隣に立つスペースがあったので、俺は人混みの間を抜けてそこに立つ。秋希はその様をずっと見続けていたようで、声をかけてきた。


「大変だったね」


 俺は振り返り、ざっとバスの車内を見回す。これ以上客が来たら、寿司詰めって感じだな。


「来るときに水たまりに入っちまって、靴ン中がびしょびしょだ」

「教室着いたら乾かしたら?」

「そうすっか」


 こんなんで授業受けたら、風邪ひきそうだしな。それに雨が降っているせいか、今日は少し寒いし。

 バスが発車して、暇つぶしに他に何か話があるかと考えてみる。そういや、おばさんはどうなったんだろうな。


「おばさんの様子は?」

「うん、まあ」


 歯切れの悪い返事だった。


「何かあったのかよ」

「あー、そうじゃなくて。でもちょっと普段より容体がよくないって言うか」

「マジで?」

「でも何て言えばいいのかな? 別に熱がすごいとか吐いたりとかじゃないんだけど、結構苦しそうだったから」

「おばさん一人で大丈夫なのか、それ。お前ついてた方が良かったんじゃねぇの?」

「それは大丈夫。今日明日はお父さんが休み入れてるから」

「ならいいけどよ」


 おばさんだけではなく、おじさん――秋希の父親とも俺は顔を合わせている。ただし、初対面での印象は最悪だった。その日はよりにもよって秋希の鼻を折った日だったからだ。当然向こうは完全にキレており、何なら「ぶっ殺してやる」とまで言われたくらいだ。

 しかし今では、逆に仲が良くなってしまっている。休日にキャンプに誘われたりしてるし、何なら毎日家に顔を出してもいいとすら言っていた。そのきっかけとなったのは、ほかでもない秋希だった。といっても大それた物はなく、単純に秋希が俺を認めたから自分も、みたいな感じだった。そこからいろいろ話しているうちに気があって、といった風だ。

 おじさんを一言で表すなら、快活な人だ、というほかない。おばさんは割と物静かなところがあるが、おじさんは底なしに明るいほうだ。秋希の性格も、おじさん譲りってところだろう。普段の付き合いの良さなんかを見ても、そうと頷ける。

 ところで、おじさんはおばさんの体調不良について、どれくらい知っているのだろうか。同じ日付だって気付いているのか。


「なあ」


 気になったので尋ねてみる。声をかけると、秋希は窓に向きつつあった顔をこちらに向ける。


「どうしたの?」

「おじさんはおばさんの体調不良が、同じ日付で発生するって知ってるのか?」

「どうなんだろ。多分知らないと思う」


 秋希は首をかしげながら答える。


「じゃあ、普通に風邪っぽいだけって考えてんのか」

「多分。でも今年は『また具合悪くなるだろうから』って、今日明日休み入れてたし」

「気づいてなくても、ある程度把握してんのかね」

「だと思う」


 その辺は向こうも自信がないのか、語気が弱い。直接聞けないのも、そもそも原因が分からないからだろう。だとしても、薄々気づいてはいるんじゃないだろうか。だからその期間中に休みを入れておいたんだな。

 おじさんは仕事柄、結構忙しいようだ。普段顔を合わせるのは、大抵日曜日くらい。それ以外では基本的に仕事だと言って、家を空けているという。なので平日にあの人がいるってのは珍しく思えた。今日か明日当たり、顔を見せておくか。夏休の時キャンプ行くって約束したのに、風邪ひいて行けなかったからな。それ以来会ってないし。

 バスの中には次々と客がやってきて、途中で降りていくのは片手程度。最終的に寿司詰め状態は解消されず、全員が終点である電車の駅で降りて行った。俺たちは適当なタイミングでバスを降りて、駅のホームに向かう。雨のせいか、普段よりも電車を利用する人が多い気がした。

 想像していた通り、電車も込み合っていた。普段なら多少は座れるスペースがあったり、窓側に寄りかかれたりするはずなのに、今日はどれも空いていない。俺たちは手すりにつかまって、雨降りしきる空を眺めたりしていた。秋希とはいくらか話をしたが、俺も、きっと向こうもおばさんの方が心配だったんだろう。あんまり話が続かなかった。むしろ息苦しささえ覚えるほどだ。秋希も家事に追われてテレビを見る暇もなかったんだろうな。

 電車を降りる時は、お互いに気持ちが沈みかけていた。一緒に登下校する時、秋希は殆ど笑顔を絶やさない。だが今日は眉をㇵの字にして、うつむいたままだった。声をかけたくても、向こうに楽しくなりたいという気持ちがないなら意味がない。むしろうるさくて邪魔だって思われるかもな。秋希はそんな事言わないだろうが、心の片隅では感じるはずだ。俺だってそうされたらイラ立つだろうし。ぶっちゃけ坂橋あたりからせっつかれたら、キレる自信がある。

 駅を出て、交差点に差しかかる。雨降る都市部の交差点は、灰の空と変わり色づいていた。人というよりは傘がひとりでに歩いているように見えて、柄も様々。赤青黒の一色や水玉模様の傘。俺たちも傘を差してから、引く潮のように流れていく景色へと混ざっていく。この辺まで来ると、同じ制服を着た生徒も多く見かけられた。

 学校が近づくにつれて、人の流れも穏やかになっていった。同じ制服を着た集団が、同じ向きに歩いていく。俺たちもその一団に混ざって、学校へと向かう。やがて校舎が見えてきた時には、すでに都心の風景は背中側になっていた。

 校門を潜り抜けて、何となく校庭を見る。普段は朝練をやっている運動部に「ようやってんな」と尻目に見ながら通り過ぎていくのだが。でも今日みたいに雨の日は、誰もいない。舗装された校庭は、あちこちで水たまりを作っていた。別に願掛けだとかのつもりでもないし、とっとと通り過ぎる。

 校舎に入り、靴を脱ぐ。そこで思い出したが、靴下がびしょびしょだったな。俺は靴下を脱いで、素足のまま上履きへ足を入れる。何となく秋希の笑い声が聞こえたような気がして、そちらへ振り替える。しかし秋希は俺が手に持っていた靴下を見ても、困り顔のままだった。笑い声の正体は、向かい側にいる女子グループの者だったらしい。きっと普段なら笑ってあれこれ言ってくれただろうに。

 ふと女子グループを眼で追っていると、女子生徒が慌ただしく駆けおりてくるのが見えた。そいつはいかにもギャルって感じの風体で、しかも俺たちがよく知る女子生徒だった。秋希も気が付いて、そいつの名前を呟く。


「あれ、杏子じゃない?」

「ああ」


 何故気になったのかというと、杏子はまさに俺たちの方へ駆け寄ってきたからだ。


「おはよ。あのさ、ちょっといい?」


 杏子は肩を弾ませながらそう尋ねてきた。俺は秋希の顔を見やる。向こうも目を合わせて来て、お互いに聞くつもりだと認識してから振り向きなおす。


「どうした、坂橋の苦情でも言いに来たとか?」

「アイツは関係っ――」声が荒くなりかけた、途中で言葉を止めて肩をがっくりと降ろす。「――まあ、あるんだけどさ」

「どうしたの?」


 秋希も同じく尋ねると、杏子は周囲を見回す。


「できれば三人で話したいんだけど。あんまし人に聞かれたくないし」

「相談? いいけど、トオルは?」


 聞かれるまでもなかった。杏子は秋希だけじゃなくて、俺にも話を聞いて欲しいんだろう。それなら断る理由はない。俺は二つ返事でうなずいた。


「ならちょっと来て」


 杏子は手招きをして、先に歩いていこうとした。俺たちは肩を並べて、その後に続いていく。

 しばらく廊下を歩いて、人気のない方向へと向かっていく。やがて学校内の喧騒から遠く離れた場所で、杏子は止まり振り返る。


「いきなりごめん。何か……」


 そっから先は続かなかった。代わりに秋希が話を続ける。


「いいって。それで、何を相談したいの?」

「実は……さ」秋希の質問に応えようとしながら、杏子は身体を左右に揺らす。「”アイツ”とヨリ戻したくて」

「坂橋とかァ?」

「……何か悪い?」


 ついおちょくるような口調になってしまい、杏子が目を細める。秋希も俺の脇腹を肘で突いて来た。


「ちょっとトオル……」

「いや悪いって。全然そんな話だと思ってなかったから」

「まあ、そーだよね。いきなりこんな事ゆっちゃってごめん」

「謝る事じゃないよ」秋希は笑顔をつくりなだめる。いつになくぎこちない作り笑いだった。「それで、私たちに出来る事とかある?」

「それで秋希とトオルに声かけたの。ほら、仲直りしたいっつってもさ、あたし何すればいいのか分かんないし」


 もし事情を知らなければ、俺はきっと「普通にごめんなさいすりゃいいんじゃねぇの」なんて無責任なアドバイスをしただろう。でも杏子と坂橋の場合、今んとこ悪いのは坂橋だ。杏子はあくまで紹介された男の誘いに”乗ろうとした”のであって、まだ付き合うと決まったわけじゃない。一方で坂橋は、これまでに何度も杏子の機嫌を損ねるような真似をしている。なのに彼女がちょっと別の男に目を移しかけただけでキレてるんだから、しょうがねぇヤツだよ全く。まあ奴を擁護するなら、彼氏がいるのに誘いに乗りかける杏子も、全く悪くない訳じゃないけどな。


「そうだよねぇ。んー」


 他にも心配事があるだろうに、秋希は真摯に向き合い方法を模索していた。こういう時にいい解決方法があるとすれば、それはグループで行動する事だ。杏子も坂橋も、もし秋希が何か誘って来れば確実に乗ってくれるだろう。昨日は誘いに乗らなかった秋希が誘えば、効果も倍になるはず。坂橋のやつも、避けている杏子が来ると知っても誘いに乗ってくれるだろう。その口実も、丁度いい物を考え付いた。


「試験も近いし、勉強会をやるってのはどうだ」

「勉強会?」


 思った答えではなかったのだろう、杏子は目を丸くした。


「俺たちは別に問題ねぇけど、坂橋のヤローがまた赤点取りそうだからな」

「そ、そーなんだ……アハハ」


 何故か目をそらして、わざとらしく乾いた笑い声をあげる杏子。なるほど、分かりやすいな。


「杏子、お前もかよ」

「だってさ、アイツの事とかもそーだけど、あたしいろいろ忙しかったんだもん。てかそもそも勉強できる気分じゃなかったし」


 かく言う杏子だが、中学時代はいわゆる真面目ちゃんだったらしい。こいつと中学が同じだったヤツから聞いたことがあるが、曰く「めっちゃ地味だった」そうだ。いわゆる高校デビューってヤツだが、それは坂橋も同じだ。つまりこの二人は、高校デビューカップルってワケ。そういう意味ではお似合いだと思うんだがな。


「でもいいよね、勉強会。それなら坂橋くんもきっと来ると思うよ」


 まだぎこちない笑みだったものの、秋希も賛成するように手を合わせる。


「そーかな?」

「でもよ、秋希が来ねぇってんなら誰も来ねぇだろ」

「え? 私参加するつもりだけど」


 さらっと口にするもんだから、つい腰を抜かしかけてしまう。


「だってお前……」


 そこから先は言葉にしなかった。もし言う必要があるなら、秋希が昨日の時点で教えてくれただろう。だが伏せた以上、俺から言うのもよろしくない。向こうも俺の思惑をくみ取ってくれたのだろう、そっと耳元に顔を近づける。


「さっき言ったじゃん。お父さんがいるって」


 バスに乗った時、おばさんはおじさんが見ていると言ってたな。しかもおじさんは明日も休みを入れてたようだし、それなら心配はいらないか。

 秋希は俺の耳元から顔を離すと、再び杏子のほうへ顔を向ける。


「という事だからさ、やろうよ勉強会」

「あ、秋希も来てくれるんだよね?」

「もっちろん。あ、でも他の人は大丈夫かな。杏子も、できれば今日がいいんだけど、いい?」

「えっと、あたしは今日は誰とも遊ばないからいいけど」

「そっか。じゃあさトオル、後で他の皆に声かけて置いて」


 投げやりではあるが、坂橋はともかく小暮と涼野辺りは同じ委員会だしな。今日も放課後は委員会あるし、丁度いいだろう。

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