後日談第3話 幸せの味

 バスケットを持ったマルガリータが、いつも庭師ディアンと待ち合わせていた場所に現れたのは、ちょうど太陽が真上に昇った頃だった。

 執務室での戦いを完全勝利で終え、ディアンが庭園へと下りて来たのと、ほぼ同時のタイミングだ。


 ダリスはディアンに付きっきりで一緒に仕事をこなしていたから、恐らくアルフ辺りがディアンの行動を、アリーシアと連携したのだろう。

 相変わらず、表向きには完全に隠居状態のディアンには勿体ない位、優秀な使用人達が付いてくれたものだ。


 ディアンがマルガリータを唯一と思っている様に、使用人達もマルガリータがディアンにとって唯一だと、認めているらしい。

 ずっとそう思ってはいても、表立って「彼女しかいない」と言った事はなかったはずだが、使用人達のディアンの心情を察する能力の高さは、類を見ない。


(この協力的な体制は、正直有り難いから文句もないが……)


 マルガリータが、朝食を共にした時とほぼ変わらない姿で現れたのが、ディアンには少し意外だった。

 時間が欲しいと言っていたから、何かデート用に着飾ってくれるものなのだと、どこかで期待していたのだが、どうやら違った様子である。


(俺の為に着飾ってくれるかもしれないなんて、思い上がりも甚だしかったな)


 どんな姿でも可愛いと思うので、別に構わないのだが、少し寂しい気もする。

 思い返せば、マルガリータをオーゼンハイム伯爵家からまるで攫う様に連れて来てしまったから、ドレスや装飾品が少ないのかもしれない。


 以前、困った顔で「何もいらない」と断られてしまってから、ディアンから贈り物をする機会を失っていたのだけれど、今度改めて何か贈っても大丈夫だろうか。

 何を贈れば喜んでくれるのだろうと、悩んでいるディアンの姿を見つけたマルガリータが、小走りで近寄って来た。


 マルガリータは、たまにこういう令嬢らしからぬ行動に突然出るので、ハラハラする。

 嬉しそうに駆け寄ってくる姿が可愛くて、強く止められそうもないので、困ってしまう。

 転けたりしないように、こちらからも近付いて慌てて手を取ると、照れた様に頬を染めて笑うから、ただのエスコートさえ特別な気にさせてくれる。


「お待たせしてしまって、ごめんなさい」

「いや。俺も、今出て来た所だ」


 ハーブ園の中に、小さなテーブルと椅子が用意されていた。

 そこへ誘導して椅子を引くと、マルガリータは「良かった」と笑って、テーブルにバスケットを置き、素直に腰掛ける。


 ディアンも椅子に座りながら、バスケットに視線を移すと、マルガリータがそれを空けてくれた。

 少しだけ身を乗り出して中を覗き込むと、そこにはサンドウィッチとクッキーが綺麗に並べられているのが見える。

 驚いて顔を上げると、マルガリータがはにかんだ微笑みを浮かべたまま、小さく頷く。


 昨日、帰りの馬車の中でぽつりと呟いた「俺のためにクッキーを焼いて欲しい」という望みを、マルガリータは早速叶えてくれようとしていたのだ。

 時間が欲しいと言ったのは、自分を着飾る為ではなく、ディアンの為にクッキーを焼きたかったからなのだと、やっと気付いた。


「この間の、デートの続きをしましょう?」


 湖のデートの続きなのだから、マルガリータがクッキーを焼いてくるのは当然だと、そう言ってくれている。

 バスケットから出されたサンドウィッチとクッキーを、二人でテーブルに並べていると、アリーシアがポットとカップを持って現れた。

 給仕してくれるのかと思いきや、それらをテーブルに置いて微笑み、さっさと退場していく。

 どうやら庭園にいる間は、二人きりにしておいてくれる心積もりらしい。


(朝食時に、大人げなく拗ね過ぎたかもしれない)


 自分の子供っぽさを反省していると、マルガリータがポットを手にしようとしていたので、慌てて横からそっと取り上げる。

 不思議そうに顔を上げたマルガリータも、可愛い。


「ポットは重たいだろう。俺が淹れる」

「重たいなんて……ふふ。では、お願いします」


 マルガリータに、少しでも重いと感じる物を持たせたくないし、あの湖で紅茶を用意したのはディアンだったから、なぞってやり直したい気持ちもある。

 重たくなんてない、と言おうとしていたマルガリータにもそれが伝わったのか、すぐに笑って給仕の権利を譲ってくれた。


 小さなテーブルに、二人分の昼食セットが出来上がり、キラキラとした太陽の元、ハーブの香りに包まれた庭園には、楽しそうに笑うマルガリータとそれを正面に見つめる権利を得た、ディアンが居る。

 押し込められた牢獄だと思っていたこの屋敷が、マルガリータが傍にいてくれるだけで楽園に変わっていくのを感じた。


「では、頂こうか」

「はい」


 早くマルガリータの作ってくれたクッキーを頬張りたい気持ちが湧き上がるが、まずは昼食から始めないと、朝食の時の様に「ちゃんと食事をしろ」と、怒られてしまうかもしれない。

 怒られるだけなら構わないが、優しいマルガリータは本気で心配してくれるから、心労をかけないためにも、これからはちゃんと食事をしようと決意している。

 一口サイズのサンドウィッチをまずはつまんで、口に入れた。


(マリーが傍にいてくれる。それだけで、食事というものがこんなにも美味しく、楽しいものに変わるのか)


 食事なんて、生き続けるために必要なだけの行為だと思っていた。

 気持ち一つ変わるだけで、何もかもが大きく変わるのだと知る。

 世界はまだまだ驚きに満ちていて、それに気付けたディアンは幸せだ。


 マルガリータも、ディアンと同じように感じてくれていたなら嬉しい。

 そう思いながら視線を上げると、サンドウィッチを手にも取らず、少し不安そうな表情でディアンをじっと見つめる瞳とぶつかった。


 何も変わった事はしていないはずだし、普通に食事を口に運んだだけのはずだが、なにかマルガリータを困らせる行動でも取ってしまったのだろうか。

 不安は早めに取り除くに限ると、ディアンはここ最近で学んでいる。


「マリー、どうかした?」

「あの……お味は、如何ですか?」

「とても美味しいが……」

「あぁ、良かった!」

「?」


 滅多にきちんとした食事として出された物を口にはしていないが、バルトの作る料理が不味かった事はない。

 胸をなで下ろしているマルガリータの様子を不思議に思っていると、種明かしをする様に、マルガリータが口を開いた。


「今日はクッキーだけではなくて、そのサンドウィッチも私が作ったんです。バルトさんにレシピを教えて貰いながら作ったので、食べられない程の変な味になっていない事はわかっていたのですが、やっぱり不安で……」

「これを全部、マリーが?」

「バルトさんやアルフさん、アリーシアにも手伝って貰ったので、胸を張って全部一人で作りましたとは、言い切れませんけど」

「俺の、為に……?」


 もちろんだと言う様に、こくりと頷くマルガリータの姿を前に、感動で言葉が続かない。

 前回、クッキーを自ら焼いてくれただけでも驚いたのに、今回は昼食までマルガリータ自身が用意してくれたと言う。

 マルガリータを幸せにしたいと思っているというのに、幸せを貰っているのはディアンばかりだ。


 それに、「厨房は俺の城だ、触るんじゃねぇ」と常々豪語しているバルトが、貸したり手伝わせるのではなく、その主の座を明け渡す等あり得ない。

 それだけバルトは、マルガリータの事を気に入っている、いや料理に関わる者として信頼していると考えて、間違いないだろう。


 以前、貴族の食事のあり方についてマルガリータが話していた事が、料理人であるバルトの心に刺さったことは想像に難くない。

 だが、伯爵令嬢として育ってきたはずのマルガリータに、お菓子作りだけではなく料理の心得まであるとは、さすがに予想外だった。


(それは、気に入られるはずだ)


 しかも、常々バルトの助手として厨房に立っているアルフだけではなく、アリーシアまで止めに入るどころか手伝ったというのにも、驚く。


(みんな、俺を差し置いてマリーと仲を深め過ぎなんじゃないのか? やはり今のところ、俺が一番マリーとの距離が遠い気がする……)


 勝ち誇った顔で「正体を隠して、避けたりするからですよ」という耳に痛い言葉が、使用人達の声で次々と頭に響いてくるようだ。

 正直、庭師と間違われていた時の方が、まだ心の距離が近かった気さえする。


(……自業自得、だな)


「やっぱり、あまりお口に合いませんか?」

「まさか! マリーが作ってくれた事実が嬉しすぎて、噛み締めていただけだよ」


 考え込んでしまったディアンの態度に、再度不安を覚えたのか、そっとサンドウィッチをテーブルから下げてしまおうとするのを止めて、二つ目を口に放り込む。

 言われてみれば確かに、いつも食べるバルトの味とは少し違う気がする。


 違うからといって決して不味い訳ではなく、優しさが染み込んでいるようで、心まで温かくなる味だった。

 愛情が籠もっている気がする。つまり、とても美味しい。

 一気に口の中に詰め込んでしまったディアンの姿に、マルガリータはほっとしたようにくすりと笑って、紅茶を勧めてくれた。


「そんなに慌てなくても、沢山ありますから」

「マリーが料理が得意だなんて、知らなかった」

「……最近になって目覚めたんです。作ってあげたい方も、出来ましたし」

「それは、俺が自惚れても良い話だろうか?」

「はい。良い話、です」


 恐る恐る問いかけると、即答が返ってきて自然と頬が緩む。

 笑顔以外の表情を忘れかけた頃、マルガリータがクッキーを一枚つまみそっとディアンへと差し向けてきた。


 サンドウィッチの美味しさは堪能したし、クッキーも早く食べて欲しいのだと理解して「ありがとう」とそれを受け取ろうと手を伸ばしたのだが、ひょいと引っ込められてしまう。


(食べて欲しいんじゃないのか……? 俺は早く食べたいのだが)


 しぶしぶ手を引くと、再びクッキーを持ったままのマルガリータの手が伸びて来た。


「マリー?」

「ディアン、あーん」


 にこにこ笑顔で、マルガリータがディアンに口を開けろと促してくる。


(これはあれか、手ずから食べさせてくれる……という、事だろうか)


 ディアンから触れると恥ずかしそうにする癖に、マルガリータはこういう行為は、自然と出来るらしい。

 マルガリータの恥ずかしがる基準は、なかなかに読み辛い。


 食事をおろそかにしている事に大層お怒りの様子だったから、恋人同士の触れ合いと言うよりは、単に餌付けしようとしているのかもしれないと思わなくもない。

 だがそれはそれで、マルガリータから積極的に構って貰えそうな案件なので、ちょっと嬉しかった。


 マルガリータは時々、やけに令嬢らしからぬ、平民に近いとも思える行動を取る事がある。

 それはそれで可愛いし、別にディアンはマルガリータが令嬢だろうが平民だろうが構わない。

 ディアンの為に何かしようとしてくれる、その姿だけで満たされるから、行為自体はどうでもいいのだけれど、どこで覚えてきたのかは多少気にはなっている。


(せっかくだから、マリーごと頂くよ?)


 にやりと笑って、ぱくりとマルガリータの指先ごとクッキーを口に含む。

 手を引かれてしまうかと予想していたのだが、驚いたマルガリータは手を振り切るどころか、顔を赤くして固まってしまった。

 それならばと、口内のクッキーをゆっくり租借して飲み込んでから、再び固まったままそこにある手を引いて、指先にキスを贈る。


「うん。とても美味しい」

「ディディディ……っ、ディアン!」

「クッキーも、君もね」

「急に、こんな事……っ」

「今までは、色々と我慢していたからね。それに、食べさせてくれようとしたのは、マリーの方だよ?」


 今までは頭を撫でる程度のスキンシップしかして来なかったから、マルガリータからすれば、突然の過剰な触れ合いに感じるのかもしれない。

 けれど、ディアンからしてみれば、やっと手が届く距離で隣に居ることを許されたのだ。


 ディアンよりも使用人達との距離が近いことを知って、焦っていないというと嘘になる。

 だが、結婚まで承諾してくれたのだから、恋人同士としての多少の触れ合いは、受け止めて欲しい。


(正直、ずっとマリーをこの手の中に、閉じ込めておきたい位なのに)


「それは、そうです……けど」

「こういうのは、嫌?」


 マルガリータが嫌がる事を、するつもりはない。

 今よりもっと仲良くなりたいからこその愛情表現なのに、自分の気持ちを押し付けて嫌われてしまっては、本末転倒だ。


「あの、嫌……ではないのですけど。慣れていなくて、どうしていいかわからないと言いますか……もう少し、手加減して下さい」

「わかった。じゃあ、少しずつ……ね」


 真っ赤になって訴えてくるマルガリータの言葉は、決して拒否のものではなく、思わず抱きしめたくなる。

 手加減しろと言われた矢先に暴走している場合ではないので、ぐっと衝動を抑えつけてふわりといつものように頭を撫でると、ほっとして気持ちよさそうに身を委ねてくれるから、またすぐにぐっと腹に力を込めて自制する羽目になった。

 マルガリータのペースに合わせてあげたい気持ちと、溢れんばかりの自分の中の欲望がせめぎ合う。


「身体が勝手にびっくりしてしまうのですけど、ディアンに触れられるのは凄く……その、好き……なので。ゆっくりお願いします」

「あぁ、もう! 俺のマリーが、可愛すぎて辛い」

「ディアン、どうかしましたか? 私、何か変なことを言ってしまいました?」


 思わず天を仰いだディアンに、マルガリータが焦っている。そんな姿も可愛い。


(今までずっと、理不尽な運命しか与えてくれないと恨んでいたはずの神に、まさか感謝する日が来ようとは……)


 マルガリータの存在は、それだけディアンの今までを、吹き飛ばしてしまう位に大きい。

 ディアンが存在することをただ認めて、傍に居てくれるだけではなく、愛してくれる。

 それは、ディアンがどんなに追い求めても、決して手にする事の出来ないはずのものだった。


 マルガリータは、それを当然の事の様に受け止めてくれる。手を取って笑ってくれる。

 生まれた時から不吉の子と忌み嫌われ、蔑まれて来たディアンにとって、それがどんなに特別な事か。

 きっと幸福を与えてくれているマルガリータ自身には、わからない。


「マリーが傍にいてくれる幸せを、噛み締めていただけだ」

「ディアンを幸せにする事が、私の役目ですから。そう感じてくれていたのなら、嬉しいです」


 ふわりと笑うマルガリータは慈愛に満ちていて、ディアンはもう何度目になるかもわからない自制力を全力で呼び起こしながら、強請って再びマルガリータの手からクッキーを食べさせて貰った。

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