3-10.呪詛の夜1

 その日の夜は、何も起こらなかった。


 英明インミン任暁レンシャオは協議した日の晩から警戒を強めていたが、特に異常はなかった。さすがにまだ呪詛じゅその像が九訳殿に置かれていることを相手が知らないのかもしれない。それではと、次の日も、その次の日も徹夜で待ち構えたが、寒々しい夜に寝不足だけが続く。さすがに疲弊ひへいしてきたのか、任暁レンシャオは両目の下にクマをこしらえて、目頭を押さえながら、


「油断したところに、蜂蜜はちみつという言葉がある」


 聞いたこともない謎の熟語を勝手に産み出した後に、


「代わりの護衛を連れてこよう」


 何度もあくびを繰り返して、本来いるべき場所へと戻った。多忙な彼のことだから、いつまでも徹夜に付き合わせるわけにはいかない。代わりに派遣されてきたのは任暁レンシャオと背丈が同じくらいの短髪の男だった。


「俺のことを覚えているか?」

「いいえ、全然」


 せめて名乗れば分かるものを、自信満々に立てた親指だけでは伝わらない。


「妹が世話になっている、改めて礼を言わせてくれ」

「ああ、お兄さんだったの」


 英明インミン静衛ジンウェイと一度しか会っていない。顔を覚えていないのも無理はない。


「俺は夜の男と言われている、だから安心しろ」

「どういう意味なの、それ」


 門の警護を任されている職業柄、徹夜に慣れていると言いたかったらしい。任暁レンシャオと比べて繊細さに欠けている気はするが、彼の方が体躯たいくに恵まれている。つまり、護衛役にうってつけなのだが、彼の出番はすぐには訪れそうにない。実際に、ここ数日は何も異常は起きていない。英明インミンは空振りの日々を過ごしているうちに、自分の考えが間違っているのではないかと疑うようになっていた。全てが間違っているわけではなくて、毒の盛り方について、相手のやり方はもっと狡猾こうかつなのではないかと。


「せっかく来てくれて申し訳ないのだけど、あと二日くらいは出番がなさそうなの。明後日の夜に、また来てくれる?」

シャオからの話では、かなり危険な相手のようだ。さすがにあんたを独りにしておくのは気が引ける」

「その物騒な人はね、直接、ここに出向いてくる気がないみたい。これだけ姿を現さないとなれば、間接的な手法で仕掛けてくるか、もしくは私の推測が丸っきり外れていたのか。どのみち明後日くらいには進展があると思う。その時になったら来て――と言っても、できれば巻き込みなくはないけれど」

「巻き込んでいるのは、むしろ俺たちの方さ」


 静衛ジンウェイが真っ直ぐな眼差しを向ける。


「明後日の夜に来ればいいんだな。確かに請け負った」


 あっさり引いて、すっぱり言い切るあたりが男らしい。


 それから二日ほどは、英明インミンの予想通りの日常だった。


 一度は被害を考慮して閉鎖していた九訳殿を開放し、宮女に言葉を教える傍らで、都を訪れた異人の九訳係を勤めたりもした。夜になっても特別に警戒することはなく、せいぜい、独り書斎で蝋燭ろうそくに火を灯して多少の夜ふかしをするだけ。


 かくして、約束の夜になり。


 静衛ジンウェイがやって来る。


 朱色の槍を携えて、太い刀を腰に差している。


「生かして捕まえる気がなさそうね」


 英明インミンは武器を小鈴シャオリンに預けて、彼を書斎にまで案内した。静衛ジンウェイは机の前で胡座あぐらをかいて、両腕をだらりと下げた。


「今日はね、早めに人払いをしているの」

「やはり今晩こそ襲撃される予見があるのか」

「そういう類の危険じゃない」


 英明インミンは冬の夜に、戸を開け放った。


「換気をしないとね」

「ほう、物騒な試みでもするわけか」

「当たり。実はね、この二日間、何もしなかったわけじゃないの。不必要に夜更かしをしつつ、あくまで自然に寿命を縮めていた」


 英明インミン静衛ジンウェイの前に、使い終わった蝋燭ろうそくを置いた。


「後宮が位置的に近い関係で、尚寝しょうしん(※後宮の日常品を管理)から補充されるんだけど、ちょうど使い切ったから侍女に取ってきてもらったら、渡されたのがこれ」


 続いて白磁の大きめのわんを置く。その中に少し濁った油を垂らした。


油燈ゆとうか。蝋燭ろうそくの代わりにしては高価だな」

「でしょ? 高位の妃ならともかく、別に頼んだわけじゃないのに勝手に向こうから渡してきた」

「まさか、これに何かが仕掛けられているのか?」

任暁レンシャオには説明したのだけど、彼らの用いる神経毒は成分の抽出に油を使う。それを燃やした煙を外から流し込むのかと思ったけど、よくよく考えてみれば九嬪きゅうひんの堂に毎夜、忍び込むのだなんて手間だものね。仮に相手が帝でも、それをやるのかって話。つまり、自分で油を燃やしてもらうのが効率的で、彼らからすれば安全なわけ」


 英明インミンは紙を指で丸めて、細く、長く伸ばしていく。そうしてへびのようにとぐろを巻いたのをわんの中に、ぽとりと落とした。


「おいおい、何をするつもりだ」


 静衛ジンウェイが思わず立ち上がった。代わりに英明インミンが正座する。


「もちろん、燃やすのよ」


 ぱんぱん、と手を叩いたら、小鈴シャオリンが火種を持ってきた。小皿に火種を置いて、小鈴シャオリンには別の部屋に下がってもらった。


「それが毒と分かっているのだろう? 死んだらどうする」

「煙が神経に徐々に作用する性質だから、そこまでの即効性はないはず。念のために戸を開けてはいるし、燃やしている皿からも距離を取る。何か嫌な感じがしたら、こっちの水をかけて火を消して、すぐに外に出ればいいわけ」

「分からんな、敢えて危険を冒す理由が。これを渡した奴を捕まえれば手っ取り早い」

「証拠がないでしょ、ただの推測で捕まえても自白させる手立てがない。いったんは一連の推理を証明せざるを得ない。あなた、立っているなら、ちょうどいいわ。もう少し離れなさいな。今日呼んだのは万が一の時は助けてもらおうと思って。だから壁を背にして、あの辺で立って様子を見ていて欲しいの」


 英明インミンは書斎の壁を指差した。


 なのに静衛ジンウェイは再び、胡坐あぐらをかいて座った。


「女だけに毒を吸わせるわけにはいかないからな」


 堂々と腕組みをして、深呼吸をして、「さあ、掛かってこい」と言った。


「……あのね、共倒れになったら呼んだ意味がないでしょ」

「二人で吸えば半分ずつになる」

「……その理屈、合ってる?」

「合っている。煙が出る、あんたが吸う。一人だけなら全部、吸い込むが、俺がいたら俺の鼻にも入る」

「どうして私一人で座っていたら、全部、こっちに流れてくる前提なのよ。いない所の煙まで私は吸わないの」

「そんな細かいことはいい。俺は倒れないと保証する、それでいいだろ。さあ、始めようぜ」


 静衛ジンウェイが小皿から火種を奪って投げ入れた。そうして、この場から全く動く気配がない。油と紙に火が移って、ぼうっと明るくなって、だいだい色の光が部屋を染める。


 微かに色のついた煙が昇ってきた。


「……あなた、単純だって言われない?」

「複雑よりもいいだろ」

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