1-2.宮廷の九訳士

 雅な宮殿の近くに、一つだけ質素な殿舎がある。


 『九訳殿』と呼ばれるこの殿舎は、先々代の皇帝によって後宮と外界を繋ぐ門の傍に建てられた。


 ここに寝泊まりしている女が一人。


 彼女は後宮の女ではない。文官でありながら、後宮への出入りを許されている。


 彼女は九訳(くやく)士。宮廷に仕える通訳である。普段は遠方からの使者との会話を仲介しているが――


 時には、異語で書かれた秘密を暴くこともある。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



英明インミンさん、こちらが例のふみなのですが」


 陽が強く差し込む折に、文官の男が『九訳くやく殿』を訪れた。この殿舎は後宮と外界を繋ぐ門のそばに建てられており、宮廷の通訳を担う女が住まいにしている。


 書斎で書き物机に向かっている英明インミンは筆を止めて、言葉を学ぶために訪れた少女に目配せをした。


「今日はこれで失礼します」


 意図を察した少女が立ち上がる。少女は尚食局しょうしょくきょく(※後宮の食事を管理する部署)の宮女で、料理の配膳はいぜんや準備の覚えが悪いから自分で書いて覚えようと、この九訳くやく殿に通っている。


「また、明日にでもいらっしゃい」


 英明インミン凛々りりしい表情に少しだけ笑みを浮かべながら少女を優しく見送る。もっとも英明インミンにとっては相応の微笑みであったが、客観的に見れば、ほとんど彼女の表情は変わっていない。これが後宮に入る女であれば、不器用だの、愛想がないだのと評されるかもしれないが、彼女には人を不快にさせないだけの美貌びぼうと知的さが備わっている。


「すみません、学問の邪魔をして。私が追い出してしまった」

「いいえ、お気になさらず。どうぞお座りなさいな。茶をお出しします」


 英明インミンは文官を椅子に座らせると、男から薄黄色の紙を受け取った。


「このふみは……せた小麦色の……手触りが上質だこと」


 英明インミンが紙の表面を、まるでわらべの頭を優しくでるように指を滑らせている。文字を扱う仕事をしているから、紙の質も肌の感覚で分かる。


 これは値の張る代物だ。


 ならば、それなりの地位の者がこの文を書いたのではないか。


「よほど充てた人に想い入れがあるのでしょうね」

「ですから、陰謀ではなく恋文でしょうと言っているのですが……まあ、いずれにせよかんばしいことではありません」


 文官が額の汗をぬぐう。


 後宮での恋文となれば大事になりかねない。


 すぐに中身を判別する必要があるのだが、この文は公用語ではなく異語で書かれていて、後宮に居る宦官かんがんでは解読できないからと、こうして英明インミンの所にまで回されてきた。英明インミンは遠方からの使者との会話を仲介するのが仕事だが、時には、異語で書かれた秘文を読み解くこともある。


「これは、どなたに充てられたの?」

「それが……分からないのです。ある宦官かんがんが外部の者から、この手紙を渡すように頼まれたのですが、肝心の宛名を覚えていなかったようです。見知らぬ暗号のような字で書かれていますから読めませんし、一度、内侍ないじ(※後宮の管理部署)に戻したところ、もしかすると恋文ではないかと騒ぎになりました」

「じゃあ、書いた人の正体すらも分からないのね」

「ええ、そちらも身分は判別できていません。背丈の頑丈な男だったようですが、なにせ宮廷内は出入りが激しいものですから。その男は門の外でそわそわしていたようで、落ち着かない様子だったと、ますます、内通を疑われています」


 後宮の女は皇帝の妃であり、たとえ寵愛ちょうあいを受けたことのない下級妃であっても他の男と結ばれるようなことがあってはならない。皇帝の妃が不貞を起こすのを避けるための配慮として、後宮には宦官かんがんを除いては男の出入りが禁止されているのだから。


「一方的に送り付けられた恋文であれば受け取る側に罪はありませんが、誰かに毒を盛る指示書ではないかと危惧きぐしている者もいます。このままでは軽々しく取次ぎを受けた者まで気の毒な罰を受けることになるでしょう。しかも、ある妃に疑いが掛かっておりまして……」

「名前を聞いても差し支えない?」

「はい、問題ありません。情報として必要になりますから。宛先として疑われているのは……後宮に入ったばかりの、静月ジンユェ美人妃(※妃の階級、正四品)です」

静月ジンユェ……知らない名前……ああ、そういうこと。最近になって後宮に入ったばかりだから、取次ぎを頼まれた宦官かんがんが宛名を知らないってことね」

「お察しの通りです」

静月ジンユェ美人妃は、西南から?」

「さあ……出身までは……後で聞いておきましょう。何か引っかかるのですか?」

「字の特徴」


 英明インミンは文官の男に見えるように広げた。走り書きのような文字が連なって、後宮で用いられている公用語とは全く別の文字である。


「私には落書きのようにしか見えませんが……どのあたりに特徴があるのでしょうか?」

「音のように見えない? 先月に東西貿易で訪れた客人も、こういう文字を書いていた。おそらくは西方で使われる形式なのでしょう」

「これを見たことがあるんですね! いや、良かった、さすがは英明インミンさん。では、この文も読めるのですね?」

「さあ、どうかしらね。どうぞ、召し上がって。新茶と松の実」


 侍女の小鈴シャオリンが盆に茶と小皿を乗せて差し出す。文官は「どうも」と礼を言いながらも、まだ気が気でない様子だ。英明インミンは書き物机の隣に積んでいる書物の山をさぐって、取り出した本と紙の文字を見比べている。そのうちに文官が茶を飲み終わった。


「もう一つ、聞いていい?」

「はい、どうぞ」

静月ジンユェ美人には兄弟がいる?」

「そういえば……いたような、いなかったような」

静衛ジンウェイという方が宮廷内にいるはずです。その方に、この文をお戻しなさいな」

「その……つまり、静衛ジンウェイという方が書かれたのでしょうか?」

「間違いありません」

「そうですか、英明インミンさんがおっしゃるのであれば、そうなのでしょう。ちなみに中身の解読は必要ありませんか」

「敢えてこちらで、全てを解読する必要はありません。兄が妹に充てたと分かれば恋文ではないことが証明されたも同じです。陰謀論については……正面から渡すような人が器用な画策をしているとは思えませんけど」

「それはおっしゃる通りです。分かりました、彼を探して届けましょう」


 かくして、異語で書かれた文は静衛ジンウェイの元へと返された。


 これは内侍ないじとしても、法を司る文官としても、問題を起こせば誰かが責任が問われることになるため、あまり大事にはしたくないとの共通意志が内々に処理させた結果であった。ただ、軽率な行動を起こしたことをとがめる必要はある。


 英明インミンが文を戻した翌日のこと。


 静衛ジンウェイは上官の任暁レンシャオ将軍に呼び出された。

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