1-4.九訳(くやく)殿

 結局、任暁レンシャオ九訳くやく殿に着いた頃には既に陽が落ちかけていた。宮廷全体を紅が覆い、後宮を囲う壁から道へと、長い影が伸びている。


 門下省から目的の九訳くやく殿まで、それほどの距離ではない。


 ここに来る道中で幾人にも話しかけられ、さらには集まった宮女に行く先を阻まれたせいだ。任暁レンシャオは若くして将軍にほうぜらるほどの期待の新星で、文官としての能力も高い。武官職と文官職を兼任しているので知識の幅も広い。


 ――困ったことがあれば任暁レンシャオに聞け。


 これが宮廷内での彼の評判になっている。だから道を歩けば誰かに話しかけられて、その度に仕事が増えるのが常だ。しかも彼の美貌びぼうは性別を超越しているのも相まって、男からも、女からも、いろいろな意味で『あわよくばの誘い』を受けたりもする。


(目立たぬようにしていたはずだが……)


 任暁レンシャオ九訳くやく殿に向かう際に宮廷の中を移動するのではなく、わざわざ正門を出て路地を迂回うかいする念頭ぶり。しかし彼はいつも白地に青紫色の装束を着ており、これは別に構わないのだが、陰陽五行の教えに精通しているため背中に五行盤のような刺繍ししゅうが施してある。


 ――あの装いは、レン様に違いない。


 道行く女が足を止め、都の人たちの心の安寧あんねいを阻害してはならないと彼女らに愛想を振りまいている間に、武官や文官にも呼び止められる。そのうちに知らぬ女からくしを渡されたりする。これもせっかくもらった物だから無下にしてはならないと腰に下げて、髪の毛にも差したままにする。色とりどりのくしが五、六本ほど集まったあたりで、


「これから話をしても良いだろうか」

「あ……レン鎮西ちんぜい将様……少々、お待ちくださいませ!」


 初対面であるはずの九訳くやく殿の侍女じじょ小鈴シャオリンにまで、正体が呆気あっけなく判明した。


(もしかして俺が来るのを……静衛ジンウェイが伝えていたか)


 彼は非常に有能だが、自分のこととなると抜けている側面がある。これが任暁レンシャオという男だ。


「お待たせしました、どうぞこちらへ」


 小鈴シャオリンに案内されて門を抜ける。


 庭を通り、玉石ぎょくせきで固めた道の左右には灌木かんぼくが低くそろえられおり、そのうちに玄関が見えて、近くに池が見えて、池の周りにはケイトウが咲いている。名前の通りに鶏冠とさかの形をした黄色や赤や薄紫の花に混ざって、羽毛のような形をした桃色がやけに美しく匂った。


 任暁レンシャオがここを訪れるのは初めてのこと。


 彼はこれまで遠方に出向く用事が多かったため、都にはそれほど長く滞在してこなかった。それが人手が足りないからと門下省への内勤を頼まれて、以来、宮廷で寝泊まりをするようにはなったが、前任者が放棄に近い引継ぎをしたものだから、しばらくは仕事にこもりきりになっていた。


 九訳くやく殿については、前々から興味を抱いていた。


 少し変わった場所であると。


 かつては便宜べんぎ上、秘書省(※書物の管理)の隣に建てられていたようだが、代替わりと共に後宮に喰い込むようにして特殊な場所に移されたらしい。つまり目の前の殿舎はそのまま後宮と繋がっていることになり、時には妃が訪れる場所でもあり、そこに男が出入り可能なのは異例だ。どうしてそのような特例扱いになっているのか経緯は知らないが、地方から呼ばれた若い妃たちへの『言葉の壁』に配慮したのかもしれない。


 そう、今回の騒動にもなった静衛ジンウェイの妹の、静月ジンユェのように。


 任暁レンシャオ静衛ジンウェイは幼い頃の馴染みだから、当然、妹の静月ジンユェのことも昔から知っている。ずっと実の妹のように接してきたせいで、静月ジンユェが後宮に入ると知らされた時には複雑な心境にもなった。


 あの不器用な娘が、皇帝の寵愛ちょうあいを素直に受け入れられるだろうか。


 他の妃との地位争いに加われるだろうか。


 願わくば一度も寵愛ちょうあいを受けずに払下げになって欲しいのが本音。しかし彼女は西南地方の族長の娘であり、政治的な都合を考慮しても外に出されるとは考えにくい。そもそも後宮に入れば終身で努めるのが原則である。


 せめて争奪戦には加わって欲しくはないが。


 美しい十七の生娘が新しく入って、皇帝から一度もお呼びがかからないなど起こり得るだろうか?


 もしも皇帝の寵愛ちょうあいを受けて、それが度重なれば、彼女は後宮に渦巻く嫉妬しっとの炎に焼かれることになる。静衛ジンウェイは直線的な行動を好む男だから、妹の身を案じて官位を下げてまで転属を希望した。あの文も、いても立ってもいられずに筆を走らせた結果だった。


(……場合によっては地位の高い宦官かんがん籠絡ろうらくして、間接的に監視してもらおうとも考えたが)


 任暁レンシャオとしても、そろそろ動かねばならないと思っていたところに今回の騒動である。


 後宮と繋がっている九訳くやく殿までなら任暁レンシャオも入ることができる。ここで九訳くやく士を通じて宮女と話ができれば、静月ジンユェの置かれた状況を知ることもできる。そのためには九訳くやく士である女の性質を見極める必要がある。


「将軍ともあろうお方を、お待たせしてしまい申し訳ありません」


 侍女に案内された部屋は広く、机が左右に幾つも並んで、客間というより学問を教わる空間のようだ。部屋の奥には一際ひときわ、長い机が横に伸びて、机の上はもちろんのこと、長机の下にまで書物が山のように積まれている。


 その長机に向かって女が正座していた。


 彼女は任暁レンシャオが通されたことに気が付くと、こちらへ向き直って軽く頭を下げた。


 赤毛の混ざった髪を一本に束ねて、目鼻は端麗たんれいで、両手を添えて背筋を伸ばしているたたずまいが知的さを感じさせる。年端はいくらほどか、よくは分からない。少なくとも落ち着きぶりからして十代は過ぎているのに違いない。透き通る瞳は美しいが、こちらの背中の後ろまで見通しているような感覚がする。なるほど、静衛ジンウェイの言っていたように蛇が美女にでも化けているような印象だ。そのような妖艶ようえんな雰囲気がある反面で、女の服装は都に住む女とさほど変わらない。上質なのはせいぜい朱色の羽織だけ。書き物を仕事にしているせいか、身軽さを重視したいらしい。


「どうぞ、そちらにお座りなさい」


かしこまった後に、こういう口調は面白いな)


 性質は自分と似ているようだが、この女は場慣れしている。宮廷での特殊な立場がそうさせるのか、九訳くやくとして国外の者と多く接してきた経験か。


「人払いは済ませてあります。いずれ、日暮れも近いので」

「気遣いを感謝します……二人だけにしていただいたのは、私の立場を考慮して内々の話であると察してくれたのですか?」

「それもありますが、あなたの外見を小鈴シャオリンに聞きました。お噂通りに美しい方……故に、危険でもあります。ここは外界から隔離された後宮かくりよであり、うつしょでもあります。もしも後宮の女官があなたと会えば、ただでさえ男性と接する機会が少ない彼女たちですから、たちまちのうちに虜にされてしまいます」

「なるほど……これは失礼しました、事前に知らせておくべきでした。軽率をびねばなりません。どうやら私も、静衛ジンウェイのことを言えないようです」

「それで、訪問された目的は静月ジンユェ美人のことでしょうか」


 会話を一つか二つ、飛ばされているような気になった。静衛ジンウェイの不始末への配慮を上官として礼を言いに来たと考えるのが自然だ。それを本当の目的が静月ジンユェだと想像するのは――


 無理筋ではないが、いささか不気味だ。


「西南から来た美人妃と、その兄の都への転任。文を返した翌日に、鎮西ちんぜいほうぜられた上官である将軍様がいらっしゃった。事が繋がっていると考えるのが自然です」


 任暁レンシャオは思わず口角が上がって、口元に手を添えて笑いを隠す。


(この女、本当に面白いな)

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