第4話 お仕事の準備

「すぐにお風呂のご用意を致しますので、少々お待ち下さい」

「お風呂?」


 何とか足を踏み入れたのを確認して、部屋の奥にある言葉通りなら浴室があるのであろう場所へ消えていくメイドを目で追いながら、ふとマルガリータは自分の姿を見下ろした。

 黒仮面の男に買われるまで、ずっと暗い檻の中に入れられていたし、断罪イベント以降奴隷に堕とされた日からは日数が経っている。

 お風呂どころか身体をまともに拭くことも許されず、今まで着ていた質の良いドレスを剥ぎ取られ、代わりに与えられたぼろぼろの麻で出来た首から被るだけのワンピースは埃まみれで、正直言って今のマルガリータは少しどころじゃなくかなり汚い。


 奴隷らしいといえばらしいが、こんな綺麗に整えられた屋敷で働くのなら、多少は身綺麗にしておかなくてはならない、という事ならわからないではない。

 けれど、例えそれで風呂へ入ることを命じられるのだとしても、どう考えてもこの部屋の浴室を使うのはおかしい。


 真奈美の知るような、浴槽にゆっくり浸かって疲れを癒やす、日本タイプのお風呂が根付いている世界ではない。

 けれど、そこは日本の乙女ゲームらしく中世ヨーロッパ風のファンタジーかと思いきや、毎日お風呂に入る習慣がある水の豊富な日本文化が取り入れられていたりする。


 さすがに平民になると、毎日とはいかなくなるのかもしれないが、貴族の屋敷に仕える使用人が毎日シャワーを浴びるのはおかしいことではない。

 つまり使用人部屋にも、浴槽はなくともシャワー位なら、この屋敷レベルだと完備されているはずなのだ。


(お風呂掃除をさせる、って言い方じゃなかったわよね?)


 明らかに「お風呂入るのにお湯沸かしてくるから、ちょっと待っててね」のとても丁寧な言い方だった。

 マルガリータが、伯爵家で良く聞いていた感じの台詞である。


 使用人が軽くシャワーを浴びて身綺麗にする為だけに、この部屋の浴室は使わない。いや、使えない。

 ましてや今のマルガリータはまだ使用人でもなく、今後どう扱われるのかさえわからない、ただ連れてこられた最底辺の奴隷だ。

 そんな奴隷を、主人の使うレベルの浴室に入れるなど、あり得ない。


(何か余程の理由が? 私、確かに臭うかもしれないけど……この世界はボディソープとは言わなくても、石けんなんかはあったはずだから、ただ身体を綺麗にするなら絶対ここじゃない)


 マルガリータは、くんくんと自分の身体の匂いを嗅ぎながら顔を上げ、そしてふとメイドの消えて行ったもっと奥に大きなベッドを見つけ、ある可能性に気付いた。

 それは、奴隷がこの部屋の風呂を使っていい理由に、ちゃんと当てはまる。


(奴隷を綺麗に磨き上げる理由、あったわ……)


 マルガリータは黒仮面の男の夜の相手として、ここに連れて来られたという事だ。

 使用人達の不満のはけ口や、嫌う仕事を担う使用人最下層としてではなく、奴隷商が嫌な笑みを浮かべて示唆していた様な、性奴隷として。


(乙女ゲームの世界だからって甘く見ていたけれど、なかなかハードな展開になって来たわね)


 前世の真奈美の記憶を思い出したのが、奴隷に堕とされた後だった時点で、既に結構ハードモードだったのだけれど、まだ先があった様だ。


(あの人、そんな風に見えなかったんだけどな)


「お待たせ致しました。こちらへどうぞ」


 マルガリータが棒立ちで遠い目をし始めた頃、準備を終えて出てきたメイドから声がかかる。

 驚きと恐怖で、思わずびくりと身体が震える位は許して欲しい。

 逃げる事も拒否する事も、今のマルガリータには出来ないのだと覚悟を決めて、のろのろと歩き出す姿をじっと見つめたまま、微動だにしないメイドに怯みそうになりながら、重い足取りで彼女の待つ浴室へと辿り着いた。


「ひっ、一人で入れます!」


 自然な流れで、マルガリータの服を脱がせようとするメイドに慌てたのは、真奈美の記憶が恥ずかしいと思ったせいなのか、他人に夜の準備をされる居たたまれなさなのかはわからない。

 思わず強めの口調で拒否してしまい、手が止まったメイドを不味かったかと恐る恐る様子を窺う。

 きっと彼女は、自分より下の身分である奴隷の娘の世話を、それが主人に命じられた役目だからと色々飲み込んで、やってくれようとしているのだろうに。


「かしこまりました。では、お着替えはこちらに用意しておりますので、ごゆっくりと」

「え……? 一人で入って、いいんですか?」

「それがお望みでしたら、構いません。手伝いが必要な場合は控えておりますので、お声かけ下さい」

「あ、ありがとうございます」


 非難の混じった否定の言葉しか予想していなかったマルガリータの耳に響いた声があまりにも優しく、要望が通った喜びよりも驚きの方が勝って、思わず顔を上げる。

 そこには丁寧にお辞儀をして、本当にマルガリータを一人にしてくれるらしいメイドが浴室から出て行く後ろ姿しかなく、この屋敷に連れて来られてから頭の中をずっと飛び回っている疑問符の数が、また一つ増えた。


(目的はあれだけど、一人でゆっくりお風呂に入れるのは素直に嬉しい!)


 マルガリータはそう切り替え、汚れた服を脱ぎ捨てて、そろりと浴槽の待つ中へ踏み入れた。

 さすがに主人部屋と言ったところか、本来なら貴族の入浴は使用人が手伝うのが普通なので、広めに設計されている事が多いのはもちろんなのだが、ここの浴室は予想よりも広々としていて、身体を洗う道具や石けん類もとても充実していた。


 汚れた身体を丁寧に洗うと、細くて白い手足に透明感が戻る。

 真奈美はごく普通の容姿のまま、二十七年間生きてきた平凡な会社員なので、この身体は今は自分のものだと実感しながらも、どこか羨ましく思ってしまう。

 薔薇の花びらが浮かべてある、とても貴族らしいバスタブに身体を沈み込ませて、大きく息を吐き出す。


(癒やされる~。いや、癒やされてる場合じゃないんだけど)


 薔薇の香りに包まれながら、そっと胸元へと視線を落とす。

 奴隷紋を刻まれる時にも思ったが、マルガリータの細い身体でどうすればこうなるのかと思うほど、胸の膨らみは豊満だ。

 多分というか絶対に、平均的な身体をしていた真奈美よりも、カップ数が二つは上に違いない。


 マルガリータの記憶もしっかり共存しているから、この身体をキープする為にマルガリータが努力してきた事はわかっているけれど、こんなに綺麗で完璧なスタイルに生まれていたら、もっと楽しい人生が送れていただろうと考えてしまう。


(あ、でもマルガリータはこの身体で生きてきたのに、今は性奴隷にされそうになってて、全然幸せじゃないか……)


 胸と言うよりは首元、デコルテ部分と言えば良いのか、そこにしっかりと現実を突きつけるように奴隷紋が、白い透明な肌に赤い傷を付けていて、どんなにこすってみても消えることはない。

 刻まれた直後のような、燃えるような痛みと熱さは今のところ全くないけれど、きっと黒仮面の男に少しでも逆らうような事があれば、これはあの時とは比べものにならない苦痛をもたらすに違いない。


(耐えられるかな……?)


 きっと今夜待ち受けているのだろう行為を、少しも拒否する事無くこなせる自信は全くない。

 箱入り娘であるマルガリータはもちろん、真奈美としての人生の中でも、まだ体験した事はなかったのだから。

 社会人にもなって、と言うなかれ。真奈美は恋愛事に対して奥手だったし、積極的に探さねば出会いや機会など、ないものはない。

 そんな訳なので、マルガリータは身体も中身もまるで経験がない。つまり、普通に怖い。


 今マルガリータは伯爵令嬢ではなく奴隷で、優しくして貰える理由がないどころかもしかしたら無茶な事だってさせられるかもしれない。

 マルガリータを買ったのが、でっぷり太ったエロ親父とかハゲエロ親父とか、とりあえず見た目と年齢的に嫌悪感を抱かない相手だった事だけは、初めてを捧げる相手として良かったと言わざるを得ない。


 だが、いくら行動が紳士的でも、夜は豹変する人もいると聞く。

 マルガリータをそういう目的で買ったのなら、優しさは期待できそうもない。

 少しでも拒めば、奴隷紋が身体を蝕む。

 この奴隷紋がどれほどの力を持つのか、奴隷を買ったことなどないマルガリータには実際の所わからないが、奴隷が逆らい続ければその命を取る力があると、奴隷商は説明していた。

 それは、生かすも殺すも主人の気分次第と同義だ。


 最下層の奴隷に堕とされても尚、マルガリータは死を選ぶつもりはなかった。

 そうするつもりならもっと前に、それこそ『君ダン』の断罪イベント直後にでも、自ら命を断っている。

 そうしなかったのは、マルガリータが置かれたこの状況に納得していないからだし、何も悪くないのに何故命を奪われなければならないのかと、理不尽を感じているから。


 ここでマルガリータが自害でもしようものなら、ゲームのヒロインとそのメイン攻略対象である王子の思う壺になる。

 この先何も出来る事がなかったのだとしても、マルガリータの死で全てが闇に葬り去られるのだけは、断固拒否だった。

 せめてマルガリータが生きている事で、いつか自分達の犯した非情な行為が非難されるかもしれないと、心の隅にでもいいから針を刺しておきたい。


(図太い神経を持つあの娘には、私の存在なんてあまり効果が無いかもしれない。だけど……せめて王子だけでも、目を覚ましてくれるといいんだけど)


 それを期待する為に、今マルガリータに出来る唯一は、奴隷に堕ちてでも這いつくばってでも、生き延びる事だけだから。


「よし!」


 不安を吹き飛ばすように気合いを入れて、勢いよくお湯から出る。

 脱衣所に用意されていたタオルはふわふわで、着替えろと言わんばかりに置かれていたのは肌にさらりと優しい、真っ白なドレス。


 奴隷が着るものでは決してなかったが、屋敷の主人の相手をするのならば、今まで着ていたぼろぼろの麻のワンピースではダメなのだろう。

 着慣れた質感が、余計に今の立場をマルガリータに突きつけてくるようだった。

 着替えを終え浴室を出ると、先程のメイドが紅茶を用意していて、流れるように中央のテーブルへ導かれる。


(私の役目は理解したけど、この至れり尽くせりの対応は何なの?)


 主人の夜の相手をするとはいえ、奴隷は奴隷だ。

 言わば娼婦と変わらない、いや仕事としている彼女たちよりも下かもしれない。

 身綺麗にしておかなければならないだろうから、使用人達から身体を傷つけられる様な暴力を振われる事はないだろうけれど、逆にここまで丁寧に世話を焼かれる事もないはずだ。


(お風呂上がりの紅茶とか、奥方や令嬢相手じゃないんだから……水差しでも与えておけば良い方でしょ)


 実家の伯爵家のメイドに負けず劣らずの綺麗な所作で、紅茶を入れ終わったメイドが差し出すカップを首を傾げながら受け取り、そっと口へ運ぶ。


「美味しい」

「お口に合ったようで、何よりでございます」


 奴隷になってからと言うもの、まともな食事どころか泥水の様な液体しか口にしていなかったマルガリータには、この紅茶は染み渡るような美味しさだった。

 身体が落ち着いてから二口目を含むと、慣れた茶葉の香りに混じって、ほんのりカモミールの香りがしたような気がした。


(この世界に、ハーブティーはなかったはずだけど……)


 真奈美は、一人暮らしの狭いベランダで複数のハーブを少量ずつ栽培する位には大好きだったが、様々な紅茶を飲んできたマルガリータに、この味の記憶はない。

 まず、ハーブという認識そのものがないと言っていい。

 たまにちょっと良い香りがする草、位の感覚だ。役に立つ効能が沢山あるのに、もったいない。


 丁寧な言葉使いを崩すこともなく、給仕を続けながらまだ半乾きだったマルガリータの髪を丁寧にタオルで挟み込む様にして水分を拭き取り、櫛を通していくメイドに何か特別な事をした様子はなかった。


(気のせい、かな?)


 ベッドに入る前だからか、さらりと滑らかな質感まで解かされた髪は結われる事もなく後ろに流され、それが終わると同時に、いつの間にかその手の中は櫛から香油に持ち変わっている。

 マルガリータがゆっくりと紅茶を飲む邪魔はせず、けれど時間を一切無駄にする事なく首筋や腕、手足の指先にまでそれは塗り込められて行く。

 マルガリータが紅茶を一杯飲み干す頃には、マルガリータはすっかり薄汚れた奴隷から、立派な貴族のご令嬢へと引き戻されていた。


(優秀すぎる)


 しっとりぴかぴかになった指先を呆然と眺めながら、思わず感嘆の息を吐く。


「ありがとうございます」


 マルガリータはもう令嬢ではないのだし、当然のように世話を焼いて貰える立場ではない。

 黙々と片付けを始めたメイドに礼を言うと、今まで無表情だったメイドが驚いた様に目を見開き、そして嬉しそうに微笑んだ。


「とんでもございません。では、ごゆっくりお休みなさいませ」


 相変わらず綺麗な角度でお辞儀をし、丁寧な言葉はそのままにけれど今までよりずっと優しい声でそう告げて、メイドは部屋から退出して行った。

 奴隷に感謝を述べられても、腹立たしく思うだけかもしれないとも思ったけれど、その微笑みは作られたものには見えず、久しぶりに他人からの優しさに触れ、ほっとする。


 余りにも隙がなさ過ぎて、メイドの名前さえ聞く事が出来なかったが、奴隷を夜の相手の為だけに置いておく訳はないはずだ。

 明日からは、彼女たちの下働きとして共に仕事をして行くのだろうから、少しでも仲良くなれるなら嬉しい。


(もし無事に明日を迎えられたら、まずは名前を教えて貰わなくちゃ)


 日が落ちて暗くなり始めた窓の向こうにある景色を眺め、今夜自身に起こるであろう事に再びぶるりと小さく身を震わせながら、それを押し隠すようにマルガリータは広いベッドへと身を滑り込ませた。

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