第3話 新入社員の心得

 そして、マルガリータは今、馬車に揺られていた。

 目の前には、つい先程マルガリータの主人となった黒仮面の男が、未だ仮面を付けたまま物言わず、マルガリータには何の興味もない様子で、書類に目を落としている。


 黒仮面の男の規格外とも言える魔力の使い方について、マルガリータだけではなく奴隷商も気になっている様子だったけれど、そこは高額購入者であるお客様のプライバシーに立ち入って、契約破棄をされるリスクを回避する方を取ったのだろう。

 奴隷紋の契約を、営業スマイルのままこなして書類を交わし「今後とも、ご贔屓に」という言葉一つで、いとも簡単に拘束具が外され、マルガリータの身柄は黒仮面の男へ受け渡された。


 感情の読めない「付いて来い」という一言だけを与えられ、契約場所にほど近い場所に待機していた、豪華ではないのに質が良いと一目でわかる馬車へとマルガリータは押し込まれるように乗り込み、その後終始無言の状況がずっと続いている。


 気まずい空気が流れ続けているが、買われたばかりの奴隷という立場のマルガリータから声を発せられるような雰囲気では決して無い。

 多少気まずくても、黒仮面の男から話しかけて来ない限り、無言を貫くのが正解のように思われた。


(それにしても、もう随分走ったような気がするけれど……。空気、重たすぎてもう耐えられない。何か話しかけたら、怒られるかしら?)


 そうして二人しか居ない車内には、ペラペラと紙のめくられる音だけがしばらく続き、マルガリータの気まずさが限界点に到達した頃。

 馬車はガタンと大きく揺れ、やがてゆっくりと止まった。


「到着致しました」

「ご苦労」


 馬車を操っていた従者の声と共にドアが開き、目的地に着いたことを知らせた。

 黒仮面の男が労いと共に先に降り、自然な動作でマルガリータに片手を差し出す。


「……え?」


(この手は、奴隷である私をエスコートでもしてくれたりする……つもりなの?)


 思わずマルガリータは戸惑いの声を上げたが、黒仮面の男はその行動をおかしな事だとは思っていないらしく、差し出した手を引っ込めたりはしなかった。

 むしろ何故早く手を取らないのかと、そちらの方に疑問を感じている様子で首を傾げている。


(この人、紳士過ぎない? もしかして、ものすごく世間知らずなお坊ちゃまとか?)


 いくら奴隷を実際に買ったことのないマルガリータでも、使用人以下の身分の女への扱いが、こういうものではない事はわかる。

 だが黒い仮面の男が引かない限り、マルガリータは差し出されたそれを拒否する権限はないし、準じるしか出来る事が無いこともわかった。


 つまりは、仕方なく慣れてしまっている手つきで淑女らしくその手を取って、大人しく馬車から降りるエスコートを受けるしか、選択肢はなかったのだ。

 端から見れば、見窄らしく薄汚れた少女が、貴族然とはしているが黒一色で怪しさ満載の黒仮面の男を従えて、高級な馬車から降りてくると言う謎すぎる光景が繰り広げられているに違いない。


(人の目とか、気にしないのかしら?)


 きょろきょろと周りを見渡してみると、なかなかの距離を走っていたのは気まずさからの過剰な感覚ではないと示すかのように、街からは随分離れた場所の様だった。

 近くには人通りどころか、馬車と同じように豪華ではないけれどすっきりとしているこぢんまりとした屋敷しかなく、奇異の目で人に見られるのではという杞憂は消える。


(ていうか、どうして私がこの人の心配をしてるんだろう)


 黒仮面の男がどう見られようが構わないはずなのに、何を気にすることがあったのかマルガリータ自身でもよくわからないまま、何故かほっとしてしまって首を傾げる。


(それにしても……質は良さそうなお屋敷だけれど、思ってたより小さい)


 今は奴隷とはいえ、マルガリータは元伯爵令嬢だ。

 奴隷商もそれを売りにしていたはずで、考え事をしていたから競り落とされた金額をきちんと聞いてはいなかったものの、奴隷商が大金を受け取っていたのは目撃している。


 そんな風に気軽に大金を使えるような人が、こんな町外れの小さな屋敷に住んでいるとは思っておらず驚いていると、腰に手を回して紳士的な綺麗なエスコートで玄関まで足を運んだ仮面の男が、マルガリータの表情から疑問に気付いたかのように苦笑した。


「ここは今、私しか住んでいない……まぁ別宅のようなものだ。使用人も最小限しか居ないから、気負う必要はない」

「……はい」


 マルガリータは、その説明を聞いて納得した。

 この屋敷の外観だけでも、小さくシンプルではあるものの、素材にはこだわっている事はわかる。

 馬車を降りた時に見えた門から玄関まで続く中庭の芝生も、距離はそう長くはないが綺麗に整えられていて気持ちが良い。

 こうした別宅を持てると言う事は、やはりそれなりに力のある貴族なのかもしれない。


 マルガリータは、主要貴族の顔と名前は一度で覚えるという特技を持っていた。

 この黒仮面さえ外れれば、もしかすると知っている人物という可能性もあるにはあったが、この世界において黒髪というのは非常に珍しく目立つ。

 さすがにそんな人物と会った事を忘れたりはしないから、その確率は低い。


 マルガリータが奴隷に堕とされて、まだ数日しか経ってはいないとは言え、噂の広まる速度が高速な貴族社会の中で、身分の高い伯爵令嬢であるマルガリータが奴隷に堕ちた事を、知らない者はいないだろう。

 知っていてマルガリータを買ったとなると、かなり悪趣味な人物でしかないので、知り合いでない事を祈りたい。

 出来れば貴族でない事を祈りたいが、言葉遣いや自然と出るらしい優雅なエスコートの動作からは、成金商人などの匂いがしなかった。


(本当に、世間知らずのお坊ちゃま……って言う線が、濃厚かしら?)


 けれど、個人専用の別宅を与え、気軽に元貴族の奴隷を買えてしまうような大金を自由に使っても、びくともしない身分も資産も高い上位貴族の中に黒髪の子息がいるという情報は、マルガリータの頭の中にある人物辞典をいくらひっくり返してみても思いつかない。


 マルガリータのぎこちない頷きを、安心したと取ったのか緊張していると取ったのかはわからないが、感情のこもらないどちらかと言うと冷たくさえ感じられる言葉遣いとは裏腹に、何故かやけに優しく手を引かれる。

 使用人が最小限しかいないと言うことを示すように、馬車を運転していた従者が先回りして扉を開けた。


 そのまま奥へエスコートされるがまま進むと、そこには数人の使用人が一列に並び、質の良い使用人を抱えていたと自負する伯爵家に勝るとも劣らない完璧な角度と姿勢で頭を下げ、主人である黒仮面の男を出迎える。


「「「お帰りなさいませ、旦那様」」」


 使用人達の声が、綺麗に重なる。

 どうやら屋敷だけではなく、使用人達の質も良いのだろうと言うことが、この出迎えの挨拶だけでわかった。


「例の娘だ。よろしく頼む」

「かしこまりました」


 自然な動きでマルガリータの手を離し、エスコートを終えた黒仮面の男は、中央に居た一番年長者だと思われる使用人にそれだけを告げると、一人でさっさと二階へと消えてしまった。


「マルガリータ・フォ……いえ、マルガリータと申します。よろしくお願い致します」


 いつもの癖で家名まで名乗ろうとして、今の自分に名乗る家名などない事に気付き、マルガリータは名前だけを告げて、ドレスを持ち上げて腰を落とす淑女の礼などではなく、使用人がするようにぺこりと頭を下げる。

 頭を上げると、何故か並んだ使用人達の眼差しが優しげに緩んでいて若干戸惑う。

 突然現れた奴隷の娘に対して、胡散臭い目を向けられたり蔑まれたりするのを覚悟していたのだが、使用人達の表情はそのどれとも違う様だった。


(どちらかと言えば、歓迎されているような……そんな、まさかね)


「お部屋へご案内します」


 年長者の使用人に、視線で合図を送られた女性の使用人が、戸惑っているマルガリータに声をかけてくる。

 ここに並んでいる使用人の中に女性はその一人だけで、マルガリータに年齢の近そうな彼女は、シンプルな紺色のメイド服を着ていた。


 真奈美の記憶の中にある、いわゆる萌えを重視したフリフリで「これ明らかに給仕しにくいよね?」というものではなく、マルガリータの方の記憶に慣れ親しんだ、動きやすいでもどこに出ても恥ずかしくなく老若問わず着る事の出来る、シンプルなワンピース型の制服。

 すらりとした白い手足にそれはよく似合っていて、既製品ではなく彼女用にあつらえた物なのだろう事がわかる。


 良く見れば他の使用人が着ている服も、それぞれ各人に合わせた物になっている様だった。

 黒仮面の男は、少なくとも使用人に対して、無関心に使い潰すような扱いをする様な人ではないのかもしれない。


(こんな職場なら、やっていけるかもしれない)


 今後、マルガリータはこの使用人達と一緒に働かされる事になるのだろう。

 社会人経験のある真奈美の記憶から、職場において最初から無駄に印象を悪くして得なことなど何もないことを知っている。

 マルガリータはぺこりと頭を再び下げて、大人しくメイドの女性の案内に付いていくことにした。

 真っ直ぐに、主人がさっさと消えたのと同じ階段を登って行くのを追いかけながら、その行き先に疑問符が浮かぶ。


(お部屋へって言うから、使用人部屋に連れて行かれるものだと思ったのだけれど……。早速、お仕事かしら?)


 何処へ何をするために連れて行かれるのか不思議に思いながらも、簡単に質問できる立場ではない事は心得ている。

 ここでのマルガリータは、接待される客人ではなく言わば新入社員だ。

 上司や先輩に、言われるがまま行動するのが精一杯。


 結局メイドは、二階を通り越して最上階である三階まで階段を上がり、連れて行かれた先は広々とした寝室だった。

 どう見ても使用人部屋とは思えないし、更に言えば伯爵令嬢であったマルガリータの私室よりも断然広い。

 最上階の広い部屋、恐らくここはこの屋敷の主人である黒仮面の男か、その奥方の為に用意された場所としか思えない。


「ここ……、で」


(仕事をさせるにしても、新人にこの場所はハードルが高過ぎません!?)


 何とか続く言葉は飲み込んだが、中に入る勇気が出ない。

 開け放たれた扉の前で二の足を踏んでいると、メイドは当然のようにマルガリータへ入室を促して来たので、案内場所を間違えたという事もない様子だった。

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