2-9.月に酔う2
二つの目が、月のように丸く開く感覚がする。
唐突な出来事に、すぐには状況を飲み込めない。驚いているのは相手も同じらしく、彼の両目も開いている。二人で見つめ合っているうちに、そこに立っているのは間違いなく
持っていた杯を土に落とす。
視線を戻したから、また、目が合う。
「
懐かしい声で呼ばれた。体が少し、反応した。
「……どうした、そんなに濡れて」
まだ、二人の手は届かない距離だった。遠くから
同時に、自分の置かれている状況を思い出す。
踏み出した右足の、土を踏む感触がとても重たい。
どうして、私は雨に濡れているのか。
そうだ、今の自分は皇帝の妃だった。
こうして雨に濡れているのは、つい、泣いてしまったせいだ。
だから、
それで、泣きそうになった。
こんな顔も見られてはいけない。髪を濡らして、まるで
吐く息が、白い。
寒さに肩を縮めて、視界まで白くなる。
ほとんど、何も見えなくなる。
「……それでは風邪を引くぞ」
上着も被せてくれた。
彼の上着は大きくて、肩から太ももまで垂れ下がって、内側は暖かいのに、外側は濡れていた。もしかすると
雨が顔を打ってくれれば、瞳に溜まった涙を悟られずに済む。
ここで感情に負けてはならない。
強くあらねばならない。
欲望に任せて
「……ご
やっと振り向いて放った一言に。
まるで他人と接するような態度に彼は面食らったらしく、悲しそうな表情を浮かべて、肩に添えた両手を離して、すっと、後ろに身を引いた。
それが、寂しかった。でも、仕方がなかった。
しばらく、雨の音がよく聞こえた。
やがて彼は視線を土に落としたまま、
「美しくなられましたね……
弱々しく返事をした。
誘導したのは
「どうして
やっと、絞り出した義務的な会話の行方は。
「ああ……月に呼ばれたもので」
「そうでしたか……本当に、変わった月ですよね。もしかして傘は差されなかったのですか?」
「ちょっと濡れたくなったもので。まさかこんなに、ずっと降るとは思っていませんでした」
ちっとも中身がなくって。でも、それでも良かったのに。
「だけど、あなたは雨に濡れてはなりませんよ」
急に、嫌な話題になった。
「いずれは御子を授かる身ですから、もっと大事になさらないと。近日中に
知らされたのは今日のことなのに、一番、知られたくない人にまで知られていて。
「祝いの言葉が遅れました。この度のこと、おめでとうございます」
一番、言われたくない人に言われて、
「これでますます、
違う、そんなことを言って欲しいわけじゃない。
「……
違う、そんなことを言いたいわけじゃない。
「美人妃の、九人会でのご活躍あってのことだと伺いました。ちなみに、この前の兄上からの文は読まれましたか?」
「はい……読ませていただきました。兄妹で帝に仕えること、
嘘、そんなこと、思ってない。だって兄には都の固い空気は合わない。もしかすると、
「後宮での暮らしは、どうですか?」
「はい、おかげさまで、順調です」
「そうでした、それで帝からの覚えがあったのでした」
「まだ、これからです。
「あまり気負わないことです、きっと上手くいきます」
「ありがとうございます……そう、だといいのですけど」
せっかく
「どうか、お体に、お気をつけて。今度、薬を送らせましょう。後宮には入れませんが、こうして近くにはいますので」
本当に、二人は近くにいる。今もこうして目の前にいるのに、それが果てしなく遠い。
そして、おそらくは。
もう二度と、会えない。
会ってはいけない。
私をこのまま、連れ去ってくれませんか?
この言葉を発して、それが実現できればどれほど幸せだろう。だけど、決して叶わない夢であり、ただの絵空事。
だから偶然にも顔を見ることができて、少しだけ話ができただけでも。
幸せだったと。
「どうも軽率に来てしまった」
「はい……ですが、私が庭に降りなければ良かったのです。
「いえ、ここは後宮と繋がっていますから男側の配慮が必要でした。今日、会ったことは内密にしましょう。お互いに忘れることにしましょう」
「はい、お互いに……忘れて……忘れ……」
唇が歪む。
口を開いて、息だけを吐く。
忘れてほしくなんて、ない。
「どうか……私を……忘れないで……」
ついに、ここで泣いてしまった。顔がしわくちゃになって、言葉が途切れて、分からなくなった。鼻水まで垂らして、子供の
もう、こんな雨では涙を誤魔化せない。
「今日、会ったことも、忘れないで欲しい……私を、覚えていてくれたら……それだけで、頑張れる……それだけで生きていける……だって、今の私には何もないから……何にも希望がないから……たとえ将来に想い人ができて、明るい家庭を築いても、ここに、こんな私がいたことを……どうか、忘れないで」
結ばれることは叶わないから、せめて心の片隅にだけでも留めておいてほしい。これを言ったら、言ってしまったら駄目だと分かってはいるけれど、それで最後に、「愛しています」の言葉を伝えられたら良かったのに。
「……本当に、すまなかった」
抱きしめられる。
肌が冷たく、それでいて温かい。
「……謝る必要なんて、ないんです、
「将様は、止めろ。俺のことは、昔のままで呼べ」
「だって、それでは
「全ては俺が、そう呼ばせたせいだ」
互いの濡れた額が、触れ合った。
「俺を、
「あの……それは……」
「俺がお前を
二人は抱き合ったまま、茂みに倒れた。
彼女の額に、唇を添えた。
「離れて、やっと気が付いた。幼馴染ではなく、友人の妹でもなく、一人の女として愛していたと。だけど、全てが遅かった。本当に、すまない。それを今になって言う俺は、本当に、最低だ」
「いいえ……いいんです、どうか、謝らないで。だって、私……今、この瞬間が、とっても幸せなのですから。そして、私は悪い女です。あなたにこのまま抱かれたいと望んでいます。だけど、それは叶いません。せめて、どうか、唇だけでも」
「あの……これ以上は……」
「いけません、私だけでなく、あなたが不幸になります」
「その時は、俺も死ぬ」
雨の冷たさは、もう感じない。
役目を終えた月は、雲に隠れて消えた。
暗闇の中で二つの身体が絡み合う。
後悔はない。
「愛しています……
たとえ不幸になろうとも一向に構わないと言った
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
何も見なかったし、何も聞かなかった。
建前は、これで済ませることにする。しかし彼女は、間違いなく不貞に加担した。こうなる流れは予想できたし、未然に防ぐこともできた。だけど、敢えてそれをしなかった。
(公私混同をしているのは、私も一緒かな)
言葉を知り、学を知り、非常に聡明である。
それでいて優れた
異例を通すには、それなりの代償が必要だった。
皇帝の妃としては、必要のない身体になる必要があった。
(さらに傷を増やしたところで、もはや変わらないものね)
(貫通したのに処女の血が付いてないなんて、変だもの。いいわ、共犯になってあげる)
胸から滴る血を、
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