2-10.月に酔う3

 任暁レンシャオが宿舎へ帰る頃には、雨は止んでいた。空を覆っていた雲は去り、満月だけが残っている。


 彼は気まぐれの月に、静月ジンユェと巡り合わせてくれた迷いの雨に感謝している。


 今宵のことは、もう二度と交わることのできない一時の行為に過ぎなかった。わずかな時間の幸福が、多大な不幸を招く火種に成り得ることも十分に分かっていた。


 それでも、後悔はなかった。


 二人の心に留めた記憶は、この先に待ち受ける困難に耐えるための覚悟へと変わる。そういう強い意志を彼女の身体から感じた。もっと早くに想いを伝えておけば、などと考えもするが、言わないままで終わるよりは良い。それに運命に身を任せたまま終わりを迎えるほど任暁レンシャオは素直な男ではない。静月ジンユェを幸せにする目標は変わらないのだから、そこに至る過程が変化しただけ。


 とはいえ、後ろめたいこともある。


 帝の忠誠を裏切ったとか、そういう殊勝な精神ではない。


 静月ジンユェの家族を巻き込むことになったのを、事を終えて冷静になって心配になった。遠い西南の家族もそうだが、この場合、近しい距離にいる友人の静衛ジンウェイに迷惑を掛けることになる。


(これでは、いつもと逆だな)


 直線的な行動こそ静衛ジンウェイの特権なのに、これでは例の文のことを言えた立場ではない。


静月ジンユェとのことを黙っておくべきか……いや)


 自分の罪を自分で責任を取るのはいいが、連帯責任として静衛ジンウェイも負うとなれば話は別だ。


 正直に話すべきか。


 知らなくて良いことを、わざわざ教えてやれば共犯者になる。しかし不貞の事実を知ろうが、知らまいが、公になればどのみち一族郎党、全員が死をたまわることにはなる。では、黙っていても結果は同じだろうか。


(明朝にでも、伝えるとしよう)


 結局、友人に黙っていることは不義理だと考えて、任暁レンシャオは正直に静衛ジンウェイに伝えることに決めた。そんなことを考えながら兵舎に戻れば、こんな夜中にも関わらずに門の前に一人の男が立っていることに気が付いた。


 あれは、静衛ジンウェイだ。


 遠くからでもすぐに分かる、見慣れた背格好だから。


「脱走しにきた」


 静衛ジンウェイはこんな夜中に徳利を携えている。部屋に留守と分かれば帰るのが普通なのに、わざわざ寒い中を待っていた。まさか、任暁レンシャオの不貞をもう知っているはずがない。そうなると静月ジンユェ寵愛ちょうあいを受けると決まったことについて、兄として思うところがあったのかもしれない。


 任暁レンシャオうなづいて、そうして黙ったまま、二人で宮廷の外へと向かった。もう門は閉じられているが、守衛の任についている静衛ジンエイ躊躇ためらいもなく鍵を開ける。こういうのは懐かしい。昔、二人でよく師匠の所から逃げ出した。


 都をしばらく抜けて、見晴らしのいい丘にまで歩いて、そこで腰を下ろして、二人の真ん中に徳利を置く。


 まず、互いに酒を。


 二、三ほどの杯を飲み終えたあたりで、任暁レンシャオは短刀をすそから取り出した。静衛ジンウェイから手の届く距離だった。


「今夜、静月ジンユェを抱いた。たまたま、後宮の近くで出会ってのことだ。示し合わせたわけではないが、意志を持って、彼女を抱いた。お前の家族に対して、親孝行をしようとした静月ジンユェの願いに反する。だから始末を任せたい」


 この発言に、さすがの静衛ジンウェイも驚いていた。それもすぐに、任暁レンシャオの真剣さを前にして、何度か小さく、「なるほど」とうなずいた。


「言ったろ。俺の失敗は、お前の失敗。お前の失敗は……俺の失敗だと」


 ほほが緩めて、笑ってくれた。


「お前の気持ちは分かる。後宮に取られて何も思わないわけがない。事を起こすきっかけは最初から同じだった。それに新しい理由が加わっただけのこと」

「……そうかもしれないが、本当にいいのか? 頭で考えていることと、実際に行動に起こしたのでは罪の桁が違う。このままではお前も、俺と同じ罪を背負うことになる」

「構わんと言ったろ、そもそも静月ジンユェの実兄は俺だ。救ってやれなかったのは同じだ。罪はむしろ、俺の方が深いな」


 任暁レンシャオ静衛ジンウェイは遠くの空を見る。夜の空は、昼の空よりも果てしなく遠くにまで続いている気がする。


「俺は将軍になった。お前も、いずれは将軍になる。互いに勝ちを積み重ねて、今では千や万の兵士に号令をする身分になった。だが、たった一人の女の自由すらも、ままならない」

「では雲になってみようか、自由に流れる、あの雲のように」

「無理だな、しがらみの全てを捨てきれはしない。俺は、静月ジンユェには……鳥になって欲しかった」

「じゃあ、俺たちが空を作るしかない。そうだろう、この色男」


 静衛ジンエイは立ち上がる。


 そうして任暁レンシャオに手を伸ばす。


「立てよ、相棒。妹を鳥にしたければ、お前が空になれよ。それで俺は雲になって、気ままに流れてやる」

「……なんだ、良いことを言っているようで、お前は随分と気楽な立場だな」

「苦労を背負うのはお前の役目だろ」


 任暁レンシャオは、静衛ジンエイの手を取る。ぐっと力を込めた静衛ジンエイの腕に引っ張られる。


「杯を挙げて名月を迎え、影に対して三人と成る、か」


 月の夜に、周囲に誰もいないが。


 今宵の酒は、一人だけではなかった。


 少なくとも、月の影は二つあった。


 いつか、この影が三つ四つと増えてくれることを願う。

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