2-8.月に酔う1

 今日は不思議な夜だ、雨が降っているのに月が出ている。


 月の下を歩く任暁レンシャオの胸中には、灰色のが渦となって絡みついていた。これはきっと、静月ジンユェの近況を知ったせいだ。


 静月ジンユェ寵愛ちょうあいを授かることになったと、内侍ないじの者がこっそり教えてくれた。「おめでとうございます」とも言っていた。常識で考えれば祝うべきことに違いない。帝の覚えを得ることが静月ジンユェの暮らしを豊かにして、実兄の静衛ジンエイの評価も上がる。間接的に任暁レンシャオの出世も早くなる。悪いことは、何もない。それがなぜか、どうにもすっきりしない。


 任暁レンシャオは、久しぶりに酒を飲みたくなった。


 この前に飲んだのは静衛ジンエイが都に転任した日だったか。職務に追われていたから、できる限り酒を控えていた。それも今日くらいはいいだろう。こうして夜空の下へ身を任せてみれば、灰色の雲が覆って雨が降っているのに、なぜか白い満月が顔を見せている。気まぐれの通り雨のように思えたのに、しとしと、女の涙のようにいつまでも降っている。


 小雨に濡れたくなった。


 夜の風に振られて、ましてくれればいい。


 宮廷の道を軒下の吊り灯篭とうろうが黄色く照らして、月の光が被さっている。こういう道を歩いていると、雨の混ざった光がぼうっと広がり、まるで夢見のような心地になってきた。


 ここは現世うつしょか、はたまた、幽世かくりよか。


 どのくらい歩いているのか判然としない。いよいよ服まで湿ってきて、そのうちに、ちょうど目の前に九訳殿が見えてきた。暗がりに浮かぶ淡い霧が、まるで異界への入り口のようにも見えた。


 誘われるがままに、足を踏み入れた。


「すまない。女がいるところへ、こんな夜分遅くに」

「不思議な夜だものね。あなたも雨の月にかれたのかしら」


 なぜか今宵の英明インミンは色っぽい。


 これは酔いのせいか、月のせいか、それとも。


(心の、迷いのせいだな)


 任暁レンシャオは目頭を押さえる。


 めまいがしたので、書斎の椅子に座らせてもらった。すぐに侍女が乾いた布を持ってきて、顔をいて、肩やすその雨を払った。布はすぐに湿りで一杯になった。出してくれた茶を飲んで、酒の混ざった息を吐いたら、白く濁って消えた。


「どうにも眠れそうになくてな。少し、居させてくれるか」

「あなたのそういうの、相応のことがあったのでしょうね」

「妹……いや、静月ジンユェのことだ」


 任暁レンシャオの苦悩は、静月ジンユェが後宮で上手くやっていけるかとの心配だったはず。そこに政治的な事情に妹同然の彼女を巻き込んでしまったことへの罪悪感も混ざっていた。


 どうやら静月ジンユェは、器用に立ち回れているようだ。


 今回の寵愛ちょうあいを受けることで、おおよその心配事は無用となる。


 だったら、このまま突き進むのがいい。それで、どうして俺は気が沈む必要がある? いったい何を考えている? 愛してもいない皇帝に身を捧げる静月ジンユェの心情を想ってのことか? そういうのは――むしろ贅沢ぜいたくな悩みではないか。誰にも愛されない人生よりも、誰かに必要とされるだけ良いことではないのか。冷宮らんごんに移されて、誰にも看取られずに骨となって朽ちるよりも、随分と。


「あなた、申し訳ないと思っているの?」

「……分からない。ただ、せめてもう少し、俺が何かしてやれることはなかったか」

「そんなに責める必要はないんじゃないかしら?」


 責めている?


 そうか、俺は、自分を責めているのか。


「彼女が後宮に入ったのは、あなたのせいではないでしょう。それに普通は、帝の寵愛ちょうあいを受けられるように支援するものだけど。やっと願いが叶ったことになるのに……いったい、あなたは、どうしたいの?」

「さあ、それも分からない。こうなるべきだったし、こうなるしかなかった。これで良かったはずだ。それが、どうにも気分が悪い。酒を飲んでみたら余計に考えがまとまらない。もう少し頭を冷やした方がいいかもしれない……あの月を見ながら、もう一杯だけ、飲みたい」


 さらに酒を求める自分に、英明インミンは少々、呆れているようだった。悪い酒の飲み方だと言いたげだった。しばらく黙った後に彼女は「持ってこさせるから待ってて」と言い残して書斎から去った。


 独り残った任暁レンシャオは、夜の戸を開けた。


 小雨が顔をでる。せっかくいたのに、また、濡れた。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「こんな時間に……私の他にも訪問客でしょうか」


 静月ジンユェは独りで置かれたままになるのではと、不安だった。だから英明インミンが書斎から戻ってきて、ほっとした。


「あら、ちっともいていない」

「すみません……無礼を承知で、濡れたままが良くって」


 静月ジンユェの全身は、長い髪も、顔も、服も、雨に濡れてしたたっていた。九訳殿まで傘を差して来るべきだったが、どうしても雨に濡れたい事情があった。女官長からの夜伽よとぎの知らせを聞いて、それから寝室で少しだけ眠って、ここまで独りでやってきた。後宮とはいえ夜道だから送りますと言ってくれた林紗リンシャ麻朱マオシューも、心境を話せば分かってくれた。


 独りでないと、こんなことは頼めないから。


 ふところに、張形はりがただけを忍ばせた。突然の夜更けの訪問に英明インミンは驚いていたが、張形はりがたを見せたら、「そういうことね」と言って目的を分かってくれた。


「もう一度、尋ねるけど、本当に相手が私で良かったの?」

「だって……独りでは……どうしても。かといって、林紗リンシャたちに頼むのは恥ずかしくて、あの二人も経験がないし、他に当てもないから……英明インミンさんなら、ご経験がありそうでしたから身を任せられそうで、落ち着けると思ったんです……すみません、迷惑でした。こんなこと、女同性で」

「ここには女しかいないから仕方ないもの。私としては、少なくとも宦官かんがんに頼まれるよりは良かったかな」

「本当……ですか? 良かった、そう言ってくれて……あの……すみません、本当に」


 受け入れてくれたことに、少々、気恥ずかしくなる。


 英明インミンという女性に、凛々りりしくて、知的で、弱い自分とは対照的だから憧れている。同性愛まで求めているわけではないが、今、自分が置かれている複雑な状況を理解してくれそうな人物といえば、英明インミンしか思い当たらなかった。


 自分でも、はた迷惑なことだと思うけれど。


 最初の一歩が、どうしても踏み出せないから。


「ちょっと、準備をしなくっちゃね」


 こんな状況なのに英明インミンは優しく微笑んでくれる。

 

「私も正気だと上手くできないもの、お酒が必要ね。私の分を取ってくる間に先に外で月でも見ながら飲んできなさいな。月下独酌、好きなんでしょう? せっかくの機会だから」

「あ……はい……そう……ですね」


 どうせ飲むなら二人がいい、と思いはするものの、こんな迷惑な頼みごとをしている立場だから断ることはできない。英明インミンがまた部屋を出てしまったので、残された静月ジンユェは小さな酒器を片手に庭へ出た。


 変わらず、雨が降っている。


 そして、なぜか月も、未だに雨を照らしている。


 静月ジンユェは器を空に掲げた。


 月下独酌の真似事をした。


 雨が更に体を濡らして、月を見て、それから酒を口に添えた時に、


「影に対して三人と成る。私と月と影の他に――」


 声がして、はっとした。


 男の声。まさか、こんな時間に、しかも普段は鉢合わせしないように配慮されているのに、どうして。


 身を隠そうとしつつ、少しの好奇心で目をやった。


 それで、声の正体に驚いてしまったから、


シャオ……兄ぃ……」


 思わず声が出てしまって。


 なぜか同じ庭に立っている任暁レンシャオと、目が合った。

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