赤と緑

梅里遊櫃

第1話 颯那甲斐という男 

 この部屋の壁は赤い絵で埋め尽くされていた。

 部屋自体は6畳程度、一人で住むには十分な広さだ。

 だが、キャンバズ台すら持っていない売れない抽象画家である本人を映し出すように部屋は汚く、画材と絵に埋もれていた。

 

 颯那甲斐は自身の殺人欲求を抑えるため、今も絵を描いていた。

 自分の猟奇的な衝動に気づいたのはいつのことだっただろうか、初恋の時だったような気がする。

 

 今思い出せるのは彼女の首を絞めたときの柔らかさとこのまま彼女を自分のものにしてしまいたいと言う気持ちであった。

 もちろん逃げられたし嫌われたわけだが、甲斐にはあまりそのショックはなく、自身の欲求の呵責をどうにかせねばと言うことだけであった。

 

 それからと言うもの芸術に没頭していた。芸術の中では何をしても自由であるからだ。


「さてどうしたものかな」


 散らばったり、飾ったりしている沢山の赤の絵を見ていた。サイズは大小有り、また紙の材質も真っ当にはない。

 

 彼はこの部屋と画材のためのバイト以外には外に出ていない。

 真っ当に換気もされていないその部屋には絵の具特有の匂いがした。

 猟奇的なところもありながら、常識を学んできた甲斐は自信がおかしいことにも気づいていたし、普通に振る舞うべきであると言うことにも気をつけていた。


「俺に殺されてくれる女いないかなあ」


 恋心ではないただの欲求である。

 殺人の記事を見て興奮した記憶を思い出しながら、キャンバスに筆で殴っていく。時折手で拭ったり踏みつけたりもしてきた。

 それは衝動の発散にいいと思っていた。

 

 下地の肌色はそのとき想像する女性の色だ。多種多様な赤は固まっていくまでの過程を描いていきたいと思いわざと緩く溶いた液体を流す時もある。

 

 猟奇的な作品は一部の層には刺さりはしているものの、素人の域を出ない。写実的を試したこともあったが、そのときの人の反応はあまりにも怖すぎて近寄りたくないと言ったものだった。

 また、踏みつけたりするような現代アート的なことができないからだ。

 

 自分の猟奇的な絵を飾っているのは自戒である。

 自分は世の中には適していない外れものであるということの自覚を強く持つためにある。どんどんと貯まる絵は壁に収まらず猟奇殺人者が飾るように所狭しとかけられている。

 

 赤に汚れた服を脱ぎ捨て、お風呂へと向かう。

 インクが流れ落ちまるで血が流れているようで気持ちがいい。

 この瞬間のために絵を描いていると言っても過言ではない甲斐は自分の両機を捨て去って外に買い出しに出るために手についた赤をより強く拭いながら、風呂から出ていく。

 拭いているタオルはいつも新品を用意している。新品のタオルに落ちきれなかった赤が移っていく。


 甲斐は白のシャツを着るとスラックスを履きコートを着る。現実は不可解である。法律なんてものや秩序に縛られなければならないし、現在自分も”普通”を装うためにそんな格好をしている。

 綺麗めの格好であれば人から受けがいいと知り、髪の毛の散髪も面倒だが月に一度は通っている。


 「さて、買い出しに行くか」

 

 甲斐は画材のためにお金を使いたいがために、自炊をするようにしている。

 野菜よりも肉を好み、清潔感を保つためにローカロリーなメニューにしている。

 今日は中華炒めを作るための買い出しに向かうのだ。

 

 道を歩くときの砂利の音がうるさい。

 アスファルトの上でも転がっているそんな音が気になってしまう。

 足の邪魔だと思ってしまう自分の神経質さに嫌気が差す。


「はあ、うざったいなあ」


 視線を地面に移し、歩いていく。ゆっくりと歩くと地面が遠ざかっていくような感覚がした。

 そんなときだ、大きな物音がして、しまったと思った。


「すみません」


 咄嗟に口先打が出てきた。目線を上に移すと、そこには小綺麗な女性が現れていた。


「え」

「ん? こちらこそケータイを見ていて……すみません」


 咄嗟に出た声は、茶の髪の毛があまりに綺麗すぎたからだった。

 髪フェチなんかではないが、丁寧に整えられており、さらには目が垂れ目がちでまんまるとしていて可愛いと思った。


 こんな感情は初めてだった。


「あの、怪我はないですか?」

 転んでもない女性にそんなふうに声をかけるのは初めてだった。

「大丈夫ですよ。 私頑丈なので!」

 綺麗で優しい女性だと思った。


 そして、いつもならこのような感情を抱くときには自分はあまりにも殺害の衝動が出てしまうから逃げてしまうのだが、そうではなかった。

 この感情をなんと呼んだらいいのか甲斐にはわからなかった。


「あの、失礼ですが、どちらに向かっていましたか?

 失礼なことをしてしまったので、宜しればお茶でもいかがでしょうか?」


 我ながら下手くそな誘い文句だと甲斐は考えていたが、焦っていたためそれ以上の言葉が浮かばなかった。


「そんな、気にしなくていいんですよ。

 でも、私ちょうどお茶をしにいくところだったんです」

「そうなんですね。

 よろしければ、ご一緒してもよろしいですか?」

「いいですよ。 お恥ずかしながら友達も少ないものですから。

 一期一会、このご縁ということで」


 甲斐は料理のことなど全部忘れて逆方向の喫茶店へと彼女と向かっていった。 

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