道しるべ

 夜の山道に、茫とした明かりが浮かんでいる。車を降り立った二人の前に、『道しるべ』と行書体で大きく書かれた看板が掲げられていた。こじんまりとした店だが、提灯や暖簾が華やかで、高級感が漂っている。やはり、飲み屋は夜が似合う。


「じゃあ、入るぞ」

「うん」


 三善は慣れた手つきで暖簾をのけ、引き戸をゆっくりと開けた。


「あら、いらっしゃい」


 三善と冴に、暖かい目線が投げかけられた。明るい店内に、冴は思わず目を細める。


「やあ恵さん。来たよ」

「ああ三善さん、待ってたわ」


 カウンターの中から、恵は二人を歓迎した。白髪交じりのお団子を頭にのせ、乳

白色の落ち着いた和服に、刻み込まれた皺が笑っていた。冴には、そんな皺さえもお洒落の一つに見えた。

 しかし、冴の注意はすぐに恵から離れた。店内に漂う、上品な味噌汁の香りと、香ばしい焼き魚の匂い。それを運んでくる湯気。冴のお腹が、空腹に耐えかねて声を上げた。


「あらあら、お腹空いてるのね」

「え、そっちまで聞こえちゃいましたか!?」


 また顔を赤くしている冴に、三善は高く笑う。


「恵さん、この子に色々と食べさせてあげてよ。昨日から何も食べてないんだってさ」

「そうなのね。とりあえず味噌汁ならすぐ出せるけど、食べる?」


 その匂いに、冴はやられたのだ。間髪を入れず、冴は大きく何度も頷いた。


「それじゃあ、そこの席に座って」


 二人は、カウンター席に案内された。木で出来た、簡素ではあるが温もりのある椅子だ。座って振り返ると、三つほど座敷の席がある。畳に座布団、掘りごたつ。いかにも日本的な、落ち着く内装だった。

 三善はメニュー表をとって、「とりあえず生で」と手を挙げた。


「え? 運転大丈夫なの?」


 冴が疑問を呈す。


「一杯だけだ。大丈夫だろ」


 三善はふてぶてしく、ぶっきらぼうに答えた。続けざまに、鶏の軟骨揚げやら、たこわさやら、どて煮やら、酒のおつまみをどんどんと頼んでいく。一通りめぼしいものを頼み終えると、メニュー表を冴に見せ、「好きなもの食え」と言った。


「ええ、なんか遠慮しちゃうな」


 冴は戸惑いながら、メニュー表を受け取る。


「何言ってんだ。今から死ぬんだろ? 最後くらい盛大に食えよ」

「ちょっと!」


 恵さんに聞こえたのではないかと、冴は三善に向けて、人差し指を口に当てた。料理の準備をしていた恵は、手を動かしたまま冴に尋ねた。


「あなた、自殺しちゃうの?」


 聞こえてたか、と観念するかのように、冴は肩をすくめた。


「そうなのね~」


 意外とドライな返答に、冴はぽかんとした顔をする。


「三善さんもそうでしたけど、驚かないんですか?」


 それを聞いた恵は、美しい皺を浮かばせて、優しく笑った。


「実はね、慣れっこなんだ。あ、はいこれ味噌汁」


 恵が冴の前に、そっと味噌汁を置いた。立ち上る煙が、冴の顔を包む。「慣れっこなんだ」という話がどこかに飛んでいってしまっかのように味噌汁に飛びついていったが、いかんせん出来たて、冴は「熱っ!」と言って、唇に手を当てた。思えば、箸もまだ置いていない。


 その様子を見ていた三善は、にやにや笑っている。


「ごめん、遅れたけど、お冷やとおしぼり。小皿とお箸はちょっと待ってて。すぐとるから」


 三善と冴は首を少しだけ前に出してお冷を喉に流し込んだ。それで落ち着いたのか、冴が話を続けた。


「それで、慣れてるっていうのは?」

「ああ、それね」


 恵は手をちょこちょこ動かしながら話し出す。


「この店は山の中だからさ、自殺しようと思ってきた人が、よくこのお店に来るのよ。それでね、私に相談してくる人も多いの。多分寂しかっただけなんでしょうけどね」


 冴はへえと相槌を打つ。


「中にはそれで自殺を止めてくれる人もいて、私自身もそれが生きがいになってるところもあるのよ。だからこんな辺鄙なところでお店してるの。それも二十四時間ね」


 二十四時間。一人でお店を回している訳ではないのか……。冴はそんな疑問を浮かべたが、恵が小皿とお箸を置いたので、そんな疑問もすぐに消えてしまった。


「もう味噌汁食べれるんじゃない?」


 恵が促すと、冴は箸を手に取って、味噌汁を啜った。目が見開かれる。


「──おいしい……」

「良かった」


 三善はさっきから、ずっとにやにやしている。


「私、お母さんの味噌汁食べたことないんです」


 冴が味噌汁を手に持ったまま、訥々と語り出した。


「お母さんはいつも仕事してたから家にいなくて、あんまりお母さんのご飯なんて食べたことがなかったんです。自分でご飯作ろうと思っても、塾やらバレエやらピアノやら、色んな習い事をやらされて、私も時間なくて……だから、ちゃんとしたお味噌汁、初めて食べました」

 冴は悲しげに微笑んだ。その様子を見ていた恵ははたと手を止めて、冴に問うた。


「お父さんは?」


 冴はお父さん、と聞いた瞬間、ぴくっと眉を上げた。暗い雰囲気を感じ取ったのだろうか、三善は咎めるように恵を一瞥したが、冴は「大丈夫です」と言って、ゆっくりと口を開いた。


「行方不明になりました。片親なんです。うち」


 恵は「そう……」と呟いて、冴を心配そうに見つめている。

 三善はちらっと横を見た後、ぐっとお冷を一気に飲み干した。


「そういえば、名前まだ聞いてなかったわね」


 恵が思い出したように聞いた。


「あ、そっか。私、西木冴って言います」

「冴ちゃんね。はいこれ、サービス。前のお客さんがキャンセルしたやつだけど。良かったら食べて」

「うわあ! ありがとうございます!」


 黄金のタレに照った、チキン南蛮が冴の前に降臨した。空腹の冴にとっては、降臨という表現がふさわしいだろう。きつね色の衣に、タルタルソースが寝そべっている。横に置かれた千切りレタスとトマトが、これまた食欲をそそる。


「あ、そうよね。チキン南蛮には、これがいるわ」


 恵はそう言うと炊飯器を開け、ご飯をよそった。


「ご飯大盛りは、三善さん負担ね」


 三善は一瞬目を見開いたが、すぐに姿勢を正し、「分かってるよ!」と笑った。


「ごちそうさまです」

「ああ。もっと色んなもの頼んでいいぞ」

「なんだか、今日の三善さんは明るいわね。いつももっと無愛想なのに」

「……やめてくれよ」


 一瞬の間があった後、三人が笑いの輪で繋がった。はたから見れば、家族に見えないこともないだろう。

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