2.後宮の生華

2-1.静月(ジンユェ)美人

 花間 一壷の酒、独りみで相親しむもの無し。

 杯を挙げて名月を迎え、影に対して三人と成る。


 月既に飲むを解せず、影徒いたづらに我が身にしたがう。

 しばらく月と影とを伴い、行楽すべからく春に及ぶべし。


 ――李白りはく・月下独酌より



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 静月ジンユェは筆を置いて、すみったすずりに目を落とした。すみの濃い黒は端麗たんれいで如何にも宮廷の華やかさを際立たせるのにふさわしいが、故郷の西南では淡い木炭のような薄い色しか出なかった。でも、静月ジンユェは薄い色の方が好きだ。きっと、自分の髪にかすみのような灰色が混ざっているのも関係していると思う。


 筆でつづったこのうたは、二人の兄が好んで歌っていた。


 一人は実兄の静衛ジンエイで、もう一人は幼い頃から一緒に過ごした任暁レンシャオ。二人はよく月の明るい夜に外に出ては屋根の上で酒を飲んで語り合い、そうして静衛ジンエイが用事でいない日も任暁レンシャオはふらりとやってきて、相変わらず屋根の上で酒を飲んでいた。


 ――影に対して三人と成る。私と月と影の他に、今宵の相手は誰もいない……か。


 とある晩も、任暁レンシャオは独りだった。静月ジンユェはこっそり梯子はしごを登って屋根の上で胡坐あぐらをかいている任暁レンシャオに話しかけた。


 ――まあ、ひどい、シャオ兄ぃ。今宵は私がいます。たまには私の相手もしてくださいな。


 ――お前はまだ十五だ、酒の味は早かろう。それに……この酒は体に流れるおぞましい血を洗っているのだ。


 任暁レンシャオはそんなことを言って、男だけの酒の席には混ぜてはくれなかった。それが後宮入りが決まった日に、これは祝いの酒だと、初めて盃に大人の酒を注いでくれた。


 その日の酒の味を、全く覚えていない。


 無味無臭で、いつも兄たちが飲んでいた酒に、あれほど憧れていたのに。


(対影成三人……今の私も……)


 都の後宮に来て、一月が過ぎた。


 短いようで、長くもあり。


 最近の出来事であるはずが、随分と昔のようでもあり。


 後宮では時が止まっているように感じられて、それは桃源郷とうげんきょうのような夢のような心地ではなくて、少しずつ心が枯れていくような気になって。


 もうすぐ、ここも冬になる。


 部屋の窓から見える葉はここに来た頃から紅かったのか、それとも、いつの間にか紅くなったのか。それすらも分からないほどに、静月ジンユェの感性は少しずつ閉じていた。


「ちょっと、さっきから呼んでいるでしょ」


 甲高い声にハッとして現実に戻る。部屋の外から聞こえたのはとげのある女の声で、もう散々に聞き慣らされているはずなのに、考え事をしていたから気が付かなかった。


「はあ……」


 侍女じじょ林紗リンシャが明らかに嫌そうな息を吐いて、こちらを見ている。静月ジンユェが椅子から立ち上がると、侍女は、いいです、と止める仕草をしたが、どうせ自分が出てくるまで声の主は納得してくれないのだ。


「まあ、どうしてすぐに挨拶あいさつに出ないのかしらね」


 部屋の外で立っているのは、同じ美人妃である紫萱ズーシェン。気が強い彼女は大人しい静月ジンユェとは対照的で、快活で気が利いて、家柄も上々だから評判が良い。なのに静月ジンユェにはいつも辛く当たってくる。今日も眉を曲げた高圧的な態度で静月ジンユェにらんでいる。


「ご機……嫌……うつくし、い。紫萱ズーシェン美人妃」


 静月ジンユェひざを曲げて挨拶あいさつをしたが、みやび語がどうにも、たどたどしい。放たれた声は小さく、億劫おっくうだ。


「もっとはっきりと話しなさいよ、相変わらず粗野で下手ね。それではお里が知れるわ。美しい、じゃなくて、うるわしゅう。ほら、言い直して」

「……あ……あの」

「や・り・な・お・し、分かるでしょ、それくらい。猿じゃないんだから」

「……ご機嫌……うるわしゅう、紫萱ズーシェン美人妃」

「別に麗しくもないんだけどね」


 紫萱ズーシェンはクスクスと笑いながら、今度は立ったままの静月ジンユェの侍女をにらんんだ。


「どういうつもり? あるじひざ、曲げてるんだから、あなたも従うの」

「……紫萱ズーシェン美人妃……は、静月ジンユェ美人妃と、等しく、一緒であり」

「……は? 相変わらず侍女まで何言ってるのか分からないけど、もしかして立場が同じって言いたいの? 同じだったら格式がある方が上に決まってんの。つまりは私が上で、あなたたちは下。一度も寵愛ちょうあいを受けたことがないのに美人妃に指名されたからって、図に乗らないことね。そもそも侍女の分際で口答えなんてもっての他、身分をわきえなさい。ほら、返事はどうしたの? それとも罰を受けたいのかしら?」

「……あ……お気遣い、感謝します。以後を、気が付きました……ご自愛を、よろしく」

「ご自愛? はあ……ここまで馬鹿がそろうと滑稽こっけいを通り越して、はた迷惑だわ。美人九人の管理役じゃなければ放っておきたいのに、本当にしんどいし、あーもう、うっとおしい! ねえ、さっさとあれを渡してよ、孫妍スンイェン

「承知しました」


 紫萱ズーシェンの侍女は抱えている簡素な箱から、一冊の書物を取り出す。


「来月の九人会、分かっていると思うけど」


 紫萱ズーシェンの言う九人会とは芸のたしなみとして、二十七世婦が一同に会して踊りや詩を競い合う催しのこと。婕妤しょうよ、才人、美人のそれぞれ九人の参加が義務付けられている。


「同じ美人妃に、あなたのような鈍いのがいることが私にとっては悲劇なの。せめて詩ぐらいはまともに宮廷の言葉で言えるようにしてもらわないと、こっちにまで迷惑が掛かるってわけ。内侍ないじにすらろくに要請できない馬鹿侍女たちも、せいぜい読んでおくことね」


 そう言って紫萱ズーシェンは書物を手に取って、ぶっきらぼうに地面に落とした。


「ほら、自分で拾って感謝を言いなさい」

「どうも……ありがとうございます」

「……ふん」


 背を向けて、紫萱ズーシェンと侍女が去る。遠くに消えて見えなくなってから、ようやく二人はひざを上げた。


『信じられない横暴です、同じ階級なのに』


 侍女の林紗リンシャは雅語ではない、故郷の言葉で話している。静月ジンユェが後宮に入る際に連れてきた二人の侍女も同郷で都とは縁のない暮らしをしていたものだから、こうして会話に苦労している。静月ジンユェが落ちた書物を拾って自室に戻ると、もう一人の侍女、麻朱マオシューがお使いから戻ってきた。


『ああ、もう、閉まらないんだから!』


 麻朱マオシューは壊れて、半分開いたままの戸に腹を立てている。


シュー、どうだったの?』

『……だめ、掛け合ってくれない。ふみを渡したら、口に合わないのならどうぞ故郷の茶葉を使えば、みたいな感じのことを言って、こっちは妃付きなのに尚食しょうしょくの宮女までもが馬鹿にして』

『じゃあ、戸の修理もダメそう?』

『……どこに言いに行けば分からないから内侍に言ったんだけどね、話がかみ合わないから御付きの公々こうこう宦官かんがん)を寄こせって』

『そんなこと言ったって……暇をくださいって言われたきり帰ってこないんだっての。あーもう、御付きの公々をそっちに寄こすために、先にこっちに御付きの公々を寄こせって言ってやりたい!』


 林紗リンシャ麻朱マオシューは、歯がゆくてバタバタと地団太を踏む。静月ジンユェは彼女たちに苦労をかけて、こんな不都合な場所にまで道ずれにして申し訳ないと肩をすぼめた。


『……小主しょうしゅ。すみません、私たちが不甲斐ふがいないせいで』

シャー……私たちだけの時は小主はやめて。それに、情けないのは私も一緒だから』

静月ジンユェ姐さん……ごめんなさい』


 麻朱マオシューが泣いている。静月ジンユェと侍女の林紗リンシャは同い年だが、麻朱マオシューは彼女たちよりも年下だ。齢もまだ十四。精神的に幼くて、よく泣いたりする。


 静月ジンユェ麻朱マオシューに手招きして、そっと、絹の織物でほほをぬぐった。


『いいの、泣かないで。私は大丈夫だから』

『だってぇ……戸も閉まらないし、机だって脚が折れてるし、そのうちに椅子まで壊れそう……美人妃だからもっと良い部屋が割り当てられるはずなのに、こんな寒い場所なんて。このままじゃあ冬が来ちゃうよ』

『だけど、普通の人の家よりも豪華じゃない? みんな、これよりも寒いところで暮らしているから』

『そうだけど……他の妃に比べたらさぁ、これじゃあ采女さいじょと変わらないよ』

『実際、たいして変わらないから。美人妃なんて器じゃないもの。それにね、住めば都って言うでしょ? いい部屋だって思えるようになるから』

『実際にここ、都だもんね』


 林紗リンシャが笑って言う。この言葉に麻朱マオシューも『そっかぁ、そのうちに慣れるのかぁ』と応えて泣き止んだ。


『じゃあさ、私たちで直そうよ』

『昔は自分たちでやってたもんね。私、木の板でも拾ってくる』

『こっちは釘でも拝借はいしゃくしてきますかね。こうなったら宦官かんがんに片っ端から声かけてやる。釘くらいは寄こせって』


 二人でわいわいと盛り上がっている。苦労は掛けているけれど、これはこれで静月ジンユェとしては暖かい時間だ。むしろこのまま何事もなく過ぎてゆけばいい。林紗リンシャ麻朱マオシューがいて、つつましく分相応に暮らす。そうして故郷の家族に、兄たちにも迷惑が掛からなければいい。


(……九人会……か)


 心の中でつぶやいた。紫萱ズーシェンから渡された書物は、どうやら雅語で書かれた詩のようだ。全員に迷惑が掛からないように勉強しておけということらしい。本当は出席したくはないのに妃という立場がそうさせてはくれない。いっそのこと、下女であれば良かった。


(なんとなくは読めるけど……発音があまり分からない)


 静月ジンユェも多少の学はあるから、雅語での読み書きくらいは習った。少し時間は掛かるが文を通してのやり取りなら可能だ。けれど、直接、話すとなればさっきのやり取りのようにたどたどしくなってしまう。


(そういえば、後宮には言葉に精通している人がいるって女官長が言っていたような)


 後宮入りの日のことを思い出した。門を潜る時に、あちらの殿には『九訳士』がいて、宮女でも入ることができるのだとか。


(でも、忙しいだろうし……他の妃と会うかもしれないし……私なんか)


 結局、引っ込み思案な性格が災いして行動に移せない。さっき麻朱マオシューに見せたように他人には前向きな言葉を掛けられるのに、自身の行動には結び付けられない。静月ジンユェは実家や、地元でしか気を休めることができない。見知らぬ土地に行けば臆病になって気を遣って委縮するのに、まして後宮ともなれば――


 受け身の女性は、およそ後宮には向かない。


 おそらく静月ジンユェを待ち受ける未来は、相当に厳しいものになるだろう。


 だが、時には幸運が舞い込むことがある。


 それは偶然でもなくて、必然として、静月ジンユェの持つ優しさが彼女の身を案じる兄たちを動かした結果だった。


「あの……誰、あなた、なのでしょうか?」


 外に出ようとした麻朱マオシューが戸惑って、よく分からないことを言っている。てっきり紫萱ズーシェンが戻ってきたのかと思い、静月ジンユェは身構えたが、


『ここが静月ジンユェ美人の部屋?』


 知らない女の客人で、しかも雅語ではなく、聞き慣れた故郷の言葉で話している。


「……あれ、言葉、あれれ?」

静月ジンユェ美人の部屋で合っているの?』

『はい……そうです。もしかして、西南の方ですか?』

「あら、伝わったみたいね。急いで勉強しただけはあるかも。だけど、残念ながら今はこれだけ。入っていいかしら?」


 訪問客が入ってくる。


 凛々りりしくて、知的で、言葉の一つ一つが丁寧ていねいで物腰も柔らかい。


『あなたが、静月ジンユェさんね? お兄さんからのふみを預かっているのだけど』


 ふわっと、炊いたこうに、紙とすみの匂いが混ざっている。とても暖かくて、懐かしい匂いがする。

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