第35話 絶望の顕現

 困惑しつつ行われた彼女の予測はすぐに当たった。大翔ひろとの視界の隅に、何かゆらりと黒い影のようなものが映り込む。それはシレール軍の後ろに音もなく立っていた。そしてありえないほど長い爪のついた腕を持つ、獣の姿に変化していく。


「なんだ、あれは……」

「メドー。シレールの熊の神だ」


 大翔の問いに、ミルカが震える声で返してきた。


 メドーの吠える声が、ミルカを通じて大翔の耳に伝わってくる。野生の誇りを踏みにじられた、最大限に怒った獣がたてる咆哮。砲火の中にあってさえ、それはあまりにも明瞭に聞こえた。


 デイト軍に漂っていた希望が絶望に塗り変わっていく。熊の伸ばした鋭い爪にかかって、最前列の部隊が紙ゴミのように吹き飛んだ。


「熊だ、巨大な熊が出た」

「砲撃を継続」

「弾をもっとよこしてくれ」

「至急、至急」


 通信兵たちの前にある無線機もひっきりなしに鳴り始める。あちらこちらから情報が飛び込んできて、まぎれもないパニック状態だ。


 このままでは、いくら防壁があっても戦線は内部から崩壊する。それを止めるには、こちらにも神の名と姿が必要だ。


「行こう」


 あかりが動き出した。しかし、今から歩いて移動していたのでは到底間に合わない。


「……こんなこともあろうかと、頼んどいてよかったよ」

「なに?」


 大翔がつぶやき、灯がいぶかると同時に、力強い車輪の音が聞こえてきた。そちらの方を見ると、荷車を引いたイラクたち若手の調理兵たちが勢揃いしている。砲兵や通信兵、衛生兵は手一杯だろうから、大翔があらかじめ頼んでおいたのだ。


「遅くなったが、調達してきたぜ。いつでも運んでやる!」


 イラクも他の兵たちも、一大事と理解しているのか嫌な顔ひとつしていない。騒がしいタイプで正直大翔は苦手だったが、こういうノリの良さは素直にうらやましいと思う。


 そして今は、彼らの力を借りなくてはならない。


「急に頼んですみませんが、北西部第二防衛線の近くまで運んでください。行けるところまでで構いませんから」

「よっしゃ、乗れ! 途中色々ぶつかるかもしれんが、頑張って耐えろよ!」

「分かりました、お願いします!」


 大翔たちは、食材用の荷車でひたすら丘を運ばれていく。もはや暴走といっていいほどスピードが出ていたので、灯の肩を抱えながら大翔は台車にしがみついた。ずいぶんおかしな格好を眺めていぶかる者の顔もちらっと見えたが、すぐ通りすぎるので気にもならなくなった。


 急に車が止まった。大翔たちは前につんのめるようにしてよろけ、かろうじて顎を強打するのを避ける。


「着いたぞ。あとは起伏が激しくなってきたから無理だ。行け!」

「ありがとうございました!」


 イラクに背中を小突かれ、大翔はよろめきつつも走る。返答する余裕はなく、ただ遠ざかっていく調理兵たちの気配だけがあった。


 前方に行くにつれて、どっと煙と火薬の匂いが押し寄せてくる。やや出遅れたが、大翔と灯は防衛線までたどりついたのだ。前方に目を向けると、すぐに大きな熊の姿が見える。とりあえず、手近な防御壁の陰に二人は身を隠した。


「フロム様!」


 喜びをあらわにした兵たちが出迎えた。その視線を受けながら、灯は息を整える。


 また日が落ちてきて、時刻は夕方になり始めていた。その夕闇の中に、殺意をみなぎらせた熊の姿があった。すでに爪がはっきり見える距離まできている。


「メドー……」


 熊を見据えたまま、灯が低くつぶやいて腕を広げた。彼女の髪がうっすら赤く色づいていく。髪の中程まで赤く染まり、爪も伸びた。そして向こうが見えるほど透けてはいるが、炎の羽も顕現している。


 大翔はその姿を見て、綺麗だと思った。しかしそれは、いつも感じる殺気がその分足りないという証明でもある。


「最後まで保つのか……?」

「舐めるでない、そんなにヤワではないわ」


 フロムの口調と声が言う。こうなると、大翔はやや後方で見守るしかなかった。


 熊が吠える。前方にある物全てをなぎ倒しながら向かってくる巨体に、フロムが静かに手を伸ばした。


 彼女の指先に炎が宿る。渾身の力で放たれた矢が、空気を切り裂いてまっすぐにメドーの胴体へ飛んでいった。


 炎の矢が、強引に熊の体を貫く。飛び散った熊の体の破片が、空中に舞って血液の飛沫のように見えた。──だが、やはり大翔には、矢の突進の勢いがこの前よりも遅く感じられてならなかった。


 確認してみると、熊の体は大きく崩れていた。効いているが、まだ憎しみに満ちた目が消えていない。


 続けてもう一撃入れなくていいのか。気になっていたことを聞こうとした瞬間、灯の体がくずおれた。


「灯!」


 大翔は灯を見た。倒れた体はぐにゃりとしていて力が入っておらず、顔色も真っ白だ。わずかに胸元が動いて呼吸が確認できるのだけが、救いだった。


 やはり懸念していた通り、灯の体力はフロムを召喚してしまうとあっという間に尽きた。戦闘糧食を改善したとはいえ、やはり食べる量が普段に比べて圧倒的に少ないから、回復も不十分だったのだ。


 なんとか灯の体を支える大翔の耳に、兵士たちの悲鳴のような声が飛び込んでくる。


「おい、あれを見ろ!」


 彼らが指さす方に目をやると、遠方にぼんやりと大きなシルエットが浮かび上がっていた。丸い頭と耳の下に、極限までつり上がり、怒りに震える獣の目がある。大翔は直視できず、思わず目をそらした。


 一人の兵士が腰を抜かしたのを皮切りに、何人もが地面に力なくへたりこんだ。隠しきれない恐怖が伝染していく。


「馬鹿な、仕留め損ねたのか……」


 皆がとっさに灯の方を見る。大翔は彼女の体を抱えたまま、首を横に振った。


「疲労がひどすぎる。ここまでくるともう食べて回復するどころじゃない、休ませないと」


 大翔は現実的な判断を下すしかなかった。狭い防御壁の後ろに、みるみる絶望が広がっていく。


「どうするんだよ、最悪だ!!」

「いや待て。あいつも今の衝撃で、やられている可能性はないか?」


 分隊長らしき人間が待ったをかけ、緊張した面持ちでそろそろと前を見やった。しかしすぐに、諦めた様子で首を横に振る。


 一瞬相手にダメージは入っているが、まだメドーは消滅していない。まだ体勢を整えてはいないが、間もなく前線を崩壊させるには十分な一撃が来ると思っていた方がいいだろう。


 迂闊だった。フロムにあまりにも頼りすぎていた。それを悟った大翔の背中に、嫌な汗がわいてきた。


「あれだけ弱ってるなら、砲撃でなんとかならないんですか!?」

「……あの後方では射程外だ。一気に距離を詰めてこられたら、弾なんて当たるか分からない! そもそも人間がかなう存在じゃないんだ!!」


 大翔は唇を噛んだ。その時、抱えていた体が小さく身じろぎするのを感じる。見ると、灯が細く目を開けていた。


「すま……ない……もう一度……」


 灯がか細い声で言うが、すでにそれすら息があがっていた。吐き気をこらえているような様子だし、顔もまだ血色が戻っていない。


「無理だ、負担が大きすぎる! やったら本当にお前が死ぬぞ」


 大翔が言うと、灯は小さく息をこぼしてまた意識を手放した。それを確認して、大翔は俯く。

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