第36話 いつもの街2②

 家に戻ってリビングの時計を見ると、私が出かけた日付のままだった。まあそうだろうなと思いながらも、認めざるを得ないんだなという気持ちになる。また暑い夏をやり過ごさないといけないんだ、と思うだけでなく、クラクラしてきた。

 羊はいないけど、私には植物たちがいた。すっかり忘れていた。

 みんなぐったりして萎れかけている。私が好きで栽培しているのだから、家族が水やりを手伝ってくれないからといって文句は言えないけれども、もし私が帰ってこないままだったら、やはり誰もなにもしてくれなかったのだろうか。

 ホースで水やりをしながら、いつもはどんなにしおれていようと夕方ころに水やりしていたことを思い出した。まだ暑い時間帯に水をかけられて、植物たちはおや? と思っているかもしれない。まあいい、もし不満そうだったらまた夕方にもやればいいのだ。

 あの山の上では、旅人はちゃんと水やりを続けてくれているのだろうか。サリリは、ちゃんと忘れずに私からの「よろしく」を伝えてくれただろうか。

 水をやり終えると、いよいよ眠くなってきた。体はこっちに慣れているかもしれないけれど、私の中のなにかは、急に全然違う世界に連れてこられて、困惑して馴染めないでいるのだろう。当然のことだけど。

 隣の町から、暑い中一時間以上歩いてきたから、やたらと疲れたのもある。あの山の上も日差しは強かったけど、向こうはなんだかんだ言って冬だった。

 水をコップに二杯飲んでから、自分の部屋へ行き、ベッドに横になった。そのまま私は丸一日眠り続けた。 


 夏休みはそれからが本番だったので、それからも私は毎日のように、することもないまま、一人ぼんやりしていた。

 なにもかもうそのようで、なにもかも作り物を見ているようで、なにをする気も起きなかった。

 少しでも新しいことをすると、あの世界で過ごした日々が薄れていってしまうような気でもしているのだろうか。普段だったら、夏休みともなれば、普段読めない本を読んだり、多少夜更かししたり、庭の手入れをしたりと、学校があるときよりも自由な時間が増えるので、それなりにいろいろなことをして充実しているはずなのだけど、なにかをしたいという気持ちが全く起きなかった。

 毎日八時に起きて、その辺にある本をなんとなく広げてみて、なにも頭に入ってこない。自転車でどこまでも行ってみたくなって、思いっきり漕いでみても、私の家の周りは坂道だらけで快適に走れる範囲なんてたかが知れている。それに、それほど疲労を伴わずに行ける範囲だと、誰かしら知っている人と会ってしまいそうなのも気に障る。

 窮屈だった。あの小さくて自由な乗り物でどこまでも行けるような、果てがないような、ああいう景色の中をどこまでも進んで行ける、そんな日々を、私は手放してしまった。それは仕方ないことだったけど、向こうに戻りたかった。自分で納得して選んだことだったけど、ずっと向こうで暮らせないとわかったからそうしたのだったけれど、こんなのあんまりだった。

 川や山へ行ってみたくても、一人で行って事故が起きたら面倒だし、一人になってどっかで考え事をしたいと思ってみても、けっきょくそんなに都合よく一人にはなれる場所なんてない。毎日のように家でだらだらして、たまに外をうろうろして、ろくに勉強もせず、なんら生産性のあることもせず、あの世界での感覚が日々薄れていくのを感じながらも、つなぎとめるための方法も見いだせないまま、毎日が過ぎていった。

 私が住んでいる家、部屋、庭、私の身の回りにあるものはなにもかも見慣れたものなのに、確かに自分はこういうものに囲まれて暮らしていたということは知っているはずなのに、どこか騙されているような気がしてしまう。記憶を植えつけられて、昨日までなんら関係なかったところに連れてこられて、「さあ、これからはここで暮らしなさい」と言われてでもいるようだ。それはちょうど、天野君がここに来たときの話とよく似ているなあと思ったら、なんだか悲しくなった。

 四角い柱、紙が貼られた障子、障子を開けると隣の家が見えて、周りにはいろいろな種類の緑の葉があって、いったい何種類の植物があるのか数える気すら起こらないような、ここはそういうところだった。私に話しかけてくれる樹は、もはやどこを探してもない。

 夕立が過ぎたあと外に出たら、湿った空気の中に、土のような、カビのような、なんとも言えないにおいが立ち込めていた。

 何日もそうしてぼんやり過ごし、父に「なんだか最近抜け殻みたいだな」と言われてもなにも言い返す気にもなれず、どんなに抵抗してもあの世界での記憶や感触は日々薄れていく。そんなある日、いつ始まったかもわからない蜩の声を聞いて、はっとした。

 暑いのに、突然ぽっかり涼しい穴の中に放り込まれたような気になって、私はこの感覚を知っていると思った。

 もし記憶が消えたりすることがあったとしても、体はこの感じを覚えている。同じように、私がまたサリリの世界へ行くことがあったら、どれくらい先のことになるかはわからないにしても、私の体は、あの乾燥した、どこまでも果てのないような、こことはけた違いのスケールの景色、ああいったものを思い出してくれることを確信した。

 これから私はしばらくの間、もしくは永遠に、ここで過ごすのだろう。今は一生懸命しがみついているけれど、やがて学校が始まったり、もっと時間がたって高校へ行ったり、仕事をしたり、そうして何年も経つうちに、きっとあの世界のことは忘れてしまう。でも、あの日々は私の中から消えることはないのだ、そう思うと、ようやくほっとした。とりあえず、今はここに戻ってきたのだから、ひとまずここでの暮らしに馴染んでいこう、そう思えると、なんだか安心できた。


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