第37話 いつもの街2③

 やがて夏休みも終わり、学校が始まった。

 ひと月前にも、私は毎日のように学校に来ていたはずなのに、私は本当にこんなところにいたのだろうかと、つい疑ってしまう。サリリみたいに、私は旅人の石の作用で、ずっとここにいる人と思い込まされているだけで、本当はここは初めての場所なのではないか、そんな気がしてしまう――、そう思いたいだけなのかもしれないが。

 あの世界で生きていた私と今ここにいる私、確かに同じ私なのだけど、今の私はここに慣れつつあるけれど、あっちにいたときの私のほうが、私は好きだった。受験の勉強をしなくていいからとか、気の合わない人たちと無理に同じ空間にいなくていいからというような、そんな単純なことではない。世界には色んなところがあって、色んな人がいて、私もきっと色んなことができるんだなあということが、ここにいるよりも、日々実感できていたのだと思う。今の私にできることは、せいぜい毎日学校へ行って、休み時間になるたびに窓の外を眺めて、なにか面白いことがないかと半ばあきらめつつぼんやりすることだけだった。

 向こうにいたときには、こっちにいたときのことが夢のように思えていた。こちらに馴染んで気たら、私は向こうにいたときのことを、今よりもさらに、夢のように思えてくるのだろうか。

 旅人の石のおかげもあったけど、私は自分がまったく知らない言語を普通に話していて、サリリのおかげもあったけど、初めて足を踏み入れた世界で、見知らぬところで驚きながらも、特に苦もなく過ごしていた。むしろなんて楽しいんだろうと、日々うかれながら暮らしていた。あれは本当に自分の身に起きたことだったのか。これから私の人生で起こる素敵なことを、あの一月で全部使い切ってしまったのかもしれない。そうして、今手元に残っているのは、限りなく代わり映えのない日々だけだ。


 天野君のことは、誰も覚えていなかった。まあ、そうだろうなとは思っていたけれど、机すらなく、後ろのクラスのメンバー表に名前もなくなっていた。このままときが過ぎれば、私だけが間違えた記憶を植えつけられたのではないかと思うようになるのだろうか。私には特にこれといって親しい人もいなくて、相変わらずあの山の向こうになにがあるのか考えながら、毎日を過ごしている。

 実は、そんなときにも間もなく終りが見え始めていた。高校に入って、学区内の一番遠くにある高校に合格すれば、あの山の向こうにある地域が今度は私の生活圏になる。天野君のように、どこまでも世界が広がっていくような、そんな話ができる友達がいるかもしれないし、向こうにいたときのように、知らない世界、知らないお店、知らない人、知らない町、そんなものを毎日目にしながら、今とはまるで違った生活ができるのではないか。

 数学の時間も、国語の時間も、理科の時間も、社会の時間も、なにもかもが淡々と過ぎていき、なにかひっかかるものを感じながらも、先生の話はきちんと聞いて、板書をとった。頭の中にその都度新たな知識が書き込まれていくたびに、あの世界で見たことや聞いたことが一つずつ消えていくようで寂しくはあったけど、だとしても、私は自分でここに戻ってくることを自分で決めたのだ、たとえそのときの一時的な感情に流された結果だったとしても、自分で決めたことなのだから、再びここに染まっていくことは仕方のないことだった。

 あの日々は何だったのだろう。天野君が学校に現れて、彼がもともといた世界に私も紛れ込んで、天野君はサリリになって。そうして私たちは一緒にときを過ごして、特になにかを成し遂げたわけではなく、どうやったら私はこの世界に戻りたいと思えるのかを、思い出したときにちょっと考えたり心配してみたりするふりをしながら、毎日をとてもいい気持ちで過ごした。今もあの人たちは、私が消えた世界で、私が現れる前と同様、のほほんと暮らしているのだろうか。

 一時的だから、楽しいと思えたのだろうか。サリリや旅人は、あの場所にある程度いて、山の気持ちを乱さないようにするという責任があった。慣れてしまえばそこまですごい制約ではなかったのかもしれないし、少年なんてむしろ守ってもらえるくらいのほうがよかったのかもしれないけれど、私はあの中でずっと生きていけたのだろうか。

 あの、サリリの自由奔放の背後には、ああやって縛られている部分があった。そういう後ろ盾があったからこそ、彼はある部分では自由に生きていられたわけだけど、ある一定の領域から先に進むことはできない、考えようによっては、誰よりも不自由であったのかもしれない、いや、そう思うことにして、私はサリリのことをうらやましくないと思おうとしているのかもしれない、だんだんと、なにがなんだらわからなくなってくる。

 あの日々は、私の中では、人生でかなり特別な部類に入る時間だった。これからも、あの時期に勝ると思えるようなときはそうないだろう。

 人生の早い時期に、ああいう楽しいことを知ってしまってよかったのだろうか。果たして私は、生きていればこれからもまたあんな時間があると思って期待して生きていけるのか、それとも、人生の楽しいときはもう終わってしまったのだと、あきらめながら生きていくことになるのか、両方の可能性が見えていながらも、今はまだなんとも言えない。


 特別な日々の、特別な時間の、特別な体験を共有して、サリリはそういう特別な人だったのに、おそらくはもう会うこともなくて、少なくとも私の「普段」からはすぱっと消えてしまった。あの世界にいたことは、ほこりのようなものが積もっていって古い地層が隠されていくように、私の中にありながらも、徐々に見えないものになっていくのだろうか。

 ただ夢を見ていただけだと言われれば、今だったら「違う」と断言できるけど、ときが経てば、だんだんと、そうなのかもしれないなというような気になってしまうかもしれない。天野君の机はもうここにはないし、もはや誰も彼のことなんて覚えていない。あの場所にいた時間だって、ぼっかりとどこかに消えてしまった。私はあっちの世界でどんどん旅に慣れて、知らない世界に慣れて、戻ったら退屈な毎日にはもう耐えられないだろうと思っていたのに、学校に行けば、また前と同じように退屈なことをおとなしく繰り返して、気がつけば以前と同じように振る舞っている。あのときの私は、いったいどこに行ってしまったのだろう。あれは、本当に私だったのだろうか。

 新学期から掃除のローテーションが変わり、図書室へ足を運ぶこともなくなった。

 杉山さんは、夏休みの間に彼氏が変わっていた。

ときは流れている。

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