第8話 貴族の食事事情
「マルガリータ様、昼食をお持ち致しました」
「あ、はい。どうぞ」
アリーシアの声に、もうそんな時間なのかと驚く。
両手を上げて大きく背伸びをすると、確かに長い時間同じ体勢だった身体が解れるのを感じた。
結局、この世界が真奈美の知る乙女ゲームの世界でほぼ間違いない事と、そして今はシナリオ通りに滞りなく進んでしまった事により、ゲーム期間が終わってしまった時間軸だという事だけしかわからなかった。
それだけ半日で整理できたのならば、まずは良しとしてもいいのかもしれない。
何にせよ、これから奴隷として生きていく決意を固めたマルガリータに一番必要な、「ここは一体誰の屋敷なのか、何故客人として扱われているのか」という事については、見当が付かないままだ。
ヒロインでもない、ただの一ルートの悪役令嬢が辿る末路なんて、ゲーム内ではさらりと流されるのは当然だ。
なぜなら、プレイヤーが見たいのは、ヒロインが幸せになる未来だけなのだから。
(とりあえず、仮面の男はよくわからないけれど、使用人達は優しく接してくれているのだし、覚悟していた扱いより遙かに好待遇だもの。しばらくここで頑張ってみよう!)
「よし!」と気合いを入れたのと、アリーシアとバルトが、昼食の乗ったワゴンを押して部屋へ入ってくるのは同時だった。
背を伸ばすと同時に大きく掲げた手を握りしめて、元令嬢らしからぬ大の字で気合いを入れているマルガリータの姿を、二人がばっちり目撃してしまうのは当たり前である。
どうぞと許可を出したのはマルガリータ自身なのだから、目撃した二人は悪くない。ぽかんとするアリーシアも、笑いを堪え切れていないバルトも、悪くはない。
今は奴隷で、前世はただの会社員でも、この世界で十七年間伯爵令嬢として生きて来たマルガリータとしては、恥ずかしすぎる状況だっただけ。
いや、奴隷でも元平凡な会社員でも、大の字で空高く拳を掲げて気合いを入れているところを見られるのは、普通に恥ずかしい。
つまり、マルガリータが迂闊だった。
(ここは、何事もなかったように話を進めよう。そうしよう)
「あ、ありがとうございます。美味しそうですね」
出来るだけ自然な動きを心がけて両腕を胸の辺りに降ろし、両手を組んで視線をワゴンに移してみるが、バルトが笑ったままなので、全く誤魔化せてはいないのは確実だった。
けれどアリーシアは「何も見なかった事にして下さい!」という、マルガリータの無言の訴えを聞き入れてくれた様だ。
「準備致しますね」
すぐに笑顔を取り戻して、テーブルに料理を出すように指示しながら紅茶の用意をする姿は、メイドの鑑だ。
マルガリータの実家では、料理長は料理を作るまでが仕事で、給仕は従者やメイド達の仕事だった。
使用人の居る屋敷ではそれが普通のはずだけれど、朝食に続き昼食も料理長であるバルトが運んで来た所を見ると、ここではその辺りの棲み分けは緩いのかもしれない。
アリーシアも、料理については手伝わず紅茶を入れるのに集中していて、ごく自然な事のように給仕を任せている。
使用人の数が少ないのもあるのだろうが、バルト自身が率先して自分で作った料理は、自分で出したいタイプなのかもしれない。
テーブルについたマルガリータの目の前に置かれたのは、可愛らしい花柄のお皿に乗ったサンドウィッチ。
マルガリータは、その具に朝食で見かけた肉や魚、サラダ等が挟まれている事に気付いた。
「これ……!」
驚いて顔を上げると、バルトが笑顔でパチンとウィンクを返してくれる。
「ダリスと私は、止めたんですけどね」
呆れた様に言いながらも、そっと紅茶を差し出す動きは滑らかで、その表情は優しい。
アリーシアが、本来なら無視して良いはずのマルガリータの希望を、ちゃんと伝えてくれた事に感謝する。
そして、反対されながらも、朝食の残りを使ってサンドウィッチを作ってくれたバルトにも。
「いただきます」
ナイフとフォークも用意してくれてはいたが、マルガリータの口の大きさや食べる量に合わせたように一口サイズで作ってくれていたから、それらを使わずにそっと指で摘まんでパクリと口に入れる。
今のマルガリータは、伯爵令嬢じゃない。
それならば食べ方のマナーよりも、より美味しく食べられそうな方を優先したい。
アリーシアが驚いている横で、バルトは「だよな。絶対その方が美味いよな」と、うんうん頷いていた。
口に広がる肉の旨味と、優しいソースの味に思わず頬が緩む。
小さなサイズの中に、目一杯美味しさを閉じ込めた出来映えで、お腹が空いている云々を抜きにしても、充分すぎるほどに美味しい。
(見た目は、まるで近所の食堂のおっちゃんみたいなのに、腕前は高級料理店の一流シェフって感じだから、ギャップが凄い)
次々と摘まんでは、口に放り込む。途中で気付いたが、一つとして同じ具材や味がない。
それだけ、マルガリータの為に朝食を沢山作ってくれていたからであり、それ以上のアレンジ力をバルトが持っているという証でもある。
奴隷として売りに出されるまで、ほとんど碌な物を口にしていなかった上に緊張も相まって、全くと言っていい位に食べられなかった朝とは違い、少し胃に食べ物を入れた後に色々と思考をまとめて落ち着く時間を貰え事で、マルガリータの心と体は随分楽になったらしい。
それに加えて、マルガリータが朝食を残したことを気にしていると、察してくれたのだろう。
無理せずに食べ切れそうな、ちょうど良い量を運んできてくれたらしい。
本当に、細かい配慮が出来る使用人達ばかりで感心する。
おかげでマルガリータは、出された全てを美味しく食べきることが出来た。
「ご馳走様でした」
「お気に召して頂けたかな?」
「はい、とっても!」
「嬢ちゃんの舌に合ったなら、良かったよ」
「バルトさんの腕は、本当に素晴らしいです」
「そりゃ、光栄だ。俺も嬢ちゃんの事、すげぇって思ったぜ」
「え? 私、ただ食事をしただけですけど……」
「朝食を他の料理に作り替えて欲しいっておねだり、こいつは効いたよ」
「せっかく凄く美味しく作って貰った物を食べきれなかったのが、悔しかっただけです。無理を言ってすみませんでした」
「無理だなんて思ってないさ。俺の腕を信じてくれた証拠だろ? 普通の貴族のお嬢ちゃんなら、例え全く同じ物を食べたくても、もう一度最初から作れって言うもんさ」
今のマルガリータはもう貴族ではないけれど、バルトの言いたい事はそういう事ではないのだろう。
今がどうであれ、貴族の令嬢として育ってきた者ならば、残した食事など捨ててしまうのが普通で常識で、他の料理に作り替えるなど思いもよらないはずだ。
例えそういう方法があるのだと知っていても、再び自分の目の前に出される等、言語道断だろう。
そして、一度自分のために使用された高級食材だというが故に、残り物だとしても使用人達の口に入る事さえ良しとしない。
マルガリータは、奴隷に堕ちて底辺の者達がどんな食事を取っているかを目の当たりにしたから、この貴族の無意味なプライドが、どれだけの人を不幸にしているのか身をもって体験して知っている。
だが、それを実感する以前から、この風習に関しては大いに疑問を持っていたのだ。
毎食、食べきれないほどの量の食事を作らせ、ほんの一口ずつしか手を付けずに下げさせる事も多い。
時には、一切手を付けずに終わってしまう料理さえある。
それはマルガリータが朝食の時に体験したように、接待する相手の好みがわからず全てを網羅させなければならない時もあれば、主人があれもこれも食べたいと我が儘を言うこともある。
これらを作るために、料理人達がどんな努力をしたかも考えず、同日中にでさえ同じ物を出すなどあり得ないと、即時廃棄させるのだ。
残りを、使用人達が食べるというのならまだ良い。
残飯処理の様で気分の良いものではなくとも、使われている食材は最高級だし、主人のために振るわれた料理人達の確かな腕もある。
口を付けていない物だけでも相当数になるのだから、それだけを選り分けて少しでも手を付けた物は捨てたとしても、使用人達の腹は満たされるだろう。
けれど、身分の上下に拘りが強すぎる貴族達は、例えそれが自分たちの残した物であったのだとしても、口を付けなかった物なのだとしても、自分達専用に用意された物だという所に重点を置く。
結果、もったいなさ極まるレベルで、貴族の食卓を彩る料理の数々は、食材やそれを作った人々の苦労や犠牲になった動物達は、誰の胃を満たすこともなく捨てられてしまう。
一生懸命作った料理を、苦労して集めた高級食材の数々をゴミ箱へと入れながら、冷めた食事を取らねばならない使用人達の心境は、いかばかりか。
マルガリータの実家の使用人達は、優秀な人物ばかりだったから、マルガリータの前ではそれを不満だと口や態度に出す者はいなかった。
きっと、他の貴族に仕える使用人達も同じ様なものだろう。
けれど幼い頃、いつも笑顔を向けてくれているメイド達や料理人達が、無表情で淡々と廃棄作業をこなしている場面を見てしまったことがあり、マルガリータはそれがずっと気になっていた。
ある時、料理長にこの事実を聞いたときはひどく驚いたものだ。
貴族のあり方としてはそれが普通だとされていたから、当時のマルガリータには、出来るだけ残さないように食べる事くらいしか、その後出来ることはなかった。
けれど、この常識毎変えないといつか巨大なしっぺ返しが来るような、そんな予感がして震えた記憶がある。
貴族が、お金を沢山使う事について否定はしない。
ある意味、贅沢に使って貰わなくては、経済が回らないこともわかっている。
例えば、社交界が開かれる度に新調される、女性のドレスやアクセサリー。
無駄に思えるかもしれないが、それらを扱う者達にとっては給金として生活費に還元されるし、新しい流行を生むことで技術の向上もあり得るだろう。
お金を使うことは、悪ではない。
けれど、使い方の是非は問われるべきだと思う。
「よくわからないプライドを通すより、同じ物でも笑顔で食べられる方がいいに決まってます」
「そりゃあいい」
思ったままを言っただけなのだが、バルトは驚いた様に目を見張った後、本当に嬉しそうに笑顔を見せてくれた。
きっとマルガリータのような貴族の娘が、自分の作った料理を無駄にしたくないと考えている事こそが、嬉しかったのだろう。
今のマルガリータは貴族ではないけれど、つい先日までは本物の伯爵令嬢ではあったのだし、この考えは庶民的な前世の真奈美の考えだからではなく、貴族だったその頃から引き継がれたものだ。
むしろ真奈美の思考では、貴族の食事事情は特殊すぎて実際の所よくわからない。もったいなとは、感じるけれど。
だから、そういう思考を持つ貴族がいるのかもしれないと、バルトが嬉しく感じてくれたのなら、それはそれでいい。
「バルトさん、このサンドウィッチはまだありますか?」
「おう、まだ実は材料はたんまりあるからいくらでも作れる。朝食の感じから見て嬢ちゃんが食べられそうな量を作って持ってきたつもりだったが、足りなかったか?」
やはり予想通り、運んできてくれた量にも気遣いがあったのを知って感謝しながら、首を横に振る。
「いいえ、ちょうどいい量でしたから私はもう充分です。だからもしよかったら、残りは皆さんで食べてもらえたら嬉しいなって」
本当は、夕食にも更なるアレンジを期待したい所ではあった。
バルトの腕が確かなのはもう決定事項だし、どんな料理が出てくるのか楽しみでもある。
何よりまだ有り余っているだろう事は、朝食で用意されていた量が、黒仮面の男は外出していて食べるのはマルガリータしかいないとわかっていたはずなのに、テーブルいっぱいに様々な料理が並べられた時点で、気付かないわけにはいかなかった。
けれど黒仮面の男を気にしなくて良い昼食はともかく、さすがに帰宅するであろう夕食にまでそれを求める権利は、マルガリータにはない。
むしろ、昼食に我が儘を聞いて貰えただけでも奇跡だ。
ならばそれまでに、使用人達で消化してしまうのが、マルガリータが考えられる中で、一番経済的だった。
唯一の主人が不在の別宅、今屋敷に居るのは、貴族社会から少しだけ離れた者だけが、最小限の人数しかいない場所。
使用人達が、全員頷いてくれなければどうしようもないけれど、何故か皆が奴隷であるマルガリータを大切にしてくれていて、多少の我が儘なら叶えてくれそうなこの状況であれば、聞き入れられる望みなのではないかという気がする。
「さすがにそいつは、ダリス辺りがうるせぇからなぁ……」
「例えば、私がどうしてもと言ったならどうでしょうか?」
奴隷である自分と比べれば、別宅といえども貴族であろう主人の屋敷に仕える使用人達の方が、遙かに地位が高い。
何を馬鹿なことを言っているのだろうと、マルガリータもわかっていた。
けれど、現時点では何故か結構大事な客人として扱われているので、それを逆手にとって押し通してしまえる予感もする。
黒仮面の男が帰って来て、マルガリータは奴隷だと正すまでに、皆の腹に収めてしまえば、もう元には戻せないし捨てることも出来ない。
後は、奴隷の分際で我が儘を言ったマルガリータが、怒られれば済むだけの話だ。
「まぁ、それなら何とか言いくるめられるか。俺としても捨てられちまうよりは、仲間に食って貰える方が何百倍もいい」
「ですよね。美味しいものは、皆で分け合った方が、もっと美味しいに決まってます」
「……なんつーか、嬢ちゃんは旦那様と似合いだな。こりゃあいいわ」
「はい?」
話の流れが急激に変わったような気がして、首を傾げるマルガリータの前で、バルトとアリーシアが深く頷き合っている。
そして、二人から優しい眼差しを送られた。
この屋敷の使用人達には、時折この目をされるのだが、理由がいまいちよくわからない。
「嬢ちゃんの心遣い、確かに受け取ったぜ」
首を傾げたままのマルガリータに対してパチンとウィンクをし、バルトは食べ終わった皿を片付けると、食器と共に部屋を出て行った。
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