横にいた人

「すいません、泣いちゃって……」

「いいのよ。泣いたら楽になるでしょう」


 恵が冴を励ます。


「だからもう、あんなところには帰りたくないんです」


 さっきまで背中をさすっていた手をカウンターの上に戻して、三善は言う。


「確かに、冴の話聞いたら、なんで電話取りたくなかったかよく分かったよ。さっきはなんだかきつく言っちゃってすまなかったな」

「いや、いいよ。思い返せば、私お母さんとしっかり話したことなかったし、もしまた掛かってきたら、出ようと思う」

「そうか……」

「そう言えば」


 恵が何かに気付き、口を開いた。


「冴ちゃんって、三善さんには敬語使わないのね」


 三善は取り繕うように言う。


「俺が敬語じゃなくていいぞって言ったんだ」

「あら、そうなの」と、恵は納得した。

「三善さんってそんな事言う人だったのね」

 

 下から見上げて、「どういうことだ?」と三善がむっとする。


「いや。いつももっと無口だから、他人とは距離を置く人なのかと思ってた。だから敬語話さないとかで距離を縮めようとする人だとは──」

「そうしたほうがリラックスしてくれるかなって思っただけだ」


 恥ずかしさを紛らわすように、三善はお冷を口に含んだ。


「冴ちゃんのため?」


 恵は微笑む。冴はそれを聞いて、少し顔を赤らめた。


「二人って親子みたいね」


 恵がそう言うと、二人は顔を合わせる。

 一瞬だけ見つめ合って、直ぐに二人はコップの中に目線を落とした。


「何も言わないってことは──」

「もうやめてくれ。この子はお客さんだから、色々考えてやってるだけだ」

 恵はそう、と言って、皿をふきんで拭きだした。何を考えているのか、にやにやしている。

「私は有り難いよ」


 気まずいような、くすぐったいような雰囲気を、冴が破った。


「今まで、優しい大人に会ってこなかった。親はもちろんだけど、学校の先生もろくでもない人だった。いじめを相談しても、なにも取り合ってはくれない。だから、三善さんとか、恵さんに良くしてもらえて、感謝してる」

「なら良かった」


 三善がそう言ったとき、聞き覚えのある着信音が、店内に響き渡った。


「来た……」

「出るのか?」

「うん。約束したからね」


 三善がこくりと頷くと、冴は立ち上がり、店の外へと出て行った。

 店内には、三善と恵が取り残される形となった。やけに静かに思える。戸の磨りガラスには、冴のシルエットがゆらゆら揺れている。


「俺さ」


 三善が言いにくいことを言うように、ぽつりと言った。


「あの子は死ぬべきじゃないと思ってるんだ」

「そうね……」


 恵も同意するように、深く目を閉じる。


「冴は何にも悪くない。確かに生まれた場所は悪かったかも知れない。でもそんなの、あいつの責任な訳がないんだ。きっと、独り立ちなりして環境が変われば、あいつは笑ってやっていけるはずだ。それだけの愛嬌があるし、人並みの根性もある。まだ会って数時間だけど、なんとなく分かる」


 恵は、三善の言葉を待つ。


「けど、あいつは本当に死ぬ気がする。まだ生きてもないのにだ。だからもし、ほんとに冴が死んだとしても、その後で生きる喜びを知って欲しい」

「あなたが言っても、説得力ないわね」


 恵はそう言って笑う。


「まあ確かにな。俺は運でこうなったからな。もしあの場所を見つけなかったら、俺は今こうして運転手なんかやってない」

「じゃあ」


 恵は決心したように言い放つ。


「あの子に見せるのね?」

「ああ。そのつもりだ」


 三善も、力強く返した。


「その上で、冴がどうするかだ。彼女がどんな選択をしても、俺はもう何も言わない。見届けるよ。恵さんは、それでいいと思うか?」

「ええ。もちろん。あの子の人生なんだから、あの子が決めるべきよ。その選択を、私たちが見守るべきだわ」


 恵の言葉を聞いて、三善は深く頷いた。


「ありがとう恵さん。これで迷いなく見せられるよ。なんか恥ずかしいけどな」

「ちょっと、私はできるだけ綺麗に見せてよ?」

「ああ、分かってるよ。できるだけ努力する」

「それって努力しない人が言う台詞よ」


 二人の間に、気の抜けた笑いが宿った。


──ふざけるな!


 突然店の外から、揺れる白い影から、涙混じりの怒声が響いてきた。二人に、緊張の糸が張る。


「荒れてるな」

「しょうがないわ。これが『話す』ってことよ」


 店先からは、まだ冴の怒声が聞こえてくる。しかし、何と言っているのかは分からない。耳を澄ませて聞きたくなってしまうのをぐっと堪える。

 二人は俯いて、なんとか意識を違うところに向けさせる努力をしていると、不意に戸が開き、涙で顔をぐしゃぐしゃにした冴が入ってきた。

 冴は袖で顔を隠しながら、三善の元まで小走りして、抱きついた。


「おい、大丈夫だったか」


 三善が優しく声を掛ける。


「しんどかったけど、言いたかったこと、全部言った」

「そうか」


 恵は、心配そうな顔で冴を見つめる。


「『うるさい、早く帰ってこい』って言われた」

「そうか」

「けど、お母さん、泣いてた」

「そうか」


 三善は、無駄に声を掛けるのは野暮だと思ったのだろう、ひたすらに、ただひたすらに、冴の背中をさすり続けていた。


 やがて冴も落ち着き、充血した目も、元に戻ってきていた。


「それで、冴はどうするの?」

「自殺しようと思ってます」


 冴は、真っ直ぐな目で答えた。初めてタクシーに乗ってきた時よりも、迷いがなくなっているような気がする。


「でも、お母さん泣いてたんでしょ? もしかしたら反省──」


 そう言った恵を、三善が睨んだ。恵はその視線に気付いて、小さく「ごめんなさい」と呟いた。


「私は、毎日泣いてました」


 冴が、少し目線を下げて言った。その華奢な手が、ぎゅっとスカートを握った。


「それじゃあ、そろそろ行くとするよ」

「ええ、分かったわ。お代は大丈夫よ」


 恵は、微笑んで言った。三善がそれを手で制する。


「いや、払ってくよ。五千円で足りるか?」


 恵が次の言葉を紡ぐうちに、三善は財布から五千円を取り出し、カウンターに置いた。「ごちそうさま。ありがとう」と言って、スタスタと外へ出て行った。

 冴も、「ごちそうさまでした!」と礼をして、三善の後についていった。


「お会計六千円なんだけどね……あの人、かっこつけるとすぐにぼろが出るんだから」


 恵は三善の顔を思い出しながら、ふふっと微笑んだ。大事に、三善の置いていった五千円を手に取る。

 恵はそれを棚に入れて、そっと静かに閉めた。そのままの足取りで、カウンターの中から、先ほど三善と冴が座っていた隣を見つめたと思うと、虚空に向かって話し出した。


「それじゃあ西木さん、何食べる?」

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