3-4.香梅堂2

 林紗リンシャの不満は、わずか二日後に爆発した。


 待遇が良くなると聞いていたのに面積が広くなっただけで人数が変わらないのだから、これでは手間が増えただけ。しかも九嬪きゅうひんの区画は以前よりも北側にあって、さらに香梅堂はその中でも最北端に建っているから、まるで隔離されているような気分になってくる。


 もともと、この場所は梅の花を植えた庭園だったらしい。


 皇帝の一時的な訪問所としたのが始まりだったようで、梅の花に飽きた皇帝が来なくなったから、代わりに九嬪きゅうひんの誰かが住んで定着した。その梅の花とやらも今は真冬だから、葉っぱの身ぐるみをはがされた寒々しい枝が伸びているだけ。しばらく無人だったせいで花壇の手入れすらも忘れられている。これで栄転などと言われても多くの妃は納得しない。


 静月ジンユェたちとしては、これまでも冷遇されてきたのだから、こういう扱いには慣れている。林紗リンシャとしても、それだけなら我慢ができた。しかし彼女が腹を立てているのは、自分たちには何の責任もないのに、勝手に不穏な噂を立てられてしまっていること。


 ――あの堂は、呪われているんですよ。


 こんな世迷言のせいで、みんながこの場所を恐れて、誰も手伝いがやって来ない。手伝わないだけならまだしも、本来やるべき職務さえ放棄されている。


 ――贈り物を取りに来てください。

 ――料理を取りに来てください。

 ――茶葉を取りに来てください。


 門の前の投函箱に、紙だけが届いている。


『投函のついでに、自分で持ってこればいいのに!』


 林紗リンシャは紙の束を丸めて空に向かって投げた。後宮の衣食住を管理する施設は全て、南側に密集している。最北端から最南端を往復するのは大変なのに、それで今、点心を作るための小麦粉の袋を抱えて帰ってきたところなのに、また取りに来いとは正気の沙汰さたではない。


『本来は、ユェ姐ぇの分の料理は尚食しょうしょくから九嬪きゅうひんの置き場にまで運ばれてるらしいんだよぉ』


 麻朱マオシューが、いつも通りに泣きそうになっている。


『だけど、まだ九嬪きゅうひんになっていないからって追い返された。それじゃあ、本来の私たちの分はどうなってるのかって、絶対、他に取られてるに決まってるもん』

『まあ、実際に九嬪きゅうひんにはなっていないもの』


 静月ジンユェは弱々しく笑って、自分はあまり気にしていないのだが、二人には肉体労働をさせて申し訳ない。


『せめて、掃除や料理くらいは私がするから』

『え~、皇帝の妃は料理なんてしちゃいけないんだよぉ』

『しちゃいけない……ってことはないと思う。ここの中だけの決まりなら自由にすればいいの。とにかく、私ばっかり待ってても落ち着かないから……ねえ、シャー、こっちに積んである箱は何だっけ?』


 静月ジンユェが堂の玄関に積まれている箱を指さす。林紗リンシャは離れにある調理部屋に小麦粉を運び終えてから、


『装飾品だったよ。殺風景のままだとあれだからって、私たちにしては珍しく贈り物が届いてるんだって。まあ、ユェ寵愛ちょうあいを受けるようになったんだから当然のことなんだろうけど』

『うわぁ……すごい、綺麗だね』


 静月ジンユェが箱を開けたのを、麻朱マオシューが覗き込んだ。届いたのは銀のかんざしや水晶の腕輪などの装身具から、絨毯じゅうたんや青磁器など部屋を彩るための家具。金を施した冠もあって、今まで触れたことのないような高貴な品ばかり。麻朱マオシューは喜びのあまりに飛び跳ねて、一方の静月ジンユェは首をひねっていた。


『あんまり派手なのは……私に似合うかな』

ユェ姐ぇなら、きっと似合うよ。それに贈られてきたものを無下にするのは駄目な気がする』

『……そうかな。じゃあ、シューは私と一緒に飾り付けする?』

『はいはーい、賛成でーす』


 調理は林紗リンシャに任せることにする。


 静月ジンユェは堂の飾りつけを、その前にそれぞれの部屋を掃除をすることにした。宮女や宦官かんがんが清掃してくれたとはいえ、御付きの者がまだ来ない。日々の家事は自分たちだけでしなければならない。それを億劫おっくうだ、とは感じていない。むしろ何かをしている方が気が晴れて助かる。


 なぜなら、本当は静月ジンユェも『呪われているという噂』を怖がっているから。それを忘れるために部屋を綺麗にして、飾りつけもして、自分たちの空間であると納得したい。


 まず、静月ジンユェは玄関周りをほうきで掃いた。それから客間、寝室、侍女の部屋を片付けて、それぞれの部屋に贈り物のつぼやらしょく台やらを配置していく。


『これ、最初からあった?』


 静月ジンユェは寝室の丸机に堂々と置かれている銀の像に、今更になって気が付いた。


 まるで部屋に溶けているように、自然と置かれている。


 銀色だから目立つはずなのに、なぜか目立っていない。そこにあって当然のように違和感がない。静月ジンユェの疑問に、隣の部屋の麻朱マオシュー林紗リンシャが蒸したばかりの点心を頬張りながら、


『来たほきから、そこに置いてふぁったと思ふ』

『そっか。じゃあ、動かさない方がいいのかな』


 とりあえず、このままにしておくことにした。

 

 おおよそ、飾り付けが終わったところで、そろそろ遅めの昼食を取ろうかと腰を休めたあたりで、玄関の外から大きな声がした。


「どうしてさっさと出てこないのかしら! 私の足音で気が付きなさいよ!」


 さすがに足音では分からない。声を聞いたからすぐに分かる。それほどに聞き慣らされている。


 慌てて、外に出る。


 もちろん、待っていたのは紫萱ズーシェンだ。こんな最北端に引っ越しても彼女との因果は切れないらしい。静月ジンユェは腰を低くしてから、


「ご機嫌、麗しゅう、紫萱ズーシェン美人妃」


 いつも通りに挨拶あいさつをしたのに、


「は? 今、何て言ったの?」


 なぜか今日の紫萱ズーシェンはいつも以上に不機嫌だ。

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