第5話 温かい食事

 結果を端的に言うならば、昨夜は何もなかった。

 「何も」という以前に、マルガリータを買ったあの黒仮面の男は、寝室に現れもしなかった。

 そして何と、既にこの屋敷内にさえ居ないと言う。


 不安を胸に抱え、全く眠れないまま朝を迎えたマルガリータの元にやって来たのは、昨日と同じメイドだった。

 呆然としている内に使用人の服ではなく、貴族の令嬢が着るつまりはマルガリータの着慣れた、夜会用のコルセットで締め付ける様な苦しさとの戦いではなく屋敷内用ではあるけれど、上等のドレスに着替えさせられ、何もなかったが故に乱れもしていない髪を結い上げられ、薄く化粧までされて、寝室から連れ出される。


「申し訳ございません。旦那様は、お出かけになりました」


 連れ出された先、一階の主人用の広い食堂で、綺麗な角度のお辞儀をしたまま主人の不在を告げたのは、昨日玄関先で出迎えた使用人達の中心にいた年長者だ。

 あんなに悩んで覚悟を決めて、迎えたこの屋敷での最初の夜。

 何もなかった事に安心したのと気が抜けたのと、そして何より戸惑いで困った顔しか出来ないマルガリータを、使用人達は昨日と同じく、何だか優しい表情で出迎えてくれた。


(やっぱり、歓迎ムードを感じるんだけど……何故に?)


「お寂しい事とは存じますが、本日は我々がお相手させて頂きますので、ご容赦下さいませ」

「え? いえ、そんな事はありませんから……お気になさらず」


 マルガリータの困惑の声に顔を上げた年長者の使用人は、本当に申し訳なさそうな表情をしていて、昨日からずっと続いている頭の中の疑問符の数は、増加の一途を辿っている。


(あの男が出かけてると、どうして私が寂しいって話になるの? 確かに知らない場所だし、知らない人ばっかりに囲まれてるから不安ではあるけど……あの男も知らない人だし! むしろ、貞操の危機しかないし!)


「私はこの屋敷を任されております、執事のダリスと申します。そしてこちらが……」

「今後、マルガリータ様のお世話をさせて頂きます。アリーシアと申します」

「料理長のバルトだ」

「アルフです。主に旦那様の従者をしておりますが、屋敷内に居る間は、どんなご用でもお申し付けさい」


 昨日から、マルガリータの世話をしてくれている同年代の女性がアリーシア、その横に体格が良く体育会系の男性が料理長のバルト、そして昨日馬車の従者をしていたマルガリータよりも年若そうな青年がアルフと、それぞれ名乗る。


「こちらの三名の他に、統括メイドと庭師の二名がおります。今は所用で外しておりますが、折を見てご紹介させて頂きます。旦那様があまり人を屋敷に入れる事を良しと致しませんので、少人数故に行き届かない事もあるかもしれません。ご容赦下さいませ」

「え、あ……はい。よろしくお願い致します……?」


 マルガリータの挨拶が、疑問系になってしまったのは、許して貰いたい。

 自己紹介をされただけなのだが、今のマルガリータの状況に与えられるべき情報内容と、あまりにもかけ離れていて上手く入ってこない。

 よくわからないまま、首を傾げながらもそう返事をしたのは、真奈美の社会人として過ごしてきた反射的なものだったと言って良い。


 短かったとはいえ、慣れない奴隷生活からの、昨夜の徹夜による寝不足。

 頭が上手く働かないのはそのせいなのか、それとも予想外の状況に混乱すると通常でもこうなるのか。

 恐らく両方が重なり合って、結果真っ白になってしまっているマルガリータは、じわじわと湧き上がる疑問を口に乗せる間もなく、流れるように豪華な椅子に座らされた。


 どう見ても、奴隷が使って良いテーブルではない。

 そこにバルトとアルフが、どんどん料理を運んで来る。

 朝食だからなのか、はたまたこの屋敷のスタイルなのか……使用人の数が少ないと言うから、コースのように少しずつ出すのが難しいのかもしれない。


 止まることなく運ばれてくる料理に、マルガリータは若干引き気味になる。

 最終的に、十人は軽く座ることが出来るであろう広いテーブルの約三分の一を使って、マルガリータの実家の朝食よりも……いや、もしかしたら夕食よりも豪華な品々が並んだ。

 とても、一人で食べきれる量ではない。


「お好みを伺っておりませんでしたので、色々と取り揃えさせて頂きました。どうぞお召し上がり下さい」


 どうやら、全てを運び終わったらしい。

 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、バルトは「どうぞ!」とばかりに両手を広げた気軽な様子で、食事を促してくる。


(もしかして、使用人のみんなと一緒に食べるとか……じゃないわよね、やっぱり)


 きょろっと使用人達を見回してみるが、誰もこの広いテーブルの席に着くことはなかった。

 けれど皆が皆、マルガリータが並べられた料理を口にするのを、息を飲み緊張した様子の視線で待っている。


 もっと険悪な表情でもしていれば、毒でも入っているのかとか、不味い物を大量に与え我慢しながら食べる様子を嘲笑いたいのかとか、疑うことが出来なくもないけれど、昨日からずっと使用人達から好意的な表情と丁寧すぎる対応を見せられ続け居るマルガリータに、そんな卑屈な感情は沸く隙もない。


(もう、何が何だか全っ然わからないけど……後で考える!)


「いただきます」


 想像していた、本格的奴隷生活一日目とはずいぶん違う光景だったが、美味しそうな料理を目の前に、自分が思っているよりずっとお腹が空いていたらしいマルガリータの我慢は、限界だった。

 疑問が多すぎる故に、思考は食欲に追いやられ、マルガリータはゆっくりと食事を始める。


 テーブルには色々と取り揃えたと言うだけあって、朝食とは思えないなかなかヘビーそうな肉料理や、手が込んでいるのが見た目だけでもわかる物、芸術的な盛り付けの様々な料理が、所狭しと並んでいる。


(朝早くからこんなにも沢山の料理を、一人で用意してくれたのかしら? 凄く大変だったんじゃ……)


 料理長だと紹介されたのはバルトだけで、今ここにいる四人以外に使用人は後二人だと聞いた。

 つまり、料理を用意するコックは、基本的に彼だけと考えられる。

 他の使用人も手伝いはするのだろうけれど、それぞれ仕事があるだろう。

 この量と内容を、朝食として用意するにはかなりの時間と手間がかかるに違いない。


 だが、奴隷に堕とされてからまともな食事を取っていなかったマルガリータに、ガツンとした肉料理は無理だった。

 それどころか固形の物自体、まだ身体が受け付ける気がしない。


(申し訳ないけど、あんまり食べられないかも)


 大量に並んでいる料理と美味しそうな匂いに、思わず手当たり次第口を付けたくなってしまうけれど、マルガリータは冷静に自分の身体を分析して一番手元にあった胃に優しそうな野菜たっぷりのスープを選ぶ。

 ほぼ空っぽのお腹に、ゆっくり染み渡るような優しい味が広がる。

 シンプルだからこそ料理人の腕がわかる一品で、素材の味を余すことなく生かす上品なスープだった。


「凄く美味しい……!」

「そうかそうか」


 一見、料理人には見えない豪快な体つきのバルトだが、マルガリータの直球な感想を受け、嬉しそうにガハハと笑う姿は、やはり料理が好きな人なのだと思う。

 シンプルな中にこの繊細な味を出せるのだから、その腕は一級品なのかもしれない。


 正直、こんな町外れの別宅で働いているような人材ではない。

 舌の肥えているマルガリータだからこそ、王宮や大貴族の屋敷で働ける位の実力は持っていると判断出来た。

 しかも、これらの料理をほぼ一人で作ったのなら尚更。


(さすがに、こんなに大口開けて笑うような性格だと、王宮で働くのは無理かもしれないけど)


 スープの後に手に取ったパンも、焼き立てのふわふわだった。

 この世界ではパンが主食だから、保存の出来る固めのパンが主流のはずだが、マルガリータの為に、柔らかい物を焼いてくれたのかもしれない。


 料理の数々を良く見ると、マルガリータの座った場所から簡単に手の届く範囲には、スープや柔らかいパンの他に、口当たりが優しく柔らかい食べやすい料理ばかりが並んでいる。


(もしかしなくても、これは……敢えて、よね)


 色々と取り揃えた内の、どれが今のマルガリータに必要なのか、どれなら負担無く食べられるのか、そういう事まで考えられている。

 スープとパンを食べきって、マルガリータのお腹は既に限界だった。


 元々、そんなに多く食べる方ではなかったが、普段ならもう少し食べられる量が入らない。

 ここ数日、碌な物を口にしていなかったからか、更に胃が縮んでしまったのかもしれない。

 それでもスープとパンが美味しくて、腹八分目どころか十二分目位食べてしまった感覚だ。


(優秀すぎる)


 昨晩、マルガリータの世話をしてくれたアリーシアに思ったのと全く同じ感想を、バルトにも抱いた。


「ご馳走様でした」

「もう良いのか? 肉や魚は苦手か?」

「いえ。そうではありませんが、もうお腹がいっぱいで」

「随分少食だな。嬢ちゃん細すぎるし、もっと食った方がいいと思うぜ」

「バルト、気安過ぎるぞ」


 マルガリータを覗き込むバルトの首根っこを捕まえて、引き剥がすダリスの厳しい口調に慌てる。

 やはりどう考えても、マルガリータに対する使用人達の認識がおかしい。


「あの、私に過分な気遣いはいりませんから……」

「ほら、嬢ちゃんもこう言ってるじゃねぇか」

「「「バルト(さん)!!!」」」


 最初の挨拶は、随分畏まっていてくれていたようだ。

 水を得たりという様に、口調を崩して笑うバルトに対して、ダリスだけでなくアリーシアとアルフさえも同時にバルトを咎める。

 三人の息がぴったり過ぎて、マルガリータは何だかおかしくなってきた。


 ダリスは線の細い五十代位の紳士で絵に描いたような執事、という雰囲気だったのだが、バルトを軽く引っ張り上げたままお説教を続けようとしている所から見ると、実は見た目と違って結構な力持ちらしい。


「ふふ、ふふふふふ」


 この屋敷に連れて来られてから、いや突然真奈美の記憶が呼び覚まされ黒仮面の男に買われてから、もしかしたらマルガリータとしては、ゲーム本編時間軸の断罪イベントの時からずっと。

 張り詰めていた緊張や不安や、その他にもなんと言って良いかわからない感情、それらが胸でずっと渦巻いていたのが、ゆっくり解けていく。


(やっぱり人間、空腹でいるのは良くないし、敵意のある人に囲まれて過ごすのも良くないのね)


 まだ、マルガリータがこの屋敷でどういう状況に置かれているのか、全く理解は出来ていなかったけれど、笑えるだけの心の余裕が持てた事だけは確かだった。

 絶賛お説教され中の、ごつくて腕が良くて気が利いて明るい料理長には、マルガリータとしては感謝しかない。


「……嬢ちゃん?」

「ごめんなさい。何だか、気が抜けてしまって」

「お前がそんな態度だから、呆れられてしまっただろう」

「いえ、私は気にしませんから。ぜひ、そのままでお願いします」

「ですが」


 お説教の続きを再開しようとするのを先んじて制すると、ダリスは納得いかないという様子だったが、そのまま口をつぐんだ。

 思わず伯爵令嬢だった頃の癖で、目上の人を手で制するという動作をしてしまったが、どうやらダリスはそれを不快には思わなかった様で安心する。


 ちょうど良い機会かもしれないと考え、マルガリータはそのままずっと疑問に思っていた事を、直接聞いてしまうことにした。


「皆さんに、伺いたい事があるのですが」

「何なりと」

「奴隷である私に、どうしてこんなにも良くして下さるのですか?」

「「「「奴隷?」」」」


 今度は、四人の声が綺麗に揃った。

 何を言っているんだと言わんばかりの、不思議そうな表情もお揃いだ。仲が良い。


「私は昨日、黒仮面の男性に街で買われて、ここへ連れて来られた、ただの奴隷です」

「マルガリータ様は、私どもが旦那様よりお世話を言いつかった大切な方であり、我々にとって唯一の方です」


(何だか、思った以上に扱いが最上級!)


「……どなたか、他の方とお間違えでは?」

「いいえ。昨日旦那様は、マルガリータ様を示してはっきりとおっしゃったのですから。それに、私どもが旦那様の意思を、履き違えるはずがございません」


 はっきりと宣言するダリスに、他の三人も深く頷いている。

 どうやらこの屋敷の使用人達にとって、マルガリータは共に働く最下層の奴隷ではなく、主人の大切な客人という言わば真逆の存在として認識されているらしい。

 そしてそれが、主人である黒仮面の男の意思だと信じて疑わない。


 確かにそれなら、丁寧すぎる対応や上質な着替えと与えられる食事、何より通されたのが主人級の部屋だった事、全てに納得はいく。

 昨夜の風呂も、特に性奴隷として主人の前に出す為に清められたのではなく、通常の客人に対する扱いだったのだろう。

 だからこそ、使用人達の態度に違和感しかなかったのだ。


 けれど、マルガリータが奴隷として買われてこの屋敷に連れて来られたのは紛れもない事実であり、何故こんな扱いになっているのかは全く見当が付かない。

 マルガリータを買い、ここに連れてきた黒仮面の男に直接聞けば早いのだろうけど、あいにく朝食前に外出したと聞いたばかりだ。


(全く疑問が解決しない……!)


「マルガリータ様、少し休まれては如何ですか? 慣れない場所でお疲れでしょう」


 混乱で頭を抱えたくなるマルガリータを見て、アリーシアがそっと提案をくれる。

 恐らく朝の準備を手伝ってくれた彼女は、マルガリータが昨晩眠れなかった事にも、気付いているのかもしれない。


 真奈美の記憶が戻ってから、マルガリータの置かれている状況についてゆっくり考える暇もなかった。

 これ以上このまま使用人達に話を聞いても、マルガリータ自身の中で情報が整理し切れていないから、上手く処理出来るかもわからない。

 時間をくれるというのなら、それは大変有り難い提案で、マルガリータはこくりと小さく頷いてその気遣いを受け入れることにした。

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