2-7.夜伽の知らせ

 南花なんかえんに、山茶花さざんかが咲いた。


 後宮の北と南には色とりどりの花が集められた庭園がある。北側には妃たちが暮らす宮殿があり、南側には宮女や宦官の勤める殿舎が建っている。静月ジンユェの部屋からは北花ほっかえんが近いのだが、他の妃と会うと気まずいので、彼女は離れた場所にある南花なんかえんをよく訪れる。それなりに歩くことにはなるが、部屋にいてもすることがないし、用事で呼ばれることもない。自主的に散歩をしなければ不健康になりそうなので、たとえ雨が降っても、一日に一回の習慣として守ることにしていた。


 それに後宮に入ってから、季節を肌で感じなくなった。


 静月ジンユェが故郷で暮らしている頃は野山の変化を感じるのが好きだった。春には春の、夏には夏の顔があって、同じ季節でも、晴れの日にはちょうはちが飛び、雨の日には湿った甘い匂いに混ざった草花がしずくに濡れている。そういう景色の中に身を置くことで生きていることを実感できた。


 それに代わる所はないかと探した結果の、この南花なんかえんだった。


『もう……花が切られているね。剪定せんていするには早すぎるのに』


 侍女の林紗リンシャが切られた枝の一つをまんでいる。


 せっかく見事に咲いているのに、花の群れに丸く禿げている箇所が散見される。山茶花さざんかは赤と白の色調が美しい。それが、ぱっつりと切られた枝の緑になっては寂しい。向こうで、ぱちり、ぱちりと音がしたので、足を向ければ、宮女がはさみを手に取ってかごに花を集めていた。上級妃の住む宮殿や堂を彩るのに使うのだろう。仕方のないこととはいえ、せめて飾る花くらいは後宮の外から手配できないものか。


山茶花さざんかを運んでいるみたい。それも白い花ばかり』

『どうして白ばかりなのかな』


 静月ジンユェたちが南花なんかえんから北へと戻る道中のこと。


 おそらくは先ほど宮女が集めていた山茶花さざんかなのだろう、宦官かんがんたちが植えたはちを運んでいる。静月ジンユェ林紗リンシャは列の一員であるかのように後ろから付いていくのだが。


 皇后こうごうの宮殿を過ぎて、


 四夫人しふじんの宮殿も過ぎて、


 列が北へ北へと進むにつれて人通りが少なくなった。それでも、宦官たちとは帰路が分かれない。てっきり向かう先は違うと思っていたのに、まさか彼らと一緒に帰るとは想像していなかった。


『あ~、やっと帰って……うわぁ、なんか、たくさんいるぅ!』


 部屋の前で麻朱マオシュー仰天ぎょうてんしている。


「こちらは、どちらに置きましょうか」


 宦官たちがはちを持ったまま静月ジンユェに尋ねる。


「この花は……私に?」

「はい、内侍ないじからの指示です。白い花でここを飾るようにと」


 どういうことだろう。


 静月ジンユェが戸惑っていたら、部屋から中年の官女が出てきた。


「それは戸の前に飾ってちょうだい。半分は部屋に運んで」


 静月ジンユェはこの人を……知っている。後宮に入る際に礼儀作法やら仕来りやらを教えてくれた人だ。新米の妃の教育係を担っているらしく、初日からこれまで会う機会はなかったのに。


『女官長さんが静月ジンユェ姐のことを、ずっと待っていたんだよ』

「そうなのですか……お久しぶりです」


 静月ジンユェは、うやうやしく頭を下げた。その様子に彼女は少しあきれたような声で、


「相変わらずですね。妃なのですから、もっと自信をお持ちなさい」


 母親のように言われる。この女官長は身分や出自や立場に関係なく全員に平等に接してくれる。


「おめでとう」


 女官長の言葉。


「あなたに決まったわ、静月ジンユェ美人妃」


 笑顔で告げられたが、意図を察せず、思考がまとまらない。


 女官長の報告にはちを降ろした宦官たちが、一斉に両腕を掲げて腰を低くした。林紗リンシャ麻朱マオシューも雰囲気に飲まれて慌てて身を低くするが、二人の表情には静月ジンユェと同じ、戸惑いの色が浮かんでいる。


「今回の催しは素晴らしかったと、才ある妃が集まったと帝もお喜びです。美人妃からは……あなたと紫萱ズーシェン妃が選ばれました。この印と花は、その知らせです。夜伽よとぎの順番までは決まっていませんが、近日中にお声が掛かるでしょう」

「は……はい……えっと、その……」


 夜伽よとぎは通例、当日の晩に、帝が決めた相手を知らされる。「本日はあなたになりましたから、これから準備をしてください」と宮廷に近しい者から告げられる。それが今回は九人会というお披露目の舞台だったせいか、お気に召した妃を事前に指名しておくらしい。その指名者に、静月ジンユェも選ばれた。


 肩が震えた。


 覚悟は……していたつもりだった。


 九人会が何のために開かれるのかも理解していた。そこで目立たないようにしていれば今日と変わらない明日が待っていたのかもしれないが、もしも永遠に目を掛けられることがなければ――


 平穏な明日すらも、失うことになるかもしれない。


 兄たちは、自分に強く生きて欲しいと言ってくれた。自分も、兄たちの助けになりたいと願う。もしも帝に見染められれば全てが丸く収まってくれる。駄目なら駄目で仕方がないけれど、役割を全うせずに逃げてしまえば、みんなに迷惑が掛かる。


 せめて私らしく振舞ってみよう。


 自信はありませんけれど。


 こういう私ですが、よろしいですか?


 踊りと詩に、込めたつもりだ。


 それで選ばれたのだから、喜ばしいこと。


「……どうしたの?」

「いえ、私なんかが……どうしてなのかなって」

「あなたは素晴らしい演技をしたのだもの、当然でしょう。しかも古典を知っているのだから」

「それは……書物を読めればできることです。詩も、ほとんどが引用でした」

「読み書きができれば上等です。点数も、全体で上から二番目です。選ばれて当然なのです」

「点数……帝は、その……」


 私について、何か言っていましたか?


 聞こうとして、止めた。そんな厚かましいことを言える身分ではない。帝が良いと思って選んでくれた。だから名誉なことだと喜んで受け入れるべき。ただ、それだけのこと。


「分かりますよ、誰だって不安になるものだから」


 女官長がすぼんだ静月ジンユェの肩をでた。そうして、宦官たちに退室するように促した。


 男が全員、去ってから、


「いろいろな人を見てきたけど、最初はみんな、上手くできるのかな、怒らせたりしないかなと、心配になるものです。ですが、あからさまに失礼な態度を取らなければ問題ありません。とはいえ、さすがに行為の最中までずっと恐縮していたら帝も気を遣われますから、もっと自信を持ってください。これから細かい手順や作法を教えます。そのために私が来ているの」


 女官長が机に置いてある箱を開いた。中に入っていたのは丸みを帯びた木製の棒で、もしかして、これは――


「あなた、生娘だったかしら?」

「はい……そうですが」

「では、この張形はりがたで事前に慣らしておきましょう」

「……えっと……それは、自分でそうして、問題にならないのでしょうか」

「帝は政務や軍務でお忙しいのです。とても疲れていらっしゃいます。子を成すのが妃の勤めです。帝に余計な心労を増やしてはなりません。もしも、あなたが悲痛な表情を浮かべれば、帝のお気持ちもえてしまわれます。せっかく指名されたのに、二度とお呼びが掛からないのはとても辛いことです。これは帝からの指示でもありまして、そのための事前準備なのです。いつ、お呼びが掛かっても良いように、今晩か、明晩までには済ませておきましょう」


 張形はりがたを見つめた。


 心がざわついてきた。


「最初のことだから、なかなか気が乗らないときは、こちらの邪香じゃこうを使えば気分もそれなりに良くなりますよ。それと、この阿膠あきょうは古来の妃も使っていた出産を促す美容薬で、こっちは――」


 視界が歪んで、声が遠くなっていく。夜伽よとぎの手順についても説明されたようだが、頭に入ってこない。気が付けば女官長はいなくなっていて、自分と、侍女の三人だけになっていた。


 いつの間にか日も暮れて、雨が降っていた。


 青暗い部屋に、誰かが灯を点けて、黒い箱だけが浮かんでいる。


『ねえ……ユェ


 林紗リンシャの声に、首を上げた。二人は、自分たちが悪いわけではないのに申し訳なさそうにしている。


『良かったら……手伝おうか?』

『え? これを?』


 静月ジンユェは無理やりに笑ってみせる。


『平気だって。それに、友達に見られるなんて恥ずかしいから』

『まあ……そうなんだけどね。何も言わずに固まっているから、大丈夫なのかなって』

『急なことだから……ほら、いろいろと情報が多くて。まだ、心が追い付いていないだけ』

『だといいけど……どうする? 先にご飯、食べる?』

『う~ん、今は……いいかな。少し疲れたから、ちょっとだけ寝たい。これ、寝室に持っていくね。食卓に置いてあるの、変だから』


 そう言って、箱を抱えて寝室に独りで入る。


 ぱたんと、戸を閉めてから、布団の上に倒れ込んだ。


 分かっている、分かっていたことだ。


 自分が守ってきたことなんて、何にも価値のないことだ。遅かれ早かれ皇帝に捧げるのだから、その対象が物であったって何も変わらない。その程度のことは、後宮に入ると決まった日から分かっていた。


 だけど。


 少しだけ。


 純愛にも期待していた。


 前向きになれる理由を探していた。


 それなのに、改めて、私はただの所有物だった。


 私の価値は、この張形はりがたと変わらない。血の通わない、人形と変わらない。私は、私は――


 しばらく、外の雨は止みそうにない。


 このまま雨の中に身を投げて、そのまま溶けてしまいたい。

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