今際橋へ

 三十分ほど、走り続けただろうか。タクシーは山道に入っていた。曲がりくねって上下に揺れる。そんな中でも、冴が目を覚ますことはなかった。よほど疲れているらしい。


「おい、もう着くぞ」


 少し身を震わせただけで、冴の目は開かない。


「おい! 起きろ!」


 三善が声を張り上げると、冴はゆっくりと目を開け、欠伸混じりに小さく伸びをした。


「もう着いた?」

「もう着きそうだから起こしたんだ」


 冴はそっか、と言って、窓の外に視線を向けた。


「暗いね」


 山道には、街灯なんてものはない。ただひたすらに道があって、その両側に森が広がっているだけだ。奥の暗闇の中から、何かが飛び出てきそうな気がする。冴は目を逸らすように、三善の方を見た。頼りないが、オレンジ色の照明が、車内を照らしてくれている。


 なんだか少し安心して、冴の顔が綻んだ。いつの間にか、服も乾いていた。


「なんか、ぐっすり寝ちゃった。久しぶりに、ゆっくり寝られた気がする。運転手さん、さすがは運転上手だね」

「なんだよそれ」


 三善の声の裏には、微笑が隠れていた。照れているのが伝わってくる。


「ねえ──」

「名前でいいぞ」


 三善が遮った。


「『運転手さん』だなんて、畏まらなくていい」


 今度はしっかり、冴の顔が綻んだ。


「そういうところだよ」

「何が?」


 三善が聞き返す。


「ぐっすり寝れる理由」


 三善は「そうか」と言って、居心地悪そうに座り直した。


「さあ、着いたぞ」

「……うん」


 冴は何かまだ喋りたそうだったが、三善は気にせずに後部座席のドアを開けた。

 タクシーから降りた冴を、暗闇が包み込んだ。ハイビームだけが、この森を照らしている。かすかにではあるが、さほど遠くないあたりから水の流れる音がしていた。乾いたはずの服が、まだ濡れているような気がする。


 冴に続いて、三善もタクシーを降りた。勢いよくドアを閉める音が、暗い山に響いた。雨のぬるい湿気が、服にまとわりつく。濡れた草木を踏む感触が、じめじめと緊張感を煽った。


 三善が、細い脇道を懐中電灯で照らす。さすがは自殺スポットというべきか、暗闇と相まって、何か異様な雰囲気が佇んでいる。道の奥から、黒い人影が走ってきそうだ。少し懐中電灯を傾けると、『この先、今際橋』とだけ書かれた看板が、ひっそりと立っていた。


 三善は道の向こうを見据えたまま、冴に尋ねた。


「ここで自殺するのは、決定事項なのか?」


 冴は難しい顔になる。


「うーん、正直ネットで検索しただけだから、ここに思い入れがあるっていうわけじゃないし、別にどこでもいいんだけど……」

「それなら──」


 三善が冴の顔に近づいた。


「色々な所を回ってみないか?」


 ずいっと三善の顔が大きくなって、冴は動揺した。暗闇の中なのが、余計に顔を際立たせていた。冴はこの時、初めて三善の顔を正面から見た。それも、動揺してしまう一つの要素だったかも知れない。少し体を反らせた冴に気付き、三善は顔を戻した。


「あ、すまん怖かったか?」


 三善は顎に手を当てて、冴から目線を外した。


「やっぱり、あご髭は駄目かな」

「いやいや、全然大丈夫だよ」


 冴が取り繕う。


「暗くて、ちょっとびびってただけだから」


 ふうん、と頷いた三善は、ちらっと冴を見る。


「というか、そんなんで自殺できるの──」

「できる」


 冴は三善の言葉を遮り、毅然と言った。自分に言い聞かせているように、きっと三善の目を見た。急に尖った雰囲気を纏った冴に、三善は動揺する。


 少しの沈黙。それを破るように、冴は三善に尋ねた。


「それで、色々な所って?」

「自殺スポットだよ」


 意味が分からないと言った顔で、冴は三善の顔を見返す。


「あんたの、あんたに一番あった自殺スポットを探すんだ」

「なにそれ」


 冴は少し笑った。


「それでだな──」


 冴は三善の袖に手を置いて、先を話そうとする三善を止めた。


「どうした?」

「名前でいいよ」

「──え?」 今度は、三善が困惑する。

「『あんた』じゃなくて、『冴』って呼んでよ」


 雨の匂いの風に乗って、一瞬静寂が通り過ぎた。


「最後の日くらい、名前で呼んで欲しい」


 冴の顔は、悲しげだった。今まで、誰にも名前で呼んでもらえなかったような──。


「分かったよ、冴」


 静かに、三善が言った。


「これでいいか?」


 頷いた冴は、髪を耳に掛けた。覗いた耳には、心なしか紅が差していた。

 三善はにこりとだけ微笑んで、話を戻した。


「冴はどこで自殺してもいいんだろ?」


 冴は少し悩んでから、「まあね」と答えた。


「俺はタクシー運転手だから、この辺りの自殺スポットは幾つか知ってる。最後くらい、自分の納得がいく場所で死んだ方がいいと思うぞ」

「なんか……」


 冴が眉をひそめた。


「三善さんって、変な人だよね」


 その顔に、特に非難の色はなかった。一種の愛情を込めて、三善にそう言っているらしい。


「『死ぬな』って言わないんだね」


 冴は明るい口調で、それでいて影を含んだ表情で言い放った。三善は予想通りとでもいった様子で落ち着いている。


「自殺するってのは、冴が自分で決めたことだろ? なら、俺がとやかく言うことじゃあない」


 三善は続ける。


「死ぬなら死ぬで、生きるなら生きるで、自分の決めた道を行くなら、俺はいいと思う」

「分かった。色んなところに連れて行ってくれるんだね?」

「そうだ」

「うん。そうする。でもさ──」


 冴が訝しげに聞いた。


「なんでそんなに親身になってくれるわけ?」


 冴がそう言ったとき、ただでさえ薄闇に飲まれている三善の顔が、更に暗くなったような気がした。「すまん」と、小さく三善が呟いた。「どうして謝るの?」と冴が聞くと、少し間があいた後、迷いの表情を持った言葉が、冴に降り注いできた。


「冴のためだと言ってやりたいが、これは俺自身の問題なんだ」


 熱心に三善の顔を覗き込む冴とは打って変わって、彼は冴の目を見ようとはしない。ただひたすらに、暗闇を見つめている。その姿は、自分と対話しているかのようだった。


「ちょっとだけ、俺の昔話を聞いてくれるか?」

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