3-3.香梅堂1

 皇帝の妃とは、つくづく、気苦労にさいなまれるものだと思う。


 九嬪きゅうひんである梓琪ヅーチー妃が不審な死を遂げてから数日後のこと、静月ジンユェ皇后こうごうの宮殿に単身で呼ばれていた。


 皇后の住まいは『麒麟きりん宮』と呼ばれる五大宮の一つであり、代々、ここに住むのが決まりになっている。五大宮の中心に位置するこの宮殿は後宮内で最も広大な敷地を有しており、名前の通りに金に塗られた屋根や柱があって、威風堂々とした神獣の像が出迎えてくれる。それなのに、所々に金のがれた黒が見えてしまっているのが気になる。これだけの装飾をこしらえるのは相当の手間なのだから、後世に残す気があるのであれば、もっと入念に手入れをすべき。


 もしかして、修復する金が足りないのか。


 後宮には政治の情勢がそのまま反映されると聞いている。あまり財政がかんばしくないのかもしれない。だとすれば、やはり自分はもっと質素に暮らした方が良いのではないか、などと静月ジンユェは常々、世間との乖離かいりに悩んだりしている。


「皇后娘娘にゃんにゃん、ご機嫌麗しゅう」

「どうぞ、座って」


 皇后・李金リジン妃と相対するのは、これで三度目だった。最初は九人会で間接的に見ただけで、二回目は寵愛ちょうあいを受けた翌朝のこと。後宮の勤めを果たした妃として正式に皇后と対面を果たした。対面するのはさすがに緊張したものの、皇后は温和な性格の人だと聞いていたし、実際に静月ジンユェにも優しく接してくれたから、今ではもう平気だ。


 皇后とは皇帝の正妻でありながらも、後宮に住む妃たちの世話役のようなもの。


 四夫人しふじんにとっては義姉のような存在であり、静月ジンユェのような若い十代の妃にとっては義母のような存在を兼ねている。本当の意味での義母は皇太后になるのだが、皇帝の母親は後宮に住んでいないため、実質的なまとめ役を皇后が担うことなっていた。


「このところ、何度かお呼ばれになっているようね、感心なことです」


 李金リジン妃の口調は穏やかで、他の妃のように嫌味を含んではいない。皇后の淡い黄色の衣装は派手なようでいて、あくまでも奥ゆかしい。そばに立っている侍女頭も年配の女性のゆとりなのか、温厚な笑顔で二人の会話を見守ってくれている。ここに他の妃さえいなければ、静月ジンユェにとってそれほど悪い空間ではない。今日は二人だけだから、それも安心の一つだった。


「陛下からの評判も上々のようです。引き続き、陛下の心労を癒してあげることに尽力じんりょくしてください」

「はい。身に余ることですが、全力を尽くします」

「そういう謙虚けんきょな姿勢も評価されているのでしょうね。なにせ……ここには気の強い妃が多いものだから」


 皇后は少し疲れている様子だった。彼女は齢三十の半ばほどで、五十に近い皇帝と違ってまだ若い。それなのに目じりにしわが刻まれて、ほほが少々、こけているように見えた。


「ただ、こう言っておきながらも……あなたに申し訳ないことがあるのでこうして呼びました。実は、あなたの引っ越しが決まったのです。今、手狭な部屋が割り当てられているとのことで、陛下の覚えのある者がそれでは忍びないだろうと、特別に堂入りが認められました」


 ここでいう堂入りとは、部屋付きよりも広い、名前付きの堂が与えられることを意味していた。つまり皇帝の寵愛ちょうあいを受けた恩恵として、早速、生活が改善されることになる。今よりも待遇が良くなるのだから喜ぶべきことなのに、静月ジンユェとしては、どうにも複雑な心境だった。有難いようで、逃げ場がなくなる、何とも言い難いモヤモヤした霧が胸を覆う。


 さっき、全力で尽くすと言ったが、正直なところ皇帝の顔をよく覚えていない。


 皇帝の夜伽よとぎを三度ほど勤めたが、それも、よく覚えていない。


 任暁レンシャオと肉体関係を持ったことで、初めての相手を恋愛で終えたことに満足したから、今までよりも人生を前向きに考えられるようになった。だけど、罪を犯したとの自覚が一層に後ろめたい気持ちにもさせた。だから静月ジンユェなりに皇帝に尽くすべきだと考え直して、できるだけ誠意に勤めようとしたのだが。


 十七の自分と、五十に近しくなった男。


 精神的にも、肉体的にも大きな隔たりがあるのは否めない。もはや恋愛を期待するのは止めたが、いくら好意的に捉えようとしても、ただの作業のようにしか思えない。


ちんは、再び若さを取り戻すつもりだ」


 こんなことを言うあたりに、ますます、老いが感じられて、皇帝の印象がどうにもぼやけてしまう。事が終わった後には記憶にも残らっておらず、申し訳ないことに、部屋に帰ってから浮かぶのは任暁レンシャオの顔ばかり。これはもう、自分ではどうにも制御しようがなかった。


 なのに、私は、寵愛ちょうあいによる恩恵を受けている。


 贅沢ぜいたくな暮らしを与えられている。


 他の妃には本心で皇帝を愛している者もいる。心底、皇帝の寵愛ちょうあいを欲している妃がいる中にあって、こういう悩みこそが贅沢だ。だけど静月ジンユェは割り切って考えられるほどには器用な娘ではない。そのまま、あの部屋に留めておいてくれても良かった。だから新居への引っ越しを素直に喜べなかった。


「ありがとうございます」


 とはいえ配慮してくれた相手に感謝を告げるのは当然のこと。


「……それ自体は良いことなのだけど」


 ここで皇后は侍女頭と目を合わせてから、


「あの件を、知っている?」


 あの件と言われて、なんとなく思い当たる節はあった。


 ここ最近に亡くなった梓琪ヅーチー妃のことだろう。


 林紗リンシャから噂として聞いていたし、英明インミンもそんなことを言っていたから信憑しんぴょう性が高い。


「もしかして、とある妃に不幸があったことでしょうか?」

「ええ、そのことよ。話をしたことはないでしょうけど、梓琪ヅーチー妃という九嬪きゅうひんの修容を務めていた聡明な妃がいたの。なのに、つい数日前に亡くなった。不幸な出来事としてあなたが気に病む必要もないのだけど、問題は、彼女が最後に住んでいた『香梅堂』に、あなたを移すことに決まったから」

「……そう……ですか……でも、自分は」


 何とも思わない、と言えば嘘になるが自分に選択肢などない。また、良かれと思っての処遇による引っ越しであれば拒否する理由はない。


「そういうのを気にしていませんので」


 このように答えるしかない。だが、さすがに相対している女性は皇后たる聡明さを持ち合わせているのか、静月ジンユェの表情が少し曇ったのを見逃さなかった。


「空いている場所だからと言って、名誉なことではあるのよ」


 皇后が、すぐに取りつくろう。


「本来は九嬪きゅうひんが暮らす場所だから、決して格が見劣りするものではありません。美人妃のまま堂入りすることは珍しいのですから、これは期待されてのことでもあります。香梅堂というのは本来は縁起の良い名前です。きっと春には素晴らしい梅が花を咲かせることでしょう。どうか、あなたの代で名誉を回復してやって」

「はい、私で出来ることでしたら喜んでお受けいたします」


 これで要件は終わった。


 皇后は静月ジンユェの返事に一通りの満足を覚えたようだったが、去り際に、


「……何か困ったことがあれば、言ってちょうだい」


 歯切れの悪い言葉を背中に投げた。静月ジンユェは振り返って、再び、頭を下げた。


 この皇后の言葉の意味は、すぐには分からなかった。理由が判明したのは例の『香梅堂』に移動してからのことになる。


「こちら、清掃は済ませてありますので。何か物入りが必要でしたら内侍省までお越しください」

「内侍省って……遠い、です。それに堂には、担当の公々、いる、普通は」


 侍女の林紗リンシャが不服そうに伝えたが、それにも構わず、


「しばらく経てば誰か配属されるでしょう。それまでご不便をおかけしますがご了ください。では、私はこれで」


 宦官も、宮女も、早々に去っていった。


 冷たい風が庭に吹く。


 麻朱マオシューが、くしゅんと、くしゃみをする。


『あれぇ、もしかして、避けられてますかぁ?』


 結局、堂入りを果たしたのに相変わらずの三人だけ。これは静月ジンユェを避けてのことではなくて、不審死があったばかりの場所に誰も近寄りたくはなかった。

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