第30話 湖にある島⑥


 彼は微笑んで頷いた。

「君たちは、ずいぶん若い旅人だね」

「え?」

 慌てて左手首に手をやる。

「だめだよ、そんなあからさまな態度をとっちゃ。悪いことを考えている人もいるかもしれないんだから。これから先、もしこういうことがあったら、なんのことですかって知らんぷりするんだよ」

 突然そんなことを言われて、ますますどう振る舞っていいのかわからなくなってくる。とっさのことだと、素知らぬふりすらできない。まだまだ修行が足りていない。

「でも、やっぱりそうなんだな。子供二人で旅慣れてるなんて珍しいからね。てっきり向こうの彼がそうだと思ってたけど」

「まあ、本来はそうなんですけど、今はいろいろあって」

「そうか。人生、いろいろあるよね」

「……いろいろ、あったんですか?」

「まあ、そうだね」

 訊いていいかどうかすごく迷ったけど、思い切って、訊くことにする。

「なんであなたは民族衣装を着ていないんですか?」

 彼は静かに、少し前まで島が見えていた方向に目をやった。

「小さいころ、島に旅人が来たんだ」

 彼は遠くを見ながら、話を始めた。

「この島が、こういう観光地のようなったのは、つい最近のことなんだ。僕が子供のころは、島には、島の人たちしかいなかった。まあ、今もほとんどの人は、昼間に数時間いるだけですぐに帰ってしまうし、話ができるほど仲良くなれる時間はないけれどね。

 父親が、街に何かの用事で行ったときに、偶然知り合った人が旅人だったんだ。彼は父親と一緒に地元の人が使っている船に乗ってこの島にやってきた。家に来て、何日か滞在することになった。大人はすることがたくさんあって忙しいから、主に僕が相手をしていた。当時は学校もそれほど行く必要もなかったから、彼が滞在していた間は、ほぼ一日中彼といたんだ。

 彼は、島の外の話をしてくれた。もちろんかつての僕も、島の外には違う世界があることは知っていたけど、島のよく来る外の人はたいがい、島と似たり寄ったりの生活をしている人だったから、彼のように、各地を歩き回っている人に会ったのは初めてだったんだ。自分が想像したこともなかったような、見知らぬ土地の話を、そこを見た人から直接聞いたのは初めてで、僕はもうすっかり夢中になってしまったんだ。

 そんなに一人でいろいろなところへ行って危険じゃないのかと聞いたら、彼は旅人の石のことを教えてくれた。自分がここにいる間は誰にも言わないようにとの約束でね。まあ、彼が去ってからも特に誰かに話したりはしなかったけど。

 彼がそのときどんな話をしていたかは、もうほとんど忘れてしまったよ。でも、それから僕はどうしても島の外に行ってみたくなってね。

 それ以来、毎日学校に行くようになって、真剣に勉強するようになった。いい成績をとったら、島の外の学校に通える制度があったんだ。それまでにもそういう仕組みはあったんだけど、外に行きたい人や勉強に興味のある人はいなかったから、大したことはしてなかったのに、僕は、外の学校に通った第一号になってしまった。

 そうして僕は、島を出た。学校に行っている間は、それでもまだ島の人だった。学校を終えたら島に帰ってきて、仕事を見つけて、ここでまた暮らすんだろうと、僕もみんなも思っていた」

 彼はいったん話を辞めて、私を見てにっこりした。

「学校を終えるころ、ちょうど街で仕事を紹介されたんだ。悪くない内容だったし、僕はもう少し島の外で暮してみたかった。なにせ、学校に通っていたときにはお金がなくて、楽しくはあったけど、もっとやってみたいことや、食べてみたいものや、いろいろあったからね。家族に街で働くと言ったら、では、お前はもう島の人ではないなと言われたんだ。もちろんショックを受けはしたけど、それでも僕は、外の世界をもっと見てみたかったんだ」

「学校を出てから、ガイドになったんですか?」

「ガイドになるのはなかなか難しくてね、違う学校にも行かないといけなくて、だから、いろいろな仕事をしながら、挑戦した。ガイドとして定期的に島に来れるようになったのも、つい最近のことなんだ」

「そうなんですか」

 話し終えると、彼はどことなくすっきりしたようだった。

 今度は私の番のようだ。

「私、もしかしたら、このままだと家に帰れなくなるかもしれないんです」

「もしかして、あの子となにか問題でもあるの?」

「そうではないけど、私も、ここ最近、こうして旅をするようになって、それがあまりに楽しくて、帰りたいという気持ちになれないんです。

 私の場合は期限があって、あと一週間くらいの間に帰りたいって思えないと、もうずっと帰れなくなってしまうみたいで。あとで、やっぱ帰ろうかなって思うのは無理みたいなんで、どうしようか、気になってて」

「僕もきっと、あのとき、そういう状況だったんだろうな。町の学校へ行くか、行かないか。街での仕事をするのか、島に帰るのか。まあ、当時は新しい世界を見れることに夢中で、そんなに深く考えていなかったんだけどね。もし、ここで学校へ行ったらもう島の人には戻れないと言われて、それを踏まえたうえで、どちらかを選べと言われていたら、どうなっていたのかはわからないけどね」

「島を出るのと出ないのと、どちらがよかったですか?」

「島を出なかった人生を知らないから、なんとも言えないよ。

 でも、一つ言えることがある。ガイドの仕事でいろいろ行ったけど、あの島以上に美しい場所は、そうないと思う。今度はゆっくり来て、ぜひ泊まって、朝や夜の姿も見てほしい。ああ、あと一週間でどっかへ行ってしまうかもしれないんだっけ? まあ、ほとぼりが冷めたら、また戻って来れるんだろう? 君にはまだよくわからないだろうけど、人生はけっこう長いんだ、生きていれば、またどうとでもなるよ。

 なんだか空模様が怪しくなってきてるね。そろそろ中に入るか」

 彼が言い終わらないうちに、雨が降ってきた。話を始めたときにはまだ空は青かったはずなのに、話に夢中になっている間に、天気はすっかり変わってしまっていた。高地は天気が変わりやすいのだ。

 船内に入ると同時に、雨はあっという間に豪雨になった。席に戻ると、サリリは起きていた。

「どこ行ってたの?」

「外にいたの。起きてたんだ」

「うん、雨の音でね。今起きた」

 小さな船の中で聞く雨の音は余計に大きく聞こえるのか、ろくに話もできない。私たちは無言のまま、雨の中、船の中、思い思いのことを考えていた。

 隣に座っていても、もちろん、なにを考えているかなんてわからない。

 なにを考えているかわからなくても、さして問題はないわけだけど、これがもし戦の最中で、仲間の考えていることがわからなかったら生き抜きていけないような、そんな世界で生きていたら、話さなくても意思疎通ができる、そんな進化をしたりもしているのだろうか。私はまだ、本気でサリリことを知りたいと思っていなのだろうか。

「有泉さん、なんだか楽しそうだね」

「サリリこそ。今、なにを考えているの?」

「決まってるでしょう、街についたらどんな御馳走があるのか想像しているんだよ。今朝バス停で食べたパンもすっごくおいしかったし、ここでは期待できるなって思ってさ」

 サリリは大きな声でゆっくりそう言うと、にっこりした。

 激しかった雨は、一時間もすると止んだ。すごい速さで雲が移動して、辺りは急に明るくなった。そしてこの肌寒い感覚、空気中にはたくさん水分がある、となると、

「あった! ほら、やっぱり!」

「なになに?」

「今すぐ外に出て」

 大急ぎで外に出て、顔を上げると、空いっぱいに虹が広がっていた。

「この虹、ちょっと、すごく濃いよ」

「それだけ条件がいいんだろうね」

「本当にあるみたいだよ」

「本当にあるから見えてるんじゃないの」

「でも虹って、ただ光とかの関係でこう見えてるだけで、触ったり近寄ったりできないんだよ」

「でも、あの虹、触れそうだよね」

「近くまで行ければね」

「でも、僕たちが動いたら、虹も遠くに行っちゃうってやつだよね」

「うん、残念ながら」

「わかってるけど、今だけ、船が向こうのほうに進んでくれないかなって思っちゃうな」

 二人ともすっかり興奮してしまって、そんなことを話し続けた。

なにか話し続けていなければ、どうにかなってしまいそうなくらい、「わあっ」と思っていて、とにかく「すごいすごいっ」と言い続けていたかった。

 さっきまでと同じ世界にいるとは思えないくらい、一瞬で、私を取り巻く世界は変わってしまった。

 虹を見てうっとりしながら、ふと、この人と一緒にいられるのはもう長くない、という思いが一瞬頭をよぎった。え、と思ったけれど、気づかないふりをして、

「すごーいー!」

 と、大げさに声を張り上げた。いつの間にか、他の乗客たちも外に出てきていた。

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