第2話

 「……『まぼろしのひつじ』だぁ?」


 集落で一番他所の事に詳しい男の元を訪ね、婆様に言われた通りのことを聞いてみたのだが、男は目をぱちくりさせたのち、何とも言えない……イヌの糞を踏みかけたときみたいな妙な顔をしてみせた。

 というか、言葉がたぶんこれ完全に素だな?普段はもっと丁寧に喋ってたと思うんだ、集落の相談役だし。


 この男はこの集落で生まれ、継ぐ家がないのをいいことにあちらこちら放浪し、どこぞで本を読むなどということを覚え、いっぱしの物知りになって戻ることで、集落での諸事相談役として、己の居場所を作ったのだ。

 他所はどうだか知らないが、この小さな集落では、男は自分の本分といえる仕事を持っていないと、自分の居場所 ―天幕を持てないのだ。


 「ああ、祖霊様のお告げとやらで、そいつを見つけないといけなくなった。相談役殿は『まぼろしのひつじ』のことを何か、例えば何処にいるのかとか聞いたことはないか?」


 俺は如何にもそれが大事なことだという顔をしてみせる。いや実際俺にとっては自分の命の次に大事なことであるが。

 ……俺と妹はまだ余所者の扱いなので、妹のために、とは言わないほうがいいだろう、と婆様も忠告してくれたことであるし、あくまでも祖霊様のお告げを遂行する体で話を進めることにする。

 実際お告げはあったのだから、それで問題はない、はずだ。

 

 祖霊様、と聞いたとたん、男の顔は極めて真面目なものに変わり、そそくさと居ずまいを正す。


 「ん、おほん……なんと、お主へのお告げか……お主らもそろそろ集落の者として認められる時期に来たのかねえ。


 しかし、私も人づてにその『まぼろしのひつじ』という名称くらいは聞いたことがあるのだが、あくまでも噂ばかりでな。これまで読んだことのある、ある程度よりきちんとした文献で目にしたことはないのだよ。

 人づての噂のほうも、具体的に捕まえたなどという話ではなかったしな。」


 「その人づての噂というのはどんなものだったのかな?」


 「西方の、あの高山を越えた向こうのそのまた向こうの土地から『まぼろしのひつじ』を探しに来た男がいたんだそうだよ。

 その頃は……ええと、もう十年以上前の話だけども、そんな西のほうにもまだ人が住んでるなんて誰も思ってなかったから、その時私がいた街では結構な大騒ぎになったもんさ。

 

 もっとも、その男はそっちの街に辿り着く前に怪我がもとで死んでしまったのだそうだがね。

 だから、それ以上詳しい話は判らないんだ。そいつがひたすら東を目指していたってこと以外はね……」


 おっと、思いのほかいい情報だな?少なくとも西に『まぼろしのひつじ』はいないと考えてよさそうじゃないか?

 

 「ということは、俺が目指すべきも東ってことになるのかな」


 「東……まあ、東なんだろうが……東はなあ……」


 男が眉根を寄せる。別にあんたが行かなくちゃいけないわけでもないんだから、そんな嫌そうな顔をしなくてもいいだろうに。


 「東方は化生の領分ってやつかい?」


 「お主もそのくらいは知っているか。そうさ、東の森より向こうは化生の領分、人が立ち寄ることはまずない所。

 ……だがそうだな、人の立ち入らぬ場所のほうが『まぼろしのひつじ』に出くわす可能性はありそう、か……?」


 化生ってのが何なのかは正直俺も、たぶんこの男も正確なところは知らない。

 ただこの集落ができたころにはもうそういう話になっていたそうだし、両親が生きていた頃、ここに来る前にもそういう話を聞いたことがあった。

 別に人の立ち寄りが禁止されているとか、そんなことはないらしい。ないらしいのだが、行って帰ってきた人間がほとんどいない場所なのだ。

 そして、数少ない帰還者はみな、何があったかすら黙して語らぬまま、なんだそうだ。

 最後に東から戻ったという人は、大けがをしていて、ここからちょっと南にある集落に辿り着いて間もなく亡くなったそうだし……





 っつか、俺、西の山の向こうに人が住んでるって話だって今日初めて聞いたんだが?

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