2-9.月に酔う2

 二つの目が、月のように丸く開く感覚がする。


 唐突な出来事に、すぐには状況を飲み込めない。驚いているのは相手も同じらしく、彼の両目も開いている。二人で見つめ合っているうちに、そこに立っているのは間違いなく任暁レンシャオだと改めて気付いたから、ふと、静月ジンユェの右手から力が抜けた。


 持っていた杯を土に落とす。


 咄嗟とっさに視線を下に向ける。一度は拾おうとして身を屈めたのに、それよりも彼のことが気になって。


 視線を戻したから、また、目が合う。


 結局、落とした杯はそのままに、雨が降っているのに、軒の下に逃れようとはせずに。


静月ジンユェか?」


 懐かしい声で呼ばれた。体が少し、反応した。


「……どうした、そんなに濡れて」


 まだ、二人の手は届かない距離だった。遠くから任暁レンシャオが腕を伸ばしたから、つい、彼の手を握ろうとして、そのまま胸に飛び込みたいと思ってしまって、静月ジンユェは一歩、前に踏み出した。


 同時に、自分の置かれている状況を思い出す。


 踏み出した右足の、土を踏む感触がとても重たい。


 どうして、私は雨に濡れているのか。


 そうだ、今の自分は皇帝の妃だった。


 こうして雨に濡れているのは、つい、泣いてしまったせいだ。寵愛ちょうあいを受ける妃が泣いているなんて噂が立ってしまえば、自分を慕ってくれている人たちに迷惑を掛けてしまう。これは雨に濡れただけで、泣いてなんかいない。しかもここで任暁レンシャオと、いくら幼馴染とはいえ男と会うことなんて決して許されない。それこそ、任暁レンシャオが罰を受けることになってしまう。


 だから、静月ジンユェ咄嗟とっさに背中を向けた。


 それで、泣きそうになった。


 こんな顔も見られてはいけない。髪を濡らして、まるで雑巾ぞうきんのようになって、とても情けない。彼に見せる私の姿は、もっと前向きでなくてはならない。優しい任暁レンシャオのことだから、きっと心配するだろう。「後宮で上手く立ち回れています」と、健全な姿勢を示さなくてはならない。


 吐く息が、白い。


 寒さに肩を縮めて、視界まで白くなる。


 ほとんど、何も見えなくなる。


「……それでは風邪を引くぞ」 


 任暁レンシャオの声が、静月ジンユェの後ろ髪に被さった。


 上着も被せてくれた。


 彼の上着は大きくて、肩から太ももまで垂れ下がって、内側は暖かいのに、外側は濡れていた。もしかすると……任暁レンシャオも、ここまで傘を差さなかったのだろうか。任暁レンシャオの優しさが直に肌に触れて、抑えようと努めていた感情が緩んでしまい、瞳がうるんで、そのまま涙に変わってしまいそうだったから、静月ジンユェは背を向けたまま夜空を見上げた。


 雨が顔を打ってくれれば、瞳に溜まった涙を悟られずに済む。


 ここで感情に負けてはならない。


 強くあらねばならない。


 欲望に任せて任暁レンシャオを巻き込んではならない。


「……ご壮健そうけんで何よりです、シャオ……鎮西将様」


 やっと振り向いて放った一言に。


 まるで他人と接するような態度に彼は面食らったらしく、悲しそうな表情を浮かべて、肩に添えた両手を離して、すっと、後ろに身を引いた。


 それが、寂しかった。でも、仕方がなかった。


 しばらく、雨の音がよく聞こえた。


 やがて彼は視線を土に落としたままで、


「美しくなられましたね……静月ジンユェ美人妃……」


 弱々しく返事をした。


 誘導したのは静月ジンユェの方だ。突き放したのは彼女からで、それなのに、彼の言葉が胸に突き刺さった。そうして言葉に詰まった。


「どうしてシャオ将様は、ここにいらしたのですか?」


 やっと、絞り出した義務的な会話の行方は。


「ああ……月に呼ばれたもので」

「そうでしたか……本当に、変わった月ですよね。もしかして傘は差されなかったのですか?」

「ちょっと濡れたくなったもので。まさかこんなに、ずっと降るとは思っていませんでした」


 ちっとも中身がなくって。でも、それでも良かったのに。


「だけど、あなたは雨に濡れてはなりませんよ」


 急に、嫌な話題になった。


「いずれは御子を授かる身ですから、もっと大事になさらないと。近日中に寵愛ちょうあいをお受けになると聞きました」


 知らされたのは今日のことなのに、一番、知られたくない人にまで知られていて。


「祝いの言葉が遅れました。この度のこと、おめでとうございます」


 一番、言われたくない人に言われて、静月ジンユェは息が止まって、何も言えなくなった。ただ黙って、うつむいた。


「これでますます、ジン家も繁栄なさることでしょう」


 ――違う、そんなことを言って欲しいわけじゃない。


「……シャオ将様のお力があってのことだと感謝しています」


 ――違う、そんなことを言いたいわけじゃない。


「美人妃の、九人会でのご活躍あってのことだと伺いました。ちなみに、この前の兄上からの文は読まれましたか?」

「はい……読ませていただきました。兄妹で帝に仕えること、ほまれに思います」


 ――嘘、そんなこと、思ってない。だって兄には都の固い空気は合わない。もしかすると、シャオ兄ぃだって。だから私も、馴染めてなくって。


「後宮での暮らしは、どうですか?」

「はい、おかげさまで、順調です」

「そうでした、それで帝からの覚えがあったのでした」

「まだ、これからです。粗相そそうがないようにしないといけません」

「あまり気負わないことです、きっと上手くいきます」

「ありがとうございます……そう、だといいのですけど」


 せっかく任暁レンシャオと会えたのに、こんな他人行儀な口調の会話だけで終わってしまう。


「どうか、お体に、お気をつけて。今度、薬を送らせましょう。後宮には入れませんが、こうして近くにはいますので」

 

 本当に、二人は近くにいる。今もこうして目の前にいるのに、それが果てしなく遠い。


 そして、おそらくは。


 もう二度と、会えない。


 会ってはいけない。


 ――私をこのまま、連れ去ってくれませんか?


 この言葉を発して、それが実現できればどれほど幸せだろう。だけど、決して叶わない夢であり、ただの絵空事。


 だから偶然にも顔を見ることができて、少しだけ話ができただけでも。


 幸せだったと。


 静月ジンユェは自分に言い聞かせる。


「どうも軽率に来てしまった」

「はい……ですが、私が庭に降りなければ良かったのです。シャオ将様のせいではありません」

「いえ、ここは後宮と繋がっていますから男側の配慮が必要でした。今日、会ったことは内密にしましょう。お互いに忘れることにしましょう」

「はい、お互いに……忘れて……忘れ……」


 静月ジンユェは、これ以上、嘘をつけなくなった。


 唇が歪む。


 ほほが歪んで、眉毛が下がる。


 口を開いて、息だけを吐く。


 忘れてほしくなんて、ない。


「どうか……私を……忘れないで……」


 ついに、ここで泣いてしまった。顔がしわくちゃになって、言葉が途切れて、分からなくなった。鼻水まで垂らして、子供の我儘わがままのように感情があふれて、とめどなく涙が流れて止まらなくなった。


 もう、こんな雨では涙を誤魔化せない。


「今日、会ったことも、忘れないで欲しい……私を、覚えていてくれたら……それだけで、頑張れる……それだけで生きていける……だって、今の私には何もないから……何にも希望がないから……たとえ将来に想い人ができて、明るい家庭を築いても、ここに、こんな私がいたことを……どうか、忘れないで」


 結ばれることは叶わないから、せめて心の片隅にだけでも留めておいてほしい。これを言ったら、言ってしまったら駄目だと分かってはいるけれど、それで最後に、「愛しています」の言葉を伝えられたら良かったのに。


「……本当に、すまなかった」


 抱きしめられる。


 肌が冷たく、それでいて温かい。


「……謝る必要なんて、ないんです、シャオ……将様……私が我儘わがままを……言っているだけなんです」

「将様は、止めろ。俺のことは、昔のままで呼べ」

「だって、それではシャオ兄ぃが……」

「全ては俺が、そう呼ばせたせいだ」

 

 互いの濡れた額が、触れ合った。


「俺を、シャオと呼べ。妹も同然だと言った言葉、撤回てっかいしたい」

「あの……それは……」

「俺がお前をめとらなかったせいだ。早くに妻として迎えていれば、こんなことにはならなかった。どうか、俺を許して欲しい」


 静月ジンユェは、ただ、泣き続けた。少し前に流した涙とは違う感情だった。嬉しい、だけど、切なくて、よけいに辛くて、もっと早くに聞きたかった、もっと早くにこうしていたかった、今更どうしようもなくて、だけどやっぱり、嬉しい。


 二人は抱き合ったまま、茂みに倒れた。


 任暁レンシャオ静月ジンユェに覆いかぶさって、静月ジンユェの垂れた前髪を優しくでる。


 彼女の額に、唇を添えた。


「離れて、やっと気が付いた。幼馴染ではなく、友人の妹でもなく、一人の女として愛していたと。だけど、全てが遅かった。本当に、すまない。それを今になって言う俺は、本当に、最低だ」

「いいえ……いいんです、どうか、謝らないで。だって、私……今、この瞬間が、とっても幸せなのですから。そして、私は悪い女です。あなたにこのまま抱かれたいと望んでいます。だけど、それは叶いません。せめて、どうか、唇だけでも」


 静月ジンユェが目を閉じる。任暁レンシャオは彼女の気持ちに応える。そうして二人の心と舌は一つになる。


「あの……これ以上は……」


 任暁レンシャオの指が下腹部に触れた時に、


「いけません、私だけでなく、あなたが不幸になります」

「その時は、俺も死ぬ」


 雨の冷たさは、もう感じない。


 役目を終えた月は、雲に隠れて消えた。


 暗闇の中で二つの身体が絡み合う。静月ジンユェ官能かんのうの声をらさないように押し留めた。


 後悔はない。


「愛しています……シャオ


 たとえ不幸になろうとも一向に構わないと言った任暁レンシャオの覚悟を受けて、静月ジンユェは最初で最後の、想い人との繋がりを求めた。そういう痛みを含めて、彼を受け入れた。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 英明インミンは開いたままの戸を閉めた。


 何も見なかったし、何も聞かなかった。


 建前は、これで済ませることにする。しかし彼女は、間違いなく不貞に加担した。こうなる流れは予想できたし、未然に防ぐこともできた。だけど、敢えてそれをしなかった。


(公私混同をしているのは、私も一緒かな)


 静月ジンユェの身の上に同情したせいでもあったが、そういうのは静月ジンユェに限ったことではない。いちいち後宮の妃に憂慮していればきりがない。英明インミンの心を動かしたのは静月ジンユェへの心情だけでなくて、任暁レンシャオの立場にもあった。彼ほどの地位にある者が、どういう行動に出るのか興味があったし、その無謀な覚悟の先にある困難を、もしかしたら彼なら乗り越えられるのかもしれないと。


 英明インミンは才女である。


 言葉を知り、学を知り、非常に聡明である。


 それでいて優れた美貌びぼうの持ち主だから、よほど身分が卑しくない限りは後宮に入っていておかしくはない。そういう女性が後宮の妃にはならずに、後宮に自由に出入り可能な環境に身を置いているのは異例のことだ。


 異例を通すには、それなりの代償が必要だった。


 皇帝の妃としては、必要のない身体になる必要があった。


(さらに傷を増やしたところで、もはや変わらないものね)


 英明インミン静月ジンユェの持ってきた張形はりがたを手に取って、もう片方の手で自分の胸を小刀で斬った。


(貫通したのに処女の血が付いてないなんて、変だもの。いいわ、共犯になってあげる)


 胸から滴る血を、張形はりがたにこすりつける。


 英明インミンは無数に付けた傷跡の上からでも、変わらずに赤い血が出てくる自分の身体を愛らしいと思った。

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