第35話 いつもの街2①
「空いたお皿をおさげします」
愛想のかけらもない店員さんが、目の前で空いた容器を下げようとした。
天野君のクリームソーダの器は、いつの間にかすっかり空になっている。
「ちょっと待って下さい」
少し声が強くなってしまったようで、近くにいる人たちがちらっとこちらを見た。店員さんは、少しむっとした表情を見せ、無言で去っていった。混んでるんだからさっさと帰ってよ、とでも言いたげだった。
天野君の姿は、もうそこにはなかった。
ほんの少し前、一分前なのか二分前なのか、ほんの少し前まで、私はあの場所にいたはずだった。サリリと一緒にいたはずだった。だけどもう、あの人はここにはいない。ここにいるのはもはや私だけだった。
とりあえず水をコップいっぱいに持ってきて、一気に飲んだ。飲んでから、あ、しまったと思う。こっちの飲み物を飲んでしまったということは、こっちの人に戻ったことを認めてしまったということなのではないか? そんなことを気にしても、もうどうしようもなかったのだけれど。
さっきの店員さんがやってきて、乱暴に伝票を置いた。いよいよ出ていかなければいけないようだった。いずれにしても、彼がここを去る間際まで使っていた食器が片付けられて、彼がここにいた唯一の証拠は、もはやこの世界から消えてしまったのだ。ここにいても、もうなにもないのだ。もうなにも見たくないと思いながら、席を立った。
会計を済ませて。ふと店内を見ると、あのいじめっ子たちがばかみたいに笑っているのが目に入った。彼らは、私がここにいることを全く気にしていないようだった、同級生だということすら忘れているように見える。集団の一人と目が合いそうになったので、慌てて目を反らして外に出た。
前回、あの池に飛び込む前に店を出たときには、会計は済ませたんだっけ? そんな余裕はなかった気がするけれど、だったらあのままあっちへ行けなかったら、食い逃げだと追いかけられて怒られていたんだろうか……、そんなことはどうでもいい。なぜかここに戻ってきた。どの時点に戻るかなんて考えてはいなかったけど、おそらくは、私が旅人の石を腕にはめた時点に戻ってきたのだろう。池の中でびしょ濡れになった場面に戻ったわけではないだけでも、ましだったのかもしれない。
そのまま歩いてあの池まで行ってみる。当然のことながら、サリリが池に浸かったまま「待ってたよ」なんて言ってくれることもなく、そこにはただ池があって、亀や鯉が悠々と過ごしていた。
サリリがいないことを確かめると、私は歩き出した。
サリリはここにはいない、もうこの世界のどこにもいない、私は自分が元居た世界に一人で帰ってきた、たった一人で帰ってきた。ついさっきまで私の周りにあったものは、もはや何一つとしてここにはない。着ていた服や靴も戻っているし、旅人の石の、ちょっと重くてなにかに当たるとカチカチいう感じも、きれいさっぱり消えていた。
私の体は暑いのにも慣れているようで、不快ではあるものの倒れそうになったりはしないようだ。もうどうにでもなれと、バスにも乗らず、ひたすら歩き続けた。歩きながら、今の時点ではまだちょっと前といえるけれど、歩くたびにぐんぐんと遠ざかっていくような、あっちの世界での最後のことを思い出した。
市場に戻ると、サリリはすぐに見つかった。私は、「やっぱり帰ろうと思う」と言った。一度山に戻ってから戻ろうと思っていたのだけれど、サリリは「また気が変わるかもしれないから、今戻ったほうがいいよ」と言った。
私がオタオタしていると、
「彼には僕から言っておくよ、有泉さんがよろしく言ってたって」
「よろしく」
そう言って、二人で笑った。
「どうしたらいいのかな?」
「旅人の石を、僕に返してくれたら戻れるよ」
「それって、私が戻りたいって思わなくても、石を外せば自動的に戻ったってこと?」
「そんなことはないよ、旅人の石は持ち主の意思を尊重するから、持ち主が帰りたくなければ、外れないんだ」
旅人の石に手をやると、気のせいか、いつもより少し温かい気がした。
「帰る前に、甘くて、クリームがたくさん載ってる、あのコーヒーを飲みたいな。サリリがよく飲んでたの」
今まで気になりながらも、コーヒーを飲むと寝られなくなるのではないかと思っているうちに、飲む機会を逸していた。もう、そんな心配をする必要もないのだ。
どの店もそろそろ閉店に近いようだったので、急いで開いている喫茶店に入った。
レーアのことを話そうかとも思ったけど、サリリはなにも尋ねなかったので、私もなにも言わなかった。
サリリと、天野君と会ってからのこの二か月は、あまりに今までと違っていた。これから退屈な世界に戻っていかなければいけない自分が、心底悲しかった。でも、そんなことをだらだらと話して最後の時間を無駄にしたくなかったので、わざとはしゃいでみた。なにを話せばいいのか考えても、気の利いたことはなにも思い浮かばない。
サリリは、一緒に通った学校の先生たちの口癖をまねしたり、元旅人の少年の話し方を真似したりして、私を笑わせた。旅の途中で会った、ちょっと面白かった人のことを思い出して、「あれはおかしかったよね」などと言って笑い合った。もう私たちの間に、これからはなかった。私たちのこれからは、お互いに、もはや交じり合わない道を歩いて、遠ざかっていくことだった。
その店の、クリームがたくさん載った甘いコーヒーは妙においしくて、ごくごく飲んでしまった。こんな味だったんだなあとしみじみしながら、我慢して最後の一口だけ残していたけれども、いよいよ店員さんが声をかけにきたので、最後の一口を飲んで店を出た。
ぶらぶら歩いていると、さっきの学校にたどり着いた。もう先ほどのカップルたちは見当たらない。
石を外そうとすると、サリリは「ちょっと待って」と言って、私の手を握った。冷たい手だった。もう一方の手で、腕輪をゆっくり、自分の腕に移していった。
腕輪は、お互いの指にはまっている状態になった。これが私の指先から完全に離れたら、私はここにいられなくなるのだろう。
「いつかまた会おうね」
サリリがそう言って腕輪をずらすと、腕輪は完全に私の体から外れた。
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