2-7.夜伽の知らせ
後宮の北と南には色とりどりの花が集められた庭園がある。北側には妃たちが暮らす宮殿があり、南側には宮女や宦官の勤める殿舎が建っている。
それに後宮に入ってからは、季節を肌で感じない。
寒くなれば冬で、暖かくなれば春、くらいはさすがに分かるが、
それに代わる所はないかと探した結果の、この
こちらは北と違って宮女たちも出入り可能だから雰囲気が重々しくはない。たまに九訳殿に通っている一部の妃と遭遇するくらいで、
『もう……花が切られているね。
侍女の
せっかく見事に咲いているのに、花の群れに丸く禿げている箇所が散見される。
『
『本当……途中まで一緒に帰ることになりそう』
列が北へ北へと進むにつれて人通りが少なくなってきた。そのまま、まさか植木鉢たちと一緒に帰ることになるとは思っていなかった。
『あ~、やっと帰って……うわぁ、なんか、たくさんいるぅ!』
部屋の前で
「どちらに置きましょうか」
宦官たちが
「この花は、私に?」
「はい、
どういうことだろう。
「戸の前に飾ってちょうだい。幾つかは、部屋まで運んで」
この人は……自分の担当の宮女ではないが顔を知っている。後宮に入る際に礼儀作法や仕来りなどを教えてくれた人だ。新米の妃の教育係を担っているらしいのだが、最初の日からこれまで会う機会はなかった。
『女官長さんが
「そうなの……お久しぶりです」
「相変わらずですね。妃なのですから、もっと自信をお持ちなさい」
母親のように言われる。この女官長は、身分や出自や立場に関係なく全員に平等に接してくれる。
「おめでとう」
女官長が言う。
「あなたに決まったわ、
笑顔で告げられるが、あまり思考がまとまらない。女官長の報告に
「今回の催しは素晴らしかったと、才ある妃が集まったものだと帝もお喜びです。美人妃からは、あなたと
「は……はい……えっと、その……」
肩が震える。
覚悟は……していたつもりだ。
九人会が何のために開かれるのかも理解していた。そこで目立たないようにしていれば今日と変わらない明日が待っていたのかもしれないが、もしも永遠に目を掛けられることがなければ――
平穏な明日すらも、失うことになるかもしれない。
兄たちは、自分に強く生きて欲しいと言ってくれた。自分も、兄たちの助けになりたいと願う。もしも帝に見染められれば全てが丸く収まってくれる。駄目なら駄目で仕方がないけれど、全うせずに逃げてしまえば、みんなに迷惑が掛かるから。
せめて私らしく振舞ってみよう。
こういう私ですが、よろしいですか。
踊りと詩に、込めたつもりだ。
それで選ばれたのだから、喜ばしいこと。
「……どうしたの?」
「いえ、私なんかが……どうしてなのかなって」
「あなたは素晴らしい演技をしたのだもの、当然でしょう。しかも古典を知っているのだから」
「それは……書物を読めればできることです。詩も、ほとんどが引用でした」
「読み書きができれば上等なのよ。点数も、全体で上から二番目です。選ばれて当然」
「点数……帝は、その……」
私について、何か言っていましたか?
聞こうとして、止めた。そんな厚かましいことを言える身分ではない。帝が良いと思って選んでくれた。だから名誉なことだと喜んで受け入れるべき。ただ、それだけのこと。
「そうよね。誰だって不安になるものよね」
女官長が
女四人だけになると。
「いろいろな人を見てきたけど、最初はみんな、上手くできるのかな、怒らせたりしないかなって心配になるものだから。あからさまに失礼な態度を取らなければ問題ありません。とはいえ、さすがに行為の最中までずっと恐縮していたら帝も気を遣われますから、もっと、自信を持ってちょうだい。これから細かい手順や作法を教えます。そのために私が来ているのだから」
女官長が机に置いてある箱を開く。これは自分のではないから、彼女が持ってきたのだろう。中に入っていたのは丸みを帯びた木製の棒で、もしかして、これは。
「あなた、生娘だったかしら?」
「はい……そうですが」
「では、この
「……えっと……それは、問題にならないのでしょうか」
「帝は政務や軍務でお忙しいのです。とても疲れていらっしゃいます。子を成すのが妃の勤め、余計な心労を増やしてはなりません。もしも悲痛な表情を浮かべれば帝のお気持ちも
心がざわついてきた。
「とはいえ最初のことだから、なかなか気が乗らないときは、こちらの
視界が歪んで、声が遠くなっていく。
いつの間にか日が暮れて、雨が降っている。
青暗い部屋に、誰かが灯を点けて、黒い箱だけが浮かんでいる。
『ねえ……
『良かったら……手伝おうか?』
『え? これを?』
『平気だって。それに、友達に見られるなんて恥ずかしいから』
『まあ……そうなんだけどね。何も言わずに固まっているから、大丈夫なのかなって』
『急なことだから……ほら、いろいろと情報が多くて。まだ、心が追い付いていないだけ』
『だといいけど……どうする? 先にご飯、食べる?』
『う~ん、今は……いいかな。少し疲れたから、ちょっとだけ寝たい。これ、寝室に持っていくね。食卓に置いてあるの、変だから』
そう言って、箱を抱えて寝室に独りで入った。
ぱたんと、戸を閉めてから、布団の上に倒れ込んだ。
分かっている、分かっていたことだ。
自分が守ってきたことなんて、何にも価値のないことだ。遅かれ早かれ皇帝に捧げるのだから、それが物であったって変わらない。その程度のことは、後宮に入ると決まった日から分かっていた。
だけど。
少しだけ、純愛にも期待していた。
前向きになれる理由を探していた。
それなのに、改めて、私はただの所有物だった。
私の価値は、この
しばらく、外の雨は止みそうにない。
雨の中に身を投げて、そのまま溶けてしまいたい。
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