閑話2 長老の独白
※番外編にあったものと同じ内容になります。
―――
物心ついたころには、既に人ならぬもの、目に見えぬ何者かの声を聴いていた。
聴こえるといっても、普段から常時聞こえているわけではないし、そもそも耳で聞こえる声ではない。
ただ、常日頃、特になんということはない時にも、ぼんやりと気配を感じることはままあったし、それはだいたいの場合優しくて暖かい気持ちになるなにかだった。
たまに、危ないことがあるとそっとそれを教えてくれたので、親切ななにかがいるのだな、としかその頃は思っていなかった。
それが何の声であるかとか、幼子は特に考えないものなのだから。
だが当時、そのことを母親に話すと、けして他の人に話してはならぬ、と怖い顔で叱られたものだ。
その頃は、何故親切な誰かの話をしただけで、そのように怒られるのかさっぱり判らなかったのは、幼児ならではの知恵の無さであろう。
今となっては、何としても手放したくないという親の愛情だったのだと、知られれば普通の暮らしはできぬと判っていたからこその怖い――哀しい顔だったのだと思う。
まあ、何にしたところでそれはもはや遠くとおく過ぎ去った過去のことでしかない。
結局、叱られた子供は、その翌年にうっかりと、他家の大人に聞こえてしまう場所でその話をしてしまい……
謎の声、集落の大人たちのいうところの祖霊様の声を聴ける、と周囲に知られてしまってすぐから、彼女の生活は家族と自分のためではない、集落のひとたち全体のためのものになってしまった。
昔から、この集落には祖霊様の声を聴ける人が何人かいたのだそうだが、だんだんと現れにくくなり、最後の一人が身罷ってから、もう十年近く経っていたのだ。
当然のように、集落の人たちは彼女を祖霊殿たる天幕の主として担ぎ上げた。
この地に住まうようになってから、何度となく彼らを助けてくれた祖霊の言葉を求め、拠り処とするために。
丁重に扱われつつも、自分の好きな時に母親に会えない生活は、最初の頃こそ苛立ちと癇癪に彩られていたが、いつしかそれに慣れてしまった。
否、そうやって怒ったり拗ねたりしていると、祖霊様たちがしょんぼりするのが判ってしまうので、居たたまれなくなってしまったのだ。
その頃には彼女たち(多分、彼女たち、だろう。今までその声を男性のそれだと思ったことは一度もない)が、声を特定の人に届ける力以外は持たない存在なのは理解できていたし、そんな彼女たちの声を聴けるのは自分だけ……伝えることのできるのが自分だけでは、半ば閉じ込められている自分の扱いに対して祖霊様たちが不満である、と他の人に伝えようとしても、自分の我がままととられてしまうだろう、とまでは当時でも理解できた。してしまった。
結局、近隣の街の領主のもとに長らく務めていた、腕のいい外科医だった父親が領主の代替わりを期に帰ってきて、こんな子供に、外にも出さない不健康な生活をさせるとは何事だ!と盛大に集落の民全員を集めたうえで、どでかいカミナリを落としたので、それ以後はだいぶんとマシになった。
だが、そんなふうに怒ってくれた父親でも、娘が祖霊様の『声繋ぎ』であることは認めざるを得なかったし、成人のあとは祖霊殿住みになり、ゆくゆくは長老役を担うこと、を撤回させることはできなかった。
さもあろう、父とて『声繋ぎ』を待ち望んでいた一人だったのだから。
それからは、大人たちにいろいろなことを学んだり、祖霊様に正式に挨拶をしたり、たまには子供らしく遊んだりで、なんだかんだたいした病も受けずに健康な大人になり。
祖霊様の声が突然聞こえなくなったりしないだろうか、と思うこともあったが、なんでも今までそういった例は皆無だったと、大人たちからも祖霊様がたからも教えられ。
まあ、食うには困らぬということなのだ、よいことじゃないか。
と、あの時の剣幕が嘘のようにおおらかに笑った父は、随分と長生きしたので、そのおおらかさを見習おうと思いもし。
気付けばその父の寿命もとうに過ぎた己を思う。
いろいろなことがあった。最たるものはあの山火事か。
あの何年か前から、祖霊様がたは村の移動をしたほうがよいと言い続けていた。だが、焼ける前のあの森は今の住処に近い東の森より獲物が豊かで、畑を作れる場所も多かったから、祖霊様にあまり恩恵を受けたことのない、若い農民と猟師たちがどうしても首を縦に振らなかった。
当時は木と石で作った家に住むものもそれなりにいたから、そういった家持ちも移動を厭うた。
そして火事でその者たちの半数以上と、それとは無関係なものたちの幾人かが森とともに焼かれた。
助かったのは、せめて、少しだけでも森から離れておこう、と祖霊様の言を容れて森から離れたところに天幕で居を張りなおしたものが殆どだった。
おかげで、集落の生き残った民全体に、祖霊様の言葉に頼りすぎる傾向が出てしまったのは良かったのだか悪かったのだか。
火事の十年ほど前に碧の病に倒れたまま、そして夫が祖霊殿への引き渡しを拒み続け、己の家で眠ったままだったエスロも、この火事で目覚めることなく亡くなった。
……だが、エスロはここにいる。あの時から暫くしてのちよりずっと、祖霊様の中で、はっきりとした彼女の意思を感じるのだ。
祖霊様がたは恐らく女性ばかりだ。エスロもまた一児の母であった。
そして今。エスロに現れてよりこれまで、ずっと現れなかった碧の病。
外の遠い町から来た二人の子供たちは、この集落に来てから親を亡くした。
どうやらこの集落でよく流行る熱病は、彼らの元居た土地にはないものだったうえに、その年の流行は根っからの住人も相当ひどい目に合うような重いもので、親たちはあっという間に熱が悪化して亡くなり、子供たちも、この集落の子らに比べて更に重い症状になったのだ。
そのため、夏という遺体の腐敗しやすい季節のせいもあって、親の弔いをさせてやれなかった。
とはいえ、後々の健康に尾を引くほどの悪化には至らなかったので、熱からは無事回復したのだが。
彼らにはもう身寄りと呼べるものがいなくなってしまっていた。
一家が頼ってきた、母親の遠縁の老人は、縁者が辿り着くのを待っていたかのように、彼らを迎えた翌年に寿命で逝った……長老より年上の最後のひとりであったので。
なので、長老の元に引き取るとしたものの、子育ての経験のない己の代わりに、既にふたりの子がいる、自分の妹の娘におおむねの世話を任せることとしたのだ。
親の死に目に会わせてやれなかったことが、心に悪い影響を与えはしないかと思ったものの、子供たちは不思議なくらい落ち着いていたものだ。
ふたりとも、まだ十にもならぬ歳であったのに、兄は妹を気遣い、妹はといえば、親が亡くなったと知らされた時こそべそをかいていたが、その後は歳に見合わぬ気丈さを見せ……
……そうだ、妹のほうは、子供のころの儂を思い出させる。
否、いやいや。儂のほうがよほど我がままな子供であったな?
ごほん。
長老は誰も聞いていないのは判っていながらも、ごまかすような咳ばらいをして考えを切り替える。
それはさておいてだ。よもやの碧の病だ。
いや、別にこれはこの集落特有の病というわけではないはずだ。ずっと昔に、回復したものがいるという話は、遠く西方の村の話であったというし。
集落の外れに住む、人ならぬものの目を借りられるという触れ込みの女の判定は今のところ間違っていたことはない。
ただ『見える』のみであって、他には何もできぬ、とはいうものの、その目には幾度か助けられていた。
……そういえば、あの女も一体幾歳なのやら。
常に顔を隠すように外套と肩掛けを目深に被るのは、余計なものを見すぎないためだとは言っていたが……
ともあれ、碧の眠りの病と判定された少女は、祖霊殿に預けられたのだが。
まさか、祖霊様が子供とはいえ他所から来たものに関して助言をすることがあろうとは。
そして、その助言通りにきょうだいの兄は旅に送り出された。旅に必要なものはみな長老の名で揃えさせたが、あれで、足りたろうか。
行く先は相談役の助言を受けて、とりあえず東へ向かうとは言っていたが……東の森から来た人間などこれまでいなかった。
いや、助け手が人とは限らぬだろうか。我らとて祖霊様に助けられて生きているのだし。
兄のほうには、何が向いているか判れば幸い、と、十になった頃から、集落内にあるさまざまな仕事を手伝わせていた。
今のところどれが向いているとか、気に入ったとかいう話は聞いていなかったが、要領も物覚えも良いらしく、年齢的にまだきつい力仕事と、文字を読まねばならない仕事以外のあらかたはきっちり覚えてものにしているとのことだった。
なので、北から狼の群れでも降りてきていない限り、一人旅でもなんとかなるだろうとは考えていた。
おまけに、”いつの間にやら、いちばんの新入りが彼に付いて行ってしまった”と、祖霊様たちから聞かされた。
新入りというと、恐らくエスロのことであろう。あの火事の後の件以後、祖霊様が増えた感覚はなかった。
そもそも、祖霊様に加わるものがあること自体が大変稀なことであると、彼女らも言っていたことがある。
しかし、エスロときょうだいには特に関わりのないはずではあるが……出立前の話の流れで、名を呼ばせてしまったせいだろうか?
何はともあれ、祖霊様の加護が得られるのなら、多少はその旅も楽になっただろうか。
そうして送り出して数か月ののちの深夜。
集落に光が落ちた。
あまりに強い気配に目覚めたものたちは、ぼんやりと夜目にも光る祖霊殿を見た。
光は短い時間灯り、そして深更の闇に消えていった。
眠り続けていた少女は、その翌朝目を覚ました。
その兄は、目的を果たしたのだ!と、集落のほぼ全員が喜んだのは、長老にはやや意外なことであった。
それまで、余所者だから、と、少年を邪険に扱ういい年して大人げない輩もないわけではなかったからだ。
「え、だって祖霊様に認められたんだろう?ならもう余所者じゃないだろ」
というのが、手のひらを返した連中の言い分だったわけだが。
集落は、火事のせいで住民が随分と減ってしまって、いまだにもとの八割に至らない。
火事で亡くなったものが比較的若い世代だったこともあるが、実のところ、火事のおこるよりも前から、子供の生まれる数がじわじわと減っていた。
長老が身寄りのないきょうだいを引き取り、それなりに大事に育てていたのは、狭くなり過ぎた集落の血が更に濃くなりすぎるのを案じたせいでもあったのだが。
まあ、そのような事を、なんでも祖霊様と長老に頼り、自分でろくに考えない男どもに説いても今更か。
せめて、子供たち世代はもうちょっと真っすぐに育ってほしいものだが……
長老はふう、と息をつく。その耳に、さやさやと風のような声音が届く。
「ほう、戻ったか……いやまて、もう戻った?早すぎやせんか?」
祖霊様がたはさざめくような笑い声を寄越す。問いに答えるつもりがないときの、よくある反応だった。
はて、妹を目覚めさせる原因となったと思しき光が落ちたのは昨夜。だというのに少年はもう近くまで戻っているという。
いや、なにかを持ち帰ってきて、それがあの光だったのかも知れぬが……まぁ、直接あの子らに聞けば判るじゃろう。
何はともあれだ、無事戻ったなら、迎えてやる支度をせねばなるまいて。
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