3-11.呪詛の夜2

 ちらちらと火が揺れる。


 向かい合って座っている二人の真ん中に甘い花の香りが広がって、そこに油の焦げた匂いが混ざる。灰色にくすんだ煙が、くるくると渦を巻きながら昇り、やがて透明に変わって空気に溶ける。途端に、すっと、鼻から脳に風が抜けるような感覚がした。頭が冴える気もした。そのうちに無臭になって、少しぼうっとしてきた。


 ……


 無言で見つめ合っていると落ち着かない。


 静衛ジンウェイが全く、視線を逸さないせいだ。


 英明インミンはそういうのを気にする性格ではないし、相手が見つめてきたら微笑み返すくらいの余裕はあるのに、考えにふけっているのか、何も考えていないのか、彼は凛々りりしい眉の下のくっきりと映えた黒い瞳を自分の焦点に合わせてくる。これではさすがの英明インミンも、何かを話さずにはいられなくなった。


「何を考えているの?」

「……うん?」


 静衛ジンウェイの返事が遅い。思考が別世界に行っているのか。


「大丈夫? 気分が悪い?」

「いいや、何ともない。あまりに忠告されたものだから、意識を失わないように考え事をしていた。仕事のことでも考えていたら、頭も冴えてくるだろうと思ってな」

「宮廷の警護だったかしら。名前の通りに、まもる、任務に就いているのは天職と呼べるのかしらね」

「そう見えるか?」

「いいえ、あなたにはまどろっこしそう」

「よく分かっている」


 静衛ジンウェイが笑う。


「砦を守る役目ってのも嫌いじゃないが、三日もすれば飛び出したくなる。蹴散らした方が早いんじゃないかってな」

「さぞかし、あなたにとっての宮廷は窮屈きゅうくつでしょうね。そういえば最初の妹さんへの文に転属したって書いてあったけど」

「なんだ、俺のことを覚えていないと言ったくせに、しっかり覚えているな」

「人の顔を覚えるのは得意じゃないけど、言葉は記憶しているの」


 英明インミンは自分の括った髪をでる。少し火が弱くなってきたのでわんに油を足した。


「宮廷に転属したのは出世とか、高位の文官と面識を持つのが理由ではなさそうね。やっぱり妹さんのため?」

「妹のためでもあるし、出世のためでもある。好きなことをするためには、望みを叶えるためには、それなりの地位が必要にもなる」

「妹さんを救いたい?」

「それを含めてのことだ。知っての通り俺たちは西南の出だ。宮廷ほど華やかな場所ではないが、それなりに良い所だ。しかし、ここ最近は争いばかりが続いていた。中央に支配されることを是としたわけではないが、辺境として管理下にある頃は、まだ良かった。このところの情勢は混沌としつつある、不甲斐ない都のせいだな。それなのに一丁前に女を寄こせと言ってくる。そうして任暁レンシャオを西方を制圧する鎮西将軍に命じている。地位を上げるより、他になかろう」

「それじゃあ、帝を恨んでいるの?」


 確信を貫く質問に、静衛ジンウェイは無精ひげむ。この女、どこまで知っているのか、という表情をしている。


「私から聞いているのだから安心して。もし不敬罪になるのなら、私のせいだから」

「いや、シャオからおおよそ聞いているから構わないが、どうしてそんなことを聞くのかと思ってな」

「いっそのこと、この像を献上してしまえばいいんじゃないかって思っただけ。帝に呪いを渡す手もあるんじゃないかって。任暁レンシャオに聞いてみようと思ったけど、止めといたの。だって彼ならそういう可能性を真っ先に考えるでしょうから」

「皇帝が呪いや毒を受ければ、そこに呼ばれた妹も犠牲になるかもしれない。そう考えたんだろう。それにあいつは――」


 静衛ジンウェイわんの中で揺れる小さな炎を、じっと見つめている。


「もう何か手を打っているはずだ。そういう男だ」

「ふうん……私の考えは、ちょっとだけ違うけど」


 英明インミンがまた、油を足す。


「おい、大丈夫なのか?」

「だって消えそうだもの――罠を張っているかもしれないけれど、彼は、何もしなくていいと思っているのかなって」

「……どういうことだ?」

「さあ、どういうことでしょうね。あんまり言うと、私、本当に不敬罪になりそう――ねえ、どうしてこんな話をしているのかしらね、煙に酔ったのかもしれない」


 英明インミンがゆっくりと、立ち上がった。


「さすがにのどが乾いてきた。お茶を飲みたいけど……小鈴シャオリンに持ってこさせるわけにはいかない。自分で取ってくる。あなたも少し外の空気を吸ったら? 律儀に、ずうっと煙を吸い続けていなくてもいいのよ」


 全身に見えないしがらみが煙となって絡みついている気がする。そでを払って、匂いをいだ。嫌な臭いはしないけれど、むしろ落ち着いてくるけれど、それでもやっぱりのどは乾く。英明インミンが部屋を出ようとしたところで振り返ったら、静衛ジンウェイは火を見つめたままで全く動こうとしない。


「ねえ、本当に。もう少し離れなさいな」


 ちょっと心配になった。


 部屋を出たら廊下は真っ暗だったが、慣れている空間だからぶつかることはない。ぎしぎしと板のきしむ音がして、台所に着いたら松明たいまつが灯されていて、もう茶が用意されていた。


 紅い花柄の急須と、二つの湯呑み。


 小鈴シャオリンが気をきかせてくれたらしい。英明インミンは盆を持って、また、暗い廊下を歩いた。


 書斎に戻れば、静衛ジンウェイが居ない。


 戸が開いたままだから、助言通りに外の空気を吸っているのだろう。英明インミンは机の前に座って、油橙ゆとうの横に盆を置いて、また、油を足した。


 ……


 どうして、あんなことを言ったのだろう。


 不用意な発言だったと思う。


 静衛ジンウェイのことを信用していないわけではないが、彼らの情熱に流されて自分まで感情的になっている気がする。別に帝を恨んでいるわけじゃない。直接、何かをされたわけでもない。任暁レンシャオ静衛ジンウェイも、静月ジンユェを人質に取られてはいるものの、彼らも悪い扱いは受けていない。つまり憎んでいるのは帝ではなくて、制度の方だ。それを打開することのできない、矮小わいしょうな自分たちの方だ。私はどうしたいのか。私は何を望んでいるのか。私は――


「帰ったぞ」


 戸の外から声がした。無精ひげみながら戻ってくる。英明インミンは彼を見ながら、随分とひげが伸びたのね、と思う。


「何処まで行ってきたの?」


 英明インミンは茶を飲む。彼は正面に座り、茶を一気に飲み干す。


「……やはり、ここの茶は上手い」

「結局、故郷がいいのね」


 英明インミンは茶を注ぐ。男がまた、すぐに飲み干す。


「ねえ、何処まで行ってきたの?」

「西南の、それよりもずっと西だ。古代の寺院があった。壮健そうけんだったよ」

「どういう寺院?」

「仏教を祭っているらしい。丘の上にあって、町を見下ろしていた。文明が優れている印象はなかったが文化に歴史を感じた。装飾には見張るものがあった」

「いいな。私も連れて行って欲しかった」

「お前には、危険だ」


 優しく微笑んで、頭をでてくれる。


「そんなこと言って、いっつも、ぱーぱと、じーじばっかり」

「仕方ないだろう。まだ小さいし」

「じゃあ、おーきくなったら、つれていってくれるの?」

「それは……無理だな。長い旅は危険だし、異国への通行の許可が出ないかもしれない」

「どーして?」


 だって。


 お前は女の子だから。


 学問に費やす時間があったら女らしさを磨け、だなんて、まーまは言わないけどおばあや、おじいがそんなことを言って、私を叱ったりするのは、


「お前の将来を心配してのことだろう」


 詩経や孟子もうしなんて読んでいたって女訓は身に付かないって、それが幸せだって私はちっとも思わないもの、それで、ね、ね、こーきゅーって何なの? きれいなところなの? はなやかな場所?


 いつかは私は旅したいって 言葉を学んで

後宮に入れば 誰が決めたの 御子を産めば

  私の望むのは 自由を

得るためには 幸せになれるっていっそのこと

  願いをかなえるのには、もうこれしかない

 だからだからだからだから

傷傷傷傷傷傷傷傷

 をををををををを

  つつつつつつつつ

   けけけけけけけけ

    てててててててて

     しししししししし

      まままままままま

       ええええええええ


「しっかりしろ!」


 じっとりと湿る汗に、体が宙に浮いている。止まっていた呼吸が急に戻って、はあっと、大きな息を捨てるように吐く。


「……ここは?」


 やけに肌が寒い。服が汗に濡れて、冬の風にさらされている。いつの間にか部屋から外に出ていたらしく、斜めになった体を抱きかかえているのは――


 静衛ジンウェイだった。


「ねえ、お父さん……うっ!」


 頭が痛い。すぐに状況を思い起こせない。ただ、はっきりとしているのは毒の効果を甘く見ていて、彼に助けられて、庭に引きずり出されたこと。書斎へ目をやれば、机の上の火は消えている。だけど、持ってきていたはずの茶器を載せた盆がない。


「お茶は、どうしたの?」

「……そんなものはなかったが」

「えっと……いったいどこから? どこまでの会話が本当なのかしら」

「それは俺にも分からん。昔のことを想い出して、故郷の草原を駆け回っていたところを襲われてる夢を見ていた。戦おうとして、躍起やっきになったところで気が付いたら、あんたがうなっていた」

「そう……ありがとう。助けてくれたのね」


 静衛ジンウェイに抱きかかえられながら、自力で起き上がろうとする。その時、自分の左腕のそでが、べっとりと生暖かい液体でにじんでいることに気が付く。


 これは、血?


 また、自傷していた?


 それにしては、痛みがない。


「あなた、その傷、どうしたの!?」


 怪我をしているのは英明インミンではない。彼女を支える、彼の腕が赤い。あの傷口からして、まさか腕を深くえぐられているのではないか。


「……まさか、私が?」

「いや、あんたじゃない。気にするな」


 もう一度、書斎を見れば、茶器を載せた盆の代わりに短刀が置かれている。刃の先は真っ赤に染まり、床まで濡らしている。おそらくは、いや、間違いない。自分で自分を短刀で刺そうとして、それを彼が止めてくれたから代わりに怪我をした。それでも彼は一向に動じていない。しっかりと両腕に力を入れて、自分の身体を支えてくれている。


「大丈夫、ありがとう。もう立てるから」


 自分の軽率さに申し訳ない。ここまでの失態を演じたのは何年振りだろう。英明インミンは部屋に戻って、棚から包帯ほうたいを探そうとしたが、どこにしまってあるのかをすぐには想い出せなかった。代わりに机の上に置いてある、血に濡れた短刀を持って、


「おい、どうする気だ」


 慌てる静衛ジンウェイを脇目に、袖を切った。白の上着が短くなった。


「大丈夫、もう正気だから。腕、貸しなさいな」


 静衛ジンウェイの腕に、袖を巻く。自分の腕よりも太いから長さが足りない。もう片方の袖を切って、二本のそでの長さで、ようやく、ぎゅっと結べた。


「ねえ、あなた、男に産まれてよかったと思う?」


 こんなことを聞いてみた。


「あんまり考えたことはなかったが……嫌だと思ったことはない。あんたは、もしかして男に産まれたかったのか?」

「……どうかしらね。でも、後悔はしていないかな」

 

 男には男の、女には女の戦いがある。自分に腕力はなくとも、別の戦い方がある。それで強くなれたと思っているし、誇りにも感じている。


 だけど。


 今晩だけは、ちょっぴり、男がうらやましくもなる。


 もしも、私が男に産まれて。


 それで父と、旅をしていたら。

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