2-4.贈り物(2)

 任暁レンシャオが早めに九訳殿から引き上げたので、英明インミンは夕暮れ前にを済ませることにした。


「これを渡しておいてくれ」


 静月ジンユェの様子を見るだけでなく、渡して欲しいものがあるという。故郷からの贈り物らしく、来週の『九人会』を考慮してのことだろう。英明インミンは大きな黒塗りの箱を両腕で抱えて、後宮の南門から北へと向かうことにした。


 後宮は壁でぐるりと囲まれた、一つの町のようになっている。


 久しぶりに後宮内を歩いてみれば、何やら慌ただしい。


 うやうやしく腰を屈めて荷物を運ぶ集団と幾度も擦れ違う。宮女や宦官かんがんが四、五人ほどで一つの組となり、それぞれが木の台を掌に乗せて、あでやかな生地やら装飾品の入ったみやびな箱やらを運んでいく。そういう列が英明インミンを追い越しては、また、折り返して戻ってくる。


 目的は英明インミンと同じだ。


 あれは妃の部屋に、贈呈品を届けている。


 数名の若い妃が同時に補充された場合、もしくは、祭事の前にもこのような光景が見られる。多くの妃が集まる機会ともなれば、それだけ、綺麗に着飾りたくなるのは当然の心理だ。たとえ皇帝がいない催しであっても、みすぼらしい装いで参加すれば他の妃から嘲笑ちょうしょうされるのだから。


 後宮の妃とは、言ってみれば個人商店のようなもの。


 付き従う侍女や宦官かんがんも含めて一つのまとまりとして評価されるため、もしも主が馬鹿にされれば部下の肩身が狭くなり、彼らの出世にまで響いてしまう。


 ――この人に尽力しても未来はない。


 このように侍女や宦官かんがんに思われては部下の離反が相次いで、ますます、妃としての待遇が悪くなる。待遇が悪くなれば冷遇されて、それで解放してくれればいいものの、たとえ寵愛ちょうあいを受けておらずとも『皇帝の所有物』が前提の身分だから、後宮の壁から外には出してくれない。扱いに困った結果、屋外の牢屋のこと、冷宮らんごんに捨て置かれて一生を終えることになる。


 だから、ああして、まだ金にゆとりがない若い妃には後ろ盾になっている地元からの支援が、服や飾りや金銭が届けられる。


 また、それが上級妃からの贈り物だったりもする。


 それは何の見返りも求めない無償の奉仕、などという聖女の心構えではない。上級妃から下級妃に分け与える精神は上位者の権力の誇示と満足に繋がるし、それだけならまだいいものの、どちらかといえば後宮における派閥争いの色が濃い。


 ――お前は、誰にくみするのか。


 複数の上級妃から同時に贈り物が届けば、相当の悩みとなる。


 こっちを選べば、あっちが怒る。


 あっちを選べば、こっちが怒る。

 

 どの装飾を身に付けようか一晩、考えた末に、結局は自前の服を選んだりもする。英明インミンはつくづく、こういう悲劇とは無縁の状況にあることを感謝している。だからこそ、静月ジンユェのような身の上には同情する。立場上は中立であるべきだが、人の心情というものは建前だけでは制御しきれない。


(あまりに不憫ふびんだものね。ま、私も相当だったけど)


 静月ジンユェの部屋の近くにまで来てみれば、やっぱり、英明インミンが想像していた通りに静月ジンユェは派閥争いからも蚊帳かやの外だった。


 静月ジンユェは美人妃であるため、総勢百名ほどの妃の中では真ん中より少し上くらいの立場ではあるが、専用の宮殿や堂を与えられてはいない。まだ部屋付きである。


 美人妃は総勢で九人。


 彼女らの部屋は一列に並んでいるわけではないが、だいたい同じ区画に固まっている。そういう中で、贈り物の群れが迷路探索でもしているかのように部屋に出入りして、その度に、美人妃付きの侍女が誇らしげな微笑みを浮かべて使者に礼を言っているのに。


 荷物を運ぶ宦官かんがんたちが、静月ジンユェの部屋の前だけは素通りしていく。


 つまり、誰からも贈り物がない。


 静月ジンユェに仕えている二人の侍女が律儀りちぎに部屋の外に立っているのに、そこには誰もいないも同然の扱いをされている。幼い方の侍女は分かりやすい反応をして、ぷっくりとほほを膨らませながら素通りする列を不満そうに見つめている。一方の年上の侍女は堂々としているが、まるで今晩の食事のことでも考えているような、我、醜い争いには参加せずの態度。


 英明インミンが二人に近寄って話しかけようとしたら、


「あ~ら、そっちも忙しそうね」


 嫌味ったらしい声が先に接近していた。


 それは一人の妃と、一人の侍女だった。その妃は髪を短めに切り揃えて、端麗たんれいで、無垢むくな白い装いに身を包んでいる。それなのに強烈な目力で威圧しているから複雑な印象を受ける。


(あれは確か……静月ジンユェと同列の、紫萱ズーシェン美人妃だったかな)


 英明インミンが横から割って入る場面でもないので、しばらく様子を見守ることにした。


「まだまだ嵐の前ってところかしらね。きっと、これから更に忙しくなると思うわ」


 なんとなく、子供の言い争いが始まるようにも思えるし。


「でも、今回はせいぜい、朝から六組くらいだったの。少ないと思わない? 経済状況がかんばしくないのかもしれないわね。あなたのところはどうだった? え~と、名前は何と言ったかしらね。りんぴょうとうしゃーとか言ったかしら?」

「……林紗リンシャです、謝謝しぇいしぇい美人妃」

「……紫萱ズーシェンなんだけど……で、どのくらい届いたの?」

「まだ、一つだけです」


 これが林紗リンシャの強がりでなければ、一組は贈り物があったらしい。


「あら、良かったのね、せめてものなぐさみがあって。とはいえ、ここからいくら待っても田舎者には追加で届かないのでしょうけど。で、静月ジンユェは何をしているの? 早く出てきて私に挨拶しなさいよ、わざわざ来てあげてるんだから」


 静月ジンユェがぱたぱたと駆け足で、遅れて外に出てくる。彼女は丁寧ていねいに膝を曲げてへり下った。


「ご機嫌、麗しゅう、紫萱ズーシェン美人妃」

「あ~ら、多少は発音が良くなったのね、鈍いなりにつつましく努力していて感心だと言っておいてあげるわ。ちなみに一組からの贈り物があったって、いったい何なの? 鑑定してあげる、そっちの愚図ぐず、早く持ってきなさいよ」

「ふぇ……はいい~」


 幼い方の侍女、麻朱マオシューの声が震えている。どうやら彼女は紫萱ズーシェンを怖がっているらしい。麻朱マオシューは部屋へと引っ込んで、それから箱を持ってきて、ふたをはずして中を見せた。

 

 英明インミンが首を前に伸ばして、遠目に観察したところ。


 箱から取り出されたのは鮮やかな青い、それなりに高価な生地だった。あれで服を仕立てれば、しとやかな静月ジンユェのことだから、それなりに映えるのではないか。


 けれど。


「……どういうつもり? まさか、これで九人会に参加するつもりじゃないでしょうね?」


 さっきまでの、どこか冗談めいた口調が息をひそめて、急に紫萱ズーシェンの迫力が増している。


「ふざけるんじゃないわ! こんな派手な色をあんたが着るなんて似合うわけないし、認められない。もっと地味な色になさい」

「……で、でも……他に良い生地なんて」

「は? 私に二度、言わせる気? まさか私に逆らうっての?」

「……いえ……分かりました……これは……着ません」


 静月ジンユェも気圧されたようで、これから罰を受ける子供のように、しゅんと、両肩を小さくした。


「これは私が預かっておいてあげる。九人会が終わったら返してあげるから、それでいいでしょ。ほら、孫妍スンイェン、愚図から取り上げといて」

「承知しました」

「要件は……こんなところね。長居は無用な場所だから。さあ、礼はどうしたの。私の気遣いに、感謝を言いなさい」

「どうも……ありがとうございました」


 こうして嵐は去ってゆく。


 残された三人は、さすがに思うところがあったのか、静月ジンユェは屈んだまま、麻朱マオシューは泣きそう、林紗リンシャは西南語で何かをまくし立てている。


「本命があるから、平気なのよ」


 さすがに気の毒だから、英明インミンは早く朗報を伝えてあげようとして声をかけた。下がってから上がる方が後味はいいから、結果として報告が紫萱ズーシェンの後になって良かったとも思う。


「あ……英明インミンさん、こんにちわ。どうされたのですか、わざわざこちらに来ていただいて」

「後見人からの贈り物を持ってきたの。この色なら、彼女も文句のつけようがないでしょう」


 ここまで抱えてきた大きい箱を手渡して、ふたを開ければ、


「これは……私の」


 婉然えんぜんとした、単色だが光沢のある灰色の衣装に白の糸ではす刺繍ししゅうが施されている衣装。それから、同じ色のかんむり。どちらも完成された品で保存状態も良い。


 娘の晴れ舞台のために、大事に保管されていたのだろう。


「お父さんとお母さんから、なのですって」


 この言葉に静月ジンユェは慌てて立ち上がって、まるで愛おしい我が子を抱きしめるように、ぎゅっと、箱を胸に寄せた。


「派手な色ばかりだと、他の妃も一緒だから、むしろ目立たないの。こういう落ち着いた色の方が、あなたの魅力が際立つと思う」

「私らしい色が……いいですよね、やっぱり」


 静月ジンユェが微笑む。


 可憐な一輪の華が、道のすみに咲いているように。

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