自殺志願者

 手前で手を挙げていたサラリーマンを無視して、運転手は女子高生の目の前にタクシーを停めた。ドアを開けると、オフィス街の喧噪と共に、こじんまりとした女子高生がおずおずと乗車した。後ろから、「俺の方が手前にいただろ!」という怒声が聞こえてきたが、関係ない。お前は客じゃない。


 スイッチでドアを閉めると、再び静寂が訪れた。怒号も聞こえなくなったが、窓を叩かれても仕様がないので、とっととアクセルを踏みこんだ。


「あんた、びしょ濡れだな」

「ああ、すいません」


 意外に、しっかりとした声が返ってきた。運転手は、女子高生にタオルを手渡した。


「あ、すいません」


 さっきと同じような返事をして、彼女はタオルを受け取った。頭を、顔を、それから全身をささっと拭いていく。ある程度水気を拭き取った髪の毛は、茶色に照っていた。運転手はバックミラーの角度を少し変えて、彼女を観察する。

 びしょ濡れだが、新品らしい綺麗な制服、首まで垂れる茶髪のショート。添えるように、目元のホクロ。


 運転手は気持ちだけ振り返って、女子高生に尋ねた。


「西木冴さんだな?」


 彼女の目が、パッと開く。


「そうですけど、どうして……」

「やっぱりそうか。さっきラジオでやってたよ。家出中なのか?」

「すいません、やっぱ降り──」


 運転手が遮った。


「いや、乗っていくと良い。代金はいらないから」

「そんな……」

「行きたいところがあるんだろ? だから手を挙げたんだろうが?」


 西木冴は俯いて、小さく「うん」と呟いた。


「どこに行きたいんだ?」

「それは──」


 冴は目線をふらふらと漂わせ、まごついている。中々口を開こうとはしない。運転手はしびれを切らし、吐き捨てるように言った。


「今際橋か?」

 冴は顔をばっと上げ、目を丸くした。「なんで……」と呟く。行き先を言い当てられた衝撃に、言葉を失っているようだ。


「今際橋なんだな? 返事してくれよ」


 バックミラーに映る顔が、小さく「はい」と零した。


──今際橋。


 思った通りだと運転手は思った。もう既に、そこへとタクシーは向かっている。今際橋と言えば……。彼は気を引き締め、ハンドルを強く握った。


「自殺スポットか」

「はい……」

「自殺したいんだな」

「……はい」


 冴は、小さく縮こまって頷いた。絞るように返事をしている。どうやら、降ろされると思っているらしい。運転手は努めて、明るい声で言った。


「よし、連れて行ってやる」


 意外な応答に、冴は勢い良く顔を上げた。


「え! いいの!?」


 思わず敬語を忘れた彼女に、運転手は笑いかけた。


「当たり前だ。客の行きたい場所に連れて行くのが、タクシー運転手だからな」

「──ありがとうございます」


 その時、対向車線の車のライトが、冴の笑顔を照らした。どことなく、テレビで活躍する母親に似ている。運転手はこの時、初めて冴が綺麗な顔をしていることに気付いた。


「敬語じゃなくていい」


 突然、運転手は言い放った。


「あんまり、子どもに敬語使われるの好きじゃないんだ。もっと適当に話してくれていいぞ」


 運転手はそう言ってから、十八歳で成人だということを思い出した。高校三年生は、もう成人を迎える時代なのだ。


「あ、もう成人したのか?」

「いや……」


 冴は敬語を止めるかどうか決めかねているようで、居心地が悪そうに、深く座席に座り直した。


「今二年生だから……」

「じゃあ、敬語じゃなくていい」

「分かった」


 冴は、きっぱりと敬語を止めた。

 運転手は、前を向きながら軽く頷いた。こんな職業だからだろうか、彼は迷うことが好きではなかった。やるならやる。やらないならやらない。直ぐに敬語を止めた彼女に、彼は好感を持った。


「連れて行ってくれて、ありがと」


 敬語を止めた冴の声は少し低くなり、一気に大人の雰囲気を纏った。

 人に感謝されたのは何年ぶりだろうか。一瞬運転手は自分の過去を振り返ったが、直ぐに虚しくなってやめた。「どうも」とだけ相槌を打って、「疲れただろうし、寝ておけ」と冴に言った。


「あ、シートベルトしろよ」

「これから自殺するのに?」

「それとこれとは別だ」


 冴はふふっと笑って、嬉しそうに頷いた。運転座席の後ろに貼ってある名札に、彼女の目線が注がれた。


「運転手さんは、三善孝明っていうんだね。安全運転でよろしく」

「あんた今から自殺するんだろうが」

「それとこれとは別」


 三善が呆れたように「任せとけ」と返すと、冴は安心したように目を閉じた。

 するとすぐに、寝息が車内に響きだした。呼吸に合わせて、笛のような音が鳴っている。もしも昨夜に家出して、それからずっと外にいるなら、疲れているのは当たり前だ。


 三善は一つ溜め息をついて、ポケットから携帯電話を取りだした。片手で器用にスワイプして、耳に電話を当てた。ハンドルを人差し指で叩く。

 着信音が鳴り続ける。雨を払うワイパーの動きが、やけにうっとうしい。


「なんで出ない……」


 諦めずに二回目をかけたところで、おしとやかな女性の声が聞こえてきた。


「もしもし?」

「もしもし、俺だ」

「ああ、三善さんね」

「なんでさっき出なかったんだ?」

「ごめんね。鳴ってたのは気付いてたんだけど、立て込んでて出れなかったのよ」

「そうか、急にすまんな」

「いいのよ。それで、どうしたの?」

「実は今、彼女が見つかった。今俺のタクシーに乗ってる」


 電話の向こうで、息を呑む音がした。


「そう。良かったけど、状況によってはあんまり喜べないわね」

「そうだな。もしかしたら、そっちに連れて行くかもしれない。準備だけしといてくれないか?」

「分かったわ。準備しておく」


 女性の声が続けた。


「その子がどうするにしても、あなたにかかってるのよ」

「ああ、分かってるよ」

「頑張ってね」


 三善が「ああ」と答えると、電話が切れた。


──俺にかかっている、か。


 電話をしているうちに、雨が止んでいた。車内は雨の匂いと、少しの煙草の臭いと、生きている、確かな人間の匂いに満ちていた。

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