橋の上で

 頼りない光で照らされた細い道を、二人は一歩一歩進む。暗闇を進むごとに、少しずつ川の音が大きくなってきていた。


 看板には『この先』としか書いていなかったから、あとどれぐらい進めばいいのか分からない。延々と続くのではないか、このままもう戻れないのではないか、まぁそれでもいっか──そう冴が思ったとき、三善の懐中電灯が、うっすらと赤色を照らし出した。


「これだ」


 二人は橋の手前で立ち止まった。


 今際橋。赤い塗装が施された、木製の吊り橋である。塗装は禿げ、欄干も含めて朽ちかけているから、今にも落っこちてしまいそうだ。きっとあの事件以来、誰も整備していないのだろう。

 

 遙か下では、轟音が鳴っている。さっきまで雨が降っていたからか、激流になっているようだった。よく見えない分、想像してしまう。地獄が口を開けて、誰かが落ちてくるのを待っているような気がした。川から目を逸らすように前を向いてみても、  

暗闇に続く赤い橋は、やはり彼岸に繋がっているようにしか見えない。


「なんでここは自殺スポットって言われてるの?」


 冴が三善に聞いた。


「十何年か前に、事件があったんだよ」

「事件?」

「そう。管理人が点検しに来たら、この橋にずらりと、夥しいほどの靴が並んでたらしい」


 冴の顔が青くなる。


「それって……」

「集団自殺だ」


 集団自殺という部分だけ、冴の耳にはなぜかくっきりと響いた。


「下流には何十という死体が流れて、一時期大ニュースになってたな。ネットの掲示板で集まった自殺志願者が、一斉に飛び降りたらしい。それから今際橋が有名になって、自殺したい人がここで自殺するようになったんだ」

「……なるほどね。そこまでは知らなかったな」


 三善は滔々と語った。


「行くか」


 三善はそう言って、橋に足を掛けた。朽ちかけた木が、呻き声を上げる。冴も三善に続き、二人は慎重に歩を進めた。

五分くらい経っただろうか、橋の中央部に辿り着いた頃に、懐中電灯があるものを照らし出した。


「あれって……」


 それは、運動靴だった。欄干の上に二足、綺麗に並べられている。

 三善はそれに近づき、一足手に取った。


「これは……子ども用だな」


 土にまみれ、靴底の部分が剥がれるほど、その靴はボロボロだった。おそらくだが、中学校低学年あたりの子が履いていたものだろう。


 冴は何と言っていいのか分からずに、呆然と立ち尽くしている。


 三善は靴を元の位置に戻し、冴に問うた。


「どうだ? ここにするか?」


 俯く冴。一瞬降ろされた懐中電灯は、丁度運動靴が置かれていた欄干の根元を照らし出した。


「あ……これ……」


 冴がその根元を指差す。その先には、ささくれだって刃物のようになった部分に張り付く、乾いた血があった。懐中電灯の光が、スポットライトのようになっている。


「きっと、この子も迷ったんだろう」


 三善はささくれをよく見ようとかがみ込んで、その体勢のまま静かに言った。


「飛び降りる瞬間に、怖くなったんだろ。変な体勢でゆっくり身体を投げ出したもんだから、欄干の根元を掴めたんだ。いや、掴めてしまったんだ。だから彼は宙ぶらりんになって──」

「それ以上言わないで!」


 冴の叫びが、闇に吸い込まれた。


「言わなくても、もう分かるから……」

「そうか」


 三善は話すのを止め、立ち上がった。冴は未だ俯いたまま、自分の胸の辺りをひっつかんだ。


「その子は、苦しかっただろうね」

「そうだろうな。だから、迷って欲しくない。恐怖を感じながら死に飛び込むしかないことが、どれだけ怖いことか──俺には想像もできない」


 死が垣間見えたからだろうか、暗闇の圧迫感が増した。三善は、欄干の向こうの一点を見つめている。俯いていた冴が、顔を上げた。


「ねえ、死ぬ直前って、生きたいって思うのかな?」


 三善は冴の方を一瞥して、「分からん」と答えた。


「まあ、そうだよね」

「どうする? ここに決めるのか?」


 三善は先ほどと同じ質問を繰り返した。


「……まだ、違う場所があるんだよね?」

「ああ。といっても、あと二カ所しか知らんけどな」

「じゃあ、そこにも行ってみる。というか私、泳ぐの苦手だし」

「冴は死ぬんだろ? 好都合じゃないか」

「それとこれとは別ってやつだよ」


 三善はふっと笑って、「じゃあ行くか」と冴に言った。来た道を戻っていく。冴は


「うん」と返して、三善の後についていった。


──君は、どうしたかったんだ?


 三善は心の中で、欄干の上に立っていた男の子に語りかけた。丁度そのとき、ボロボロの運動靴が、橋の上に力なく落ちた。二人のすぐ後ろで起きた出来事だったが、二人は気付かない。大きすぎる川の慟哭が、少年の叫びをかき消したのだろう。


 三善は言わなかった。運動靴に、まだ温もりが残っていたことを。

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