2-2.心の支え

「兄から……の……手紙?」


 すっかり心が冷えていた静月ジンユェは、言葉の意味をすぐには飲み込めない。


 後宮に来てからというもの喜怒哀楽の半分ほどが欠落して、彼女にとっての家族とは遠い昔に置いてきた想い出に変わっていた。それが現実であると諭してくれたのは――


 手渡された濃い紫色の包み。


「これは……」


 この包みを知っている。


 想い人の持ち物だからすぐに分かる。いつも任暁レンシャオが懐に忍ばせていた。


 包みを開いたら、今度は薄黄色のつややかな紙が入っている。この紙は故郷で作られているもので大事な書き物をする際によく使っていた。


 ――静衛ジンウェイより、静月ジンユェへ。


 文字の所々が不安定に揺れてはいるが、これは実兄の静衛ジンウェイの字に間違いない。兄は豪胆な性格のわりに繊細な文字を書く。


 ふみを読んでみたら。


 それは短い内容だったが。


 静月ジンユェの心に深く響いた。


「すまんな、ユェ


 兄の姿が浮かび上がる。


 あの兄が頭をいて、申し訳なさそうに謝っている。


 あれは――


 後宮に入る前の、晩のことだ。いつも謝ったりなんてしないのに、あの夜に限っては珍しく兄は頭を下げた。


「政治のしがらみに巻き込んでしまった。これも俺や親父が不甲斐ふがいないせいだ」

「……いいえ、これは私の使命です。後宮に入り、帝の覚えを得ることで西南も平和になります……それに、やっと父や母に、ウェイ兄ぃやシャオ兄ぃにも恩を返せます」

「そんな恩は……返していらなかった」


 この時、兄は背を向けた。大きな背中が、小さく見えた。


「……いや、すまん、俺がこんな気弱では、お前も先々で不安になる。今日は祝いだ、もっと前向きなことを話すべきだ。都には……幸いにもシャオがいるし、困ったことがあればアイツを頼るといい。それに、いずれは俺も都への転任を希望するつもりでいる」

「転任だなんて……せっかくこっちに戻ってこられたのに」

「お前のいない所へ帰っても意味がない。いいか、ユェ、忘れるな」


 ――兄の心は、いつでも静月ジンユェと共にある。


『兄様たちから届いたのですか? やっぱり心配してくれていたのね!』


 心が現実に戻る。


 隣にいる侍女の林紗リンシャが喜んでいる。


 机に置いてある包みを手に取って、『まだ何か入っているみたい』と言って探っている。


『御守りと……札には何て書いてあるのかな……急遅きゅうち如律令にょりつりょう? う~ん?』


 林紗リンシャが首を傾げている。どうやら兄からのふみの他にも御守りが同封されていたらしく、五芒星ごぼうせいが描かれていて、更に一枚の白い札まで入っていた。


 急遅きゅうち如律令にょりつりょう、と力強い文字で書いてある。


 こっちは任暁レンシャオの筆跡だった。


「それは、まじないね」


 文を届けてくれた女性が言う。


「へえ、そう、なのですか。何が、意味の?」

「直訳すると、急々に律令のごとくに行え。陰陽道での厄払いの言葉なのだけれど……本当は、急急きゅうきゅう、が正しいの。この言葉を選ぶ人が間違えるとは思えないから、わざと変えたのでしょうね」

急急きゅうきゅう急遅きゅうち? 急いで、やっぱり遅い?」


 林紗リンシャには伝わらなかったが、静月ジンユェには意味が分かった。これは任暁レンシャオの本心を表していた。一文字だけが変えられた言葉に、彼の苦悩が見て取れた。


「あまり、急ぐ必要はない」


 最後に会った日に、こう任暁レンシャオは言っていた。


「後宮の世事は目まぐるしい。急いで対応しなければ、陰謀や嫉妬の渦に巻き込まれてしまう。だからといって……自分だけでどうにかしようと背負い込まないことだ。急がずに、時には流れに身を任せることも寛容だ。それに俺としては、できれば――」


 このまま時が止まっていて欲しい。


 最後の言葉は、小さくてはっきりとは聞き取れなかったが、口の動きからしてこう言っていたように思う。急急きゅうきゅう如律令にょりつりょうで厄払いのまじないとして、つつがなく事が進むようにとの想いを込めようとしたのに、『急』の文字を『遅』に置き換えたのは。


 後宮に入る運命は変えようがないから。


 いずれは帝からの寵愛ちょうあいを受けることになるから。


 寵愛ちょうあいを受けることで静月ジンユェの身の安全が確保されるのだから、できれば早い方がいい。


 だけど、やっぱり任暁レンシャオとしては、どうか、遅くあって欲しいと願って。


ユェ?』


 ほほを伝ったしずくが、口元にまで流れている。


 後宮に行きたくない、なんて、言えなかった。


 本当は帰りたい、なんて、言えなかった。


 心を殺して、しかばねになってしまえばいい、とさえ思った。


 だけど兄たちからの贈り物は、どんな豪華な飾りや着物よりも暖かくて、嬉しくて、月下独酌の人には自分と月と影しかいなかったけれど、私には林紗リンシャ麻朱マオシューがいて、兄たちが月となって見守ってくれている。


『大丈夫……平気』


 肩を優しくさする林紗リンシャと、心配そうに駆け寄る麻朱マオシューに、静月ジンユェは笑いかけた。


『頑張らなくっちゃね』


 この言葉は彼女たちではなくて、自分に言い聞かせている。


 彼らと今生で会えなくなっても、心が繋がっていれば孤独ではない。


 たとえこれが一時の空元気であったとしても、今の静月ジンユェには――


 彼らの言葉を支えにするしかないのだから。

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