中身と死体

 冴は手を伸ばし、封筒を手に取って土を払った。水を含んだそれの重みは、そのまま冴の心にのしかかってきた。おぼつかない手元で、中身を取り出す。冴の手には、一枚ぽっきりの紙が乗せられていた。そこには、震えている、ミミズのような字が書かれている。雨に滲んで、読み取れない部分も多々あった。


「読んでくれ」


 三善は静かに、低い声で言った。冴は頷いて、一つ深く息を吸った。自分も書いたかも知れないその文章を、一文字一文字、噛みしめるように読もうとする──が、軽く文章に目を通した冴は、力なく首を振った。


「駄目だ。全然読めない。雨で滲んでるところが多すぎる」

「それなら、読めるところだけでも」


 冴は再び、紙の上に目を落とした。


「できることなら、もっと生きていたかったけど──」

「けど?」

「もう読めない」

「そこだけしか読めないのか?」


 冴は力なく頷いて、紙を持っていた方の手をだらんと下げた。

 三善は「そうか、」とだけ言って、腕を組んだ。


「自殺って、いけないことかな」


 ぽつりとそう言った冴に、三善は「別にいいと思う」と答えた。


「でも自殺するってことは、周りの人に色んな感情を巻き起こすものなんだよ。悲しみ、怒り、罪悪感、哀れみ、同情とかもあるかもしれないな。実際あいつが死んだときも、カテゴライズなんてとても出来ないような、複雑な感情になった」


 『あいつ』は、さっき話していた友人のことだろう。


「自殺した人は、他人の中に感情として残り続けていくんだ。それが人に迷惑をかけていると捉えるかどうかで、どっちか変わるだろうな」


 冴は悲しそうな顔になる。


「俺は、もっと自分のために生きていいと思う。自分のために、自殺してもいいと思うぞ」

「そっか……なんか、逆に自殺したいのか分からなくなってきたよ」

「なんで」

「他の人は見ないようにして、自分のためだけに死ぬって、それって自分勝手で自己満足じゃん」


 冴が言い放った。三善は向き直る。


「あのな、人生は誰が主人公だ? 自分だろ? 他人に自分のエンジン持たせてどうするんだ」


 三善は続ける。


「この世界は、人のために生きてる人が五万といる。それで世界は成り立ってる。だけどどうだ? そいつらは本当に他人のために生きてるのか? 自己満足なんじゃないか? 『人の笑顔が見たいんだ』って言う奴いるだろ? それって結局他人のためじゃなくて、自分が見たいっていう欲望から突き動かされてるんだ。もっと、自分本位で生きてみろ。自己満足は、全然悪いことじゃない」


 三善は一回落ち着いて、一つ言葉を置いた。


「自分のレールの先が見れるのは、自分だけなんだぞ」

「なんか、名言っぽいね。ぎりぎり意味わかんないけど」

「えっと、もし自分のレールが他人にひかれたレールだとするだろ? でもそのレールの先は、他人には見れないんだ。レール引くだけ引いて、そいつはその先を知ろうともしないものなんだよ」

「もっと分からなくなった」

「えっと──」

「うそうそ。よく分かった。自分の進む先は自分で決めろってことでしょ?」

「まあ、そんなとこだな」


 三善がそう言った時、一陣の風が吹いた。木が揺れ、森が囁く。その囁きの中に、ぎいぎいという一つの異音が混じっていた。二人が立っている木の反対側から聞こえてくる。


「まさか……」


 思い当たった三善は、冴にその場にとどまるように言って、木を回り込もうとする。


「え? どうしたの?」


 冴は不安げに三善を呼ぶ。


「いいから、ここにいてくれ」


 三善は、恐る恐る木を回る。そこにあるかもしれないもの。闇にぶら下がっているかもしれないもの。懐中電灯で照らすのが怖い。足元を照らす手が震えた。

 寸分先の暗闇の中で、何かが揺れる気配がする。右に左に、生と死の狭間に。

 三善はゆっくりと、懐中電灯を上げていった。暗闇をぼんやりとくりぬく円い光。その円のなかを、人の足が横切っていった。地に足は着いていない。つま先が、垂れ下がっている。


「くそ……」


 三善はそこで、一度懐中電灯を下げた。自分がこれから、何を見るのか。そもそも見てもいい物なのか。そんな葛藤に身体を押さえられながらも、気を取り直して三善はじりじりと懐中電灯を上げていく。


「──」


 そこには、制服の女の子がぶら下がっていた。顔はこちらと反対側を向いていた。首が異様に伸び、手足がぶら下がっている。スカートから覗く変色した皮膚が、この世の者ではないことを如実に示していた。

 三善は、一言も発することが出来なかった。冴に来るなと、見るなと言うべきなのに。

 死体が、風に揺られる。風と共に、死体が回る。このまま、こっちを見られたら、あのぎこちない笑顔と、目があってしまったら。俺は、俺は──。


「ねえ、なんかあった?」


 冴の声が聞こえた瞬間、三善の懐中電灯は、その死体から外れた。


「ああ、何もなかったよ。気のせいだ」

「なんだ、びびって損した」


 三善は、死体のことを冴に伝えなかった。今際橋で感じた、あの靴の温もりと同じように。


 死体を見せないことが、冴にどんな影響を与えるのか。逆に見せたら、冴はどんな気持ちになるのか。三善には分からなかった。


「ここにするか?」

「あと一カ所?」

「そうだ」

「じゃあ、そこも見る。なんか、内見みたいだね」

「まあ確かにな」


 三善は悶々とした気持ちを抱えながら、来た道を戻る。冴は今どういう気持ちなのか、自殺しようという決意は固いのか、それとも崩れかかっているのか。分からない。人の気持ちは、分からない。


 三善の脳裏に、和服姿の、優しい笑顔が浮かんだ。やはりあそこに行くか。あの人に聞いてみるしかない。

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