語り──会う

川本 薫

第1話 205号室

 晩御飯を食べた後、珈琲を飲んだせいだ、たまにある眠れない日、いや眠れる日でも誰に向かってか、1日の終わり、俺は話しかける癖がある。もちろん、独り言じゃない。声には出さない、心のなかで勝手にもう歯磨きをするのと同じぐらい語りだすんだ。今日は『彼女』について湯船につかった時点で誰かが俺の脳内で勝手に話し始めた。


 当時、彼女とは付き合って3年目ぐらいだったと思う。週末、いつものように俺の部屋にきて朝ご飯も食べずに10時過ぎだというのにふたりして布団にくるまったままだった。

「ねぇ、あの川沿いの業スー、行ったことある? パンと握り寿司が美味しいらしいよ」

 彼女のその一言で日曜日の昼ご飯は握り寿司に決まった。

 のそのそと起きてきた彼女が淹れてくれた珈琲だけ飲んでマンションの近くにある業務用スーパーまで川沿いの道を歩いていた。業務用スーパーの看板が見えてきて横断歩道を渡ってしまえばすぐに着くというときになって、

「あのマンション、出るんだよ」

と彼女が川沿いに建ち並んでいたマンションのひとつを指さした。

「出るって? 変態か? 」

「ぷっ、なにそれ? 変態はどこにだっているでしょ? 見えないだけで。違うよ、お化け、幽霊だよ。元カレと半年ほど205 号室で同棲してたんだけどね、本当に凄かったんだよ」

 俺は幽霊よりも彼女の口から元カレとか同棲って言葉が出たことにカチンときた。

「お前さぁ、幽霊なんておるわけないだろう? 頭、おかしくなってたんと違うか? 」

 吐き捨てるように彼女を見て言った。

「出た、出た、そういうところ!! 自分の興味ないことは全部すぐに否定するところ、そういう偉そうなところが大キライ!! 住んでみればわかるよ!! 本当に霊媒師を検索したほど凄かったんだから」

 彼女も俺に吐き捨てるように言って背を向けて来た道を戻っていった。俺は彼女を引き留めることなくそのまま横断歩道を渡って店の中に入った。店内は鬱陶しいほど客でいっぱいでやっとたどり着いた鮮魚コーナーで彼女が好きな鰤の握り寿司のパックとカップラーメンを2つずつ手にとってレジで割り箸をふたつもらって会計を済ませた。

 帰宅してドアを開けるとドア裏の新聞受けが開けられていて玄関のたたきには鍵が落ちていた。俺はその鍵を靴箱の上に置いた。

 エコバックから少し崩れた鰤の握り寿司を取出してそのひとつを冷蔵庫の中に入れて俺はお湯を沸かして1人分の寿司とラーメンを食べた。

 夜になっても連絡すらないし俺もしなかった。そんなくだらないことで別れるなんてこの日は思いもしなかった。俺はまた晩御飯に昼間と同じ鰤の握り寿司を食べた。評判通り、臭みもなく、実家で年末年始に食べた鰤の味を思い出した。それから、1日、1週間、1ヶ月が過ぎてもお互い連絡すらせず、別れたんだな──と夜になるともう使うことのない彼女の枕が目についた。


 11月に入ってポストに管理会社からマンションの賃貸契約更新の封書が届いた時、俺は彼女が元カレと住んでいたマンションの中へ入ってみた。ポストを見ると205号室と302号室の名前だけ白紙だった。恐る恐る階段をのぼって2階のフロアに行った。205号室のドアにはガス会社のカードがぶら下がっていた。なぜそうしたのか自分でもわからなかった。幽霊に興味はない。それでも俺は自分の否定したことをこの目で確かめたかったのかもしれない。俺はすぐにマンションの玄関、入口のガラスに貼ってあったシールに記載されていた管理会社へ電話をした。

 ──幽霊が出るという元カノが元カレと過ごしていた部屋を借りるなんて自分でもどうかしてる──

と思いながら。


 その部屋に引っ越したのは12月23日だった。8畳のワンルーム、2階だから日当たりがいいとも言えない。川が見えるわけでもなく、窓をあけても空を見上げなければお世辞でも綺麗な景色とは言えなかった。こんな狹いところでふたりで、いちゃこらしてたのか──と絨毯の上に寝転がって天井を見た時だった。一瞬、顔が見えた。知らない、見たことのない、少し癖っ毛の切れ長の目をした女の人だった。思わず目をそらすと袖をまくって見えていた腕には鳥肌がたっていた。起き上がってテレビを見ていると今度は誰もいない俺の隣に人の体温を感じた。

 それから不思議な現象は台風が少しずつ近づくみたいにやってきた。仕事から帰宅すると動かした覚えがないのに足場板で作った棚の上に置いていたテレビが棚ギリギリまで動いていたり。閉めたはずのカーテンが開いていたこともしょっちゅうだった。

 本当にやばいのかもしれない。

 だけど、よく耳にする『この世で1番怖いのは生きている人間の闇』その言葉を自分に言い聞かせて時には蛍光灯をつけっぱなしで寝た。

 貯金がないわけじゃないが、引っ越してすぐまた引っ越すのは金もかかるし、手続きも面倒だから。命にかかわらないなら幽霊と同棲するのもありか? そう思っていると今度は『あっ、あっ、』とか『ううう…… 』とどこからともなく声が部屋の中心から聞こえてきた。

 

 年が明けて会社の新年会で飲みすぎた夜だった。

「おい!! お前、お前のせいで俺は彼女と別れたんだからな。お前が悪さしなかったら、彼女が元カレの話なんかしなかったはずだ」

 俺は見る気もないのにテレビをつけて買う気もない加湿器を紹介していたテレビショッピングを見ながら声に出してみた。

「ゴ……ゴ……ゴ……」

「お前さぁ、もしかして、ゴメンって言いたいわけ? 」

 俺が聞くとテーブルの上に置いたタクシー代のおつりの小銭、10円玉がチリンと床に落ちた。そして同じようにテーブルの上に置いていたスマホの画面が急に光ったかと思ったらメモアプリが勝手に開いて文字が画面に表示された。

 ──イマナラマニアウ、カノジョハマヨッテイル、モトカレニワタシテハダメダ アノオトコハヨクナイ──

 「お前、彼女の今が見えてるのか? 」

 また小銭がチリンと床に落ちた。

 ──イケ──

 イケと幽霊が文字を打ち込んだ時間は夜更けだった。だけど今日は日付が変わってもう土曜日、彼女も仕事が休みなはず──と立ち上がろうとしたけれど迷うぐらいなら元カレへ行け、馬鹿が!! と俺は俺の中でまた悪態をついて座り込んだ。

 ──イケ──

 また文字が画面に現れた。

「はいはい、幽霊さんよ、そんなに応援してくれるなら行きますとも!! 」

 俺は立ち上がって財布とスマホをかけてあったショルダーバッグに入れてダウンを羽織った。靴箱の上に置いたままにしていた彼女から返された合鍵もダウンのポケットに入れた。

 外に出ると、ちょうど1台のタクシーがマンションの前に止まって支払中だった。そのままそのタクシーに乗るつもりで待っていると降りてきたのは彼女だった。

「なんで? 」

「なんで? 」

 彼女と俺の声が見事にハモった。

「俺は会いに行こうと思ったんだ」

 自分でもびっくりするほど素直に言った。

「ごめん。私は──まだ元カレがここにいると思って話をするつもりできた」

 彼女も容赦なしに自分の気持ちを言ってきた。

「悪い、今、205号室に住んでるのは俺だ」 

「はあっ? なんで? 」

「いや、幽霊の…… 」

「いるでしょ? 女の人が!! その人はね、元カレのことが大好きだったんじゃないかな? だから私が邪魔で別れるように仕向けたのかも」

 彼女の言葉を聞いた時、なんだろう? 彼女と幽霊、ふたりから振られた気持ちになった。

「元カレと何を話す? 」

「いないなら、もういいよ。同じだったんだよ。ああ言えばこう言う、みたいな感じで勢いで別れるみたいな。ちゃんとね、話してなかったんだ、元カレともあなたとも。だから、先に元カレにちゃんと話そうと思った」

「まだ好きです? とか」

「ない、ない、それはない」

「あのさ!! だったらさ、なんでこんな時間に来るわけよ? 元カレが『入れよ』って部屋に入れてその気があってもなくてもセックスして……って俺に流れが見え見えだ!! 」

「ふうっ……。なんであなたはそういうことを遠慮なく言うわけ? 自分でもよくわからないの!! 自分の感情が。誰が好きで誰が嫌いかも!! 誰が大切な人で誰と幸せになれるかもわからないの!! どうしても比べてしまうの。自分も他人も!! 幸せになりたいだけなのに!! 」

「その気持ちをそのまま彼に言えば? とにかくここにはいない。タクシーが来るまではそばにいる」  

「うん。あれ? なんだかお酒臭いね? 」

「ああ、新年会で久しぶりに飲んだから。しかし、こんな夜更けでも会いたくなったら会いに行くんだな? 」

「だね」

 人の手を掴んで階段を駆け上がったのはは初めてだった。死に向かうんじゃない、夜の向こうへ行くために俺は無理やり彼女の手を掴んで階段を駆け上がった。

 

 玄関のドアを開けると壁の中にすうっと消えてゆく女の人が見えた。


「ここは嫌!! 」

 彼女は顔色を変えて玄関からすぐに出た。

 そして、玄関を出た時、階段の方から誰かが歩く足音が聞こえてきた。

「あれ? ナホ? 何やってんの? なんでここに? 」

 彼女に向けて上の階へ上がろうとしていた男が声をかけた。

「引っ越し……」

「えっ? まさかナホ? ここに引っ越してきたとか? 」

「違う、あなたと話がしたくてここに」

 ふたりが話してるのを俺はゆっくりと玄関のドアを閉めたふりして聞いていた。

「誰と話してるの? こんな夜中に!! 」

 上階から降りてきたのは時々、朝すれ違うショートカットの小動物みたいな女性だった。

「ああ、友達だよ。こんなところで会うなんてびっくりして!! 」

「夜中よ!! 上まで声が聞こえる!! いい加減にして。それに寝ないで待ってたんだから早く部屋に戻って」

「じゃあ、ナホさん、また」

「さよなら」

 俺は上階からドアが閉まった音が聞こえたあと外に出た。

「大丈夫か? 」

「まさか、上に住む人と付き合い始めたから、ここを解約したわけ? 」

「俺に聞かれてもわからんよ。でも多分、そんな感じじゃないかな? 残念だな」 

 もう手を掴む気はなかった。

 事実は小説より奇なりとは、このことだ。彼女にとっての元カレと元カレ、元カレの今カノが一瞬でも遭遇するなんてある意味、奇跡の瞬間だった。

「帰るんなら、タクシー来るまで下で一緒に待ってやるよ」

 俺は玄関のドアを閉めた。

「ねぇ? 歩かない? 」

「歩く? 」

「川沿い」

「暗いし、寒いし、危ないぞ? 」

「だよね。いつかさぁ、コンセントみたいにピタリと気持ちが誰かと合うことがあるのかな? 」

「無理じゃない? 価値観が合えば合うで物足りなくなったり、わかりすぎて辛くなったりするんじゃないかな? 合わないのもまた苦みだけど」

「へぇ〜、なんか酔っ払うとそんなこと言うんだ? 」

「酔いはもう醒めた。気持ちだけが船酔いみたいにぐわんぐわん揺れてるけどな。あっ、そうだ、あの業務用スーパー、鰤の握り寿司、旨かったぞ、年末年始の味がした」

「ずるっ、食べたんだ? 」

「ちゃんとお前の分も買ってたけどな」

「ねぇ? うちに来る? 」

「なんで? 」

「わかったの。こうやって誰かと夜な夜な話がしたいんだって」

「元カノと友情ごっこをする気はないわ」

 タクシーがつかまるまで──、そう思って外に出た。彼女はもう一度、マンションのほうを見ていた。




 あの女の幽霊が住んでいたマンションは今でも家賃4万円で入居者を募集している。あれから何年だ? もうかなり時が経ったのにあの幽霊とあの夜の彼女のことは毎晩、眠る前に思い出していた。俺はあれから別の区にある新築のマンションに引っ越しをして相変わらず同じ会社で働き、同じような日々をただ崩れないように積み重ねていた。

 その日は珍しく定時で仕事が終わった。飲みに行かないか? 上司に誘われたけど断って帰宅途中、半額の弁当目当てでデパ地下に寄った。売り場をウロウロしていた時、

 「お寿司、奢ってよ」

 新しいパパ活の手法か? いきなりなんだよ? 俺が顔をあげると彼女だった。歳を重ねていたはずなのにかわってなかった。いや、多分、変わったことを俺が知らないだけだ。あの夜以来、俺は彼女と一切、会ってもないし、連絡を取り合ってもいなかった。

「お前? 」

「そう、私が『お前です!! 』」

「元気そうだな」

「あなたもね。ひとりでこんなとこ、うろついてるところを見るとまだ結婚はしてない? 」

「結婚どころか、お前と別れてから誰とも付き合ってない」

「へぇっ~もてないんだね? ねぇ、何食べるの? 寿司なら一緒に食べようよ」

 鰤の握り寿司のパックを手にしたからといってあの日がやり直せるわけじゃない。それでも3割引のシールが貼られた鰤の握り寿司をふたつ手にとってレジカゴに入れた。

「俺のところでよければ来るか? 」

「行くわけないでしょ!! 冗談だよ。元気でね」

 あの日と同じだ。俺はレジカゴに入れた握り寿司をひとつ売り場に戻そうとした。

「待って!! 」

「はあっ、何がしたいんだ? ナホ、お前!! 」

 彼女は何年経っても彷徨ってるようだった。

「まだ幸せ探し中か? 」

「壊しちゃった。幸せを探すどころか幸せな人の幸せを──」

「で、なんでここ? 」

「たまには美味しいものでも食べようと思って、美味しいものでも食べないとやってられないと思って……」

「だな。で食べる? 食べない? 」

「食べる」

 また俺はレジカゴに鰤の握り寿司をふたつ入れた。レジで割り箸をふたつもらって。あの日と違うのは彼女が隣でエコバックに寿司を入れたことだった。

 業務用スーパーの寿司は650円、デパ地下の寿司は3割引でも700円だった。

「この近くなの。うちで食べよ」

 デパートから外に出ると外はもう夜だった。大通りのイルミネーションの光を見ながら彼女の少し後ろを歩いた。

「ねぇ、あの幽霊、元気かな? 」

「お前さぁ、幽霊に元気ってなんなん? 」

「あっ、そっかぁ、もう病気になることもないんだね」

「それより、どうするんだ、俺と──」

「鰤の握り寿司を食べるだけ。でも、あなたはさ、鰤の握り寿司がタイムマシーンだと思ってるでしょ? 」

 変わっていないように思えた彼女は歩くのが随分と早くなっていた。街中のマンションが建ち並ぶ中にひっそりと建っていた一軒家、彼女はそこで足をとめた。

「ここだよ」

「一軒家? 」

「そう」

 それ以上は聞いてはいけない雰囲気だった。玄関の引き戸を『ガラッ』と彼女が開けた瞬間、彼女と暮らしていたであろう誰かの匂いがした。

 彼女はストーブをつけて、棚から急須と缶を取り出してお湯を沸かした。その所作すべてが俺の知らない彼女だった。少し薄暗い台所で温かい黒豆茶を飲みながら鰤の握り寿司を食べた。

「なんか変わったな」

「そうでもないよ。多分、この家がそうさせるんだよ。明日は仕事だよね? 」

「ああ」

「会えてよかった……って言っていいかな? 」

「言っていいもなにも、会ってこうして寿司を食べたんだからそれでいいんじゃないか? 」

 寿司を食べ終えて、プラケースを流しに置いて俺は椅子にかけたコートを羽織った。

 また、とかそういう言葉がない代わりに彼女は古い穴にいれる占いの文字のような鍵を俺に手渡した。それはおもちゃのように軽かった。


 玄関の靴箱の上に置いてあるその鍵を木曜日の夜になるとじっと見つめて夜な夜な考える。それがささやかな幸せだった。会社でそんなことを口にすれば鼻でわらわれてしまいそうだけれど、絶対に一緒に暮らさないとわかるから、会いたくなるのか、絶対に一緒に暮らさないとわかるから、会わないほうがいいのか、それともいつかまた俺が手を引っ張る日がくるのか、そうやって想う時間のすべてが俺に朝を連れてくるような気がして、気がつくと俺は誰かにそれを話したくなるんだった、よせばいいのに、と思いながら──語ると出会える気がして。

 

 
















 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

語り──会う 川本 薫 @engawa2023

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ