第29話 湖にある島⑤

 船が着くと、彼女は真っ先に降りて、さっさと急な坂道を登っていってしまった。

 少年が言っていたのとは違う島だけど、もしかしてここも草でできているのでは、と思っていたけれど、そこは普通に岩や土の地面があった。土の色は陸よりも少し薄いような気がしたけれど、普通に硬かった。

 私たちはどうやらツアーに参加しているようで、船の中でいろいろ説明していたガイドのような男の人に着いていくことになった。

「もう昼頃だけど……、もしかして、今日はここに泊まるの?」

「いや、日帰りのほうがよくないかな」

「じゃあ、着いたはいいけど、またすぐ帰らないといけないってこと?」

「そうだね、まあ、二時間くらいはいるみたいだよ」

 なにもわからないまま島に着いて、なんだかいい感じのところだし、ふらふらするのも楽しそうと思っていたので、ちょっとがっかりした。

「泊まりたい?」

「そういえば、先のことを考えてなかったんだけど、私たち今日はどこに泊まるの? 

まさか、向こうに帰って、またすぐバスに乗って、バスの中で寝るなんてことはないよね?」

「そうだね、それはさすがに疲れちゃうよね。バスの時間をちゃんと確認してなかったな……、ちょっとあの人に聞いてくるね」

 サリリは足早になって集団の先頭にいるガイドさんにかけよると、並んで歩きながらしばらくなにかを話していた。話が終わると、私のもとに戻ってきた。

「僕たちのところに帰るバスは、夕方出発するんだって。だから、今日島から町に帰って、そこで一泊して、明日夕方まで待ってからバスに乗るのがいいみたい。

 この島で一泊することもできるんだけど、たまに帰りの船が街に着くのが遅れることがあるみたいで、そうすると明日の夕方のバスに乗れなくなっちゃうから、帰るのがけっこう遅くなると、石も心配だし……」

「そうなんだ……」

「このツアーでは、今から移動して、景色のいいところでお昼を食べて、それからまた違う港から帰るんだって。だから、二時間くらいは、この島にいられるよ」

 私が浮かない顔をしていたからか、サリリは、「石の調子がよくなったら、また来よう」と言った。

 もし私がこの世界の人だったら、と思ってしまう。旅人の石はもっと私に馴染んでいて、もっと気兼ねなく旅行できたのだろうか。もともと私はここの人ではないから、ここにいられるだけでもありがたいと思わないといけないことはわかっていながらも、そんなことを思ってしまう。

 長くいられないからこそ、余計によく見えるのかもしれないけれど、すぐに帰らないといけないのが悔しくなるくらい、どこもかしこも素敵な景色ばかりだ。

 この島での、日が落ちるところや、夜の姿、また陽が昇るところや雨が降っているところ、今以外の季節になったらどんな姿を見せるのか、四季はあるのか、全部見てみたいのになと思いながら、仕方なく一つの景色をじっと見る。

 全部見てどうするんだろう。ここは小さな島で、みんな同じような外見をしていて、同じ民族衣装を着ていて、きっとみんながどこかでは親戚同士で……、そんなことを思うと、向こうで私が住んでいた地域のことが思い出される。昔からいた人が多いところだった。でも最近ではよそから引っ越してくる人も増えてきていた。私の家族は、よその町からやってきた人たちだった。そういう家族は徐々に増えつつあるけれど、たいていの場合、もともと住んでいる人たちからは、ずっとよその人扱いされていた。

 ここに来て、そのことが少しわかった気がしてくる。あの町に昔からいた人たちにとっては、よそから来た私たちは、この島の人たちと島の外から来る観光客のように違っていたのだ。服装や持ち物など、見た目だけではなく、いちいち言葉で表せないような、こまごまとしたことだとか、外から来た人たちにわからないことが、ずっとそこにいた人たちには、はっきり見えていた。

 一時的に滞在するのと、ずっと住むのとは違う。なじまないまま、いつまでも違う色のままでいる人は、なんだか目障りになってくるのだ。

「有泉さん、なんだか難しい顔してない?」

 サリリの声に、我に返る。

「なんでもない」

「ここの人たち、ずっと自分たちの暮らし方を大事にしているんだね。今日は特別な日でもなさそうだけど、みんなちゃんとこの島の衣装を着ているし、いつもそうしてるんだろうね」

 私はあの町では、みんなが民族衣装を着ている中、知らず知らずのうちに、一人だけ外部の服を着ていたようなものだった。さぞかし目立ったことだろう。とは言っても、私になにができるでもなかったけれど。

「こういうところに、よその人が住もうとしたら、やっぱりうまくいかないのかな?」

「よその人は、多分住もうと思わないよ」

「なんで?」

「短い期間だったらできても、ずっとは無理だよ」

「どうして?」

「どうしてって、やっぱり、どっか行きたくなっちゃうんじゃないの」

 そう言われると、なるほどと思う。

 島の人だって、どこかへ行きたくなるとは思うし、実際行くだろう。行って帰ってきても家族がいるから、またいつでも戻ってこれる。でも、よその人がここに住み着いて、そしてまた出て行ったら、特に戻ってくる場所はない。私たちも、今の家から引っ越したら、もうあの地域に戻ることはないように。

 歩きながら、なんだか雲が大きいなと思って、そのまま空で視線が止まった。

 私が毎日見ている雲とはあきらかに違った。横にわーっと広がっていて、周りにごちゃごちゃしたものがなくて、湖と、あるとしても遠くになだらかな山が見えるくらいだから、雲の大きさが余計に引き立っているのかもしれない。湖が鏡みたいになって、制限のない雲があって、ただ、その大きさにぽかんとしてしまう。

 空は濃い水色だけど、青い色に少しだけ紫が混じっているから余計に青く感じられるような気がする。そんな神秘的な空に、不思議な存在感を放つ雲があって、こんな景色を毎日見ていた人が島から出たら、あまりの時間の流れの違いに混乱するのではないかと思われてくる。

 こんな雲見たことないと思うくらい、とにかく雲は横に長い。高さがあまりないから、余計に長く見えるのか。山の上に大きな湖があって、大量の水蒸気が発生して、ほかでは見られないようなこういう形の雲が生まれるのかもしれない。

「有泉さん、どうしたの?」

「雲がすごいなと思って」

「本当だ」

 私たちは、ガイドさんに「そろそろ行くよ」と言われるまで、ずっと雲を見ていた。


 帰りの船の中で、サリリに訊いてみた。

「あのガイドさん、島の人みたいだけど、なんで島の衣装を着てないんだろうね」

「さあ、今は島民であることをお休みしてるってことかもね。山で待ってる彼だって、今は旅人をお休みするから、名前を僕にくれちゃったわけだし」

「いつか名前を返せって言われるのかな?」

「今更返せないよ」

 サリリは笑いながら、きっぱりと言う。

「それにあの人は、山を出て、樹の実を食べなくなったら、あっという間におじいさんになっちゃうから、もう長い旅には出ないと思うよ」

 私は黙ってうなずいた。

「あの人は、島民をお休みしている間は、島の夜の姿とか、早朝の姿とかは見えないんだね。休みの日は、島に帰ったりするのかな」

「どうかね、休みの日は、全然違うところに行くかもしれないし、お休みもそんなにないだろうし、せっかく島を見たんだから、もっとよそも見たいだろうし」

 あの人は、あの島にいながらあの島の衣装を着ない仕事を選んだことを、どう思っているのだろう。

 島民であることを、しばらくお休みできてほっとしている部分もあるのか、仕事は楽しくても、なんだかさみしいなと思っている部分もあるのか。聞いてみたい気もするけれど、失礼な気もする。私は本当に心の底から知りたいと思っているのか、ちょっと気になっているだけなのか。訊いていいのか、悪いのか。

 こういう慎重なところがあるから、けっこう損をしているかもしれないし、これからも損することは多いのかもしれない。言っておけばよかったけど、言えないままで、勇気を出して一歩踏み出しておけば起こるはずだったことが、実際には起こらないままなのかもしれない。こんな性格のままでは、今後生きていても、あまり面白いことには出会えないかもしれない。サリリみたいに、ずばっと嫌味なく、いろいろ訊けるようになりたいのだけれど、私にはまだまだ修行が足りていない。もっと旅をして、もっと色んな人に会ったり話を聞いたりしたい。

 サリリは船の揺れが心地いいのか、すぐに寝てしまった。私は外の様子が見たくて、外に出た。

 ついさっきまでいた島は、確実に遠ざかっていく。

 まだ手を伸ばせば届きそうではあるけれど、きっと泳いで行こうとしたら、三十分か、一時間か、そんな距離になってしまっているだろう。

 つい十五分前くらいまではあの中にいたのに、今ではそのことのほうがうそのようだ。私がすっかり忘れたら、今日のことは、なかったことになるのだろうか。

 島にいたことだけではない。ここにいたこと、この世界にいたことは、私が忘れたら、全部なかったことになるのだろうか。それとも、忘れてしまっても、私の中のどこかに記録が残っていて、ここにこなかった人生と、ここに来た人生とで、電源をオンにしたままか、オフにしたまま遊んでいるかのような違いが出てくるのだろうか、そんなことが、今後の生き方に関わってくるのだろうか。

 たとえ全部忘れてしまったとしても、今私がここにいることは、ずっと続いていて欲しいと思う。やがて島は、すっかり見えなくなった。

「やあ」

 声をかけられて振り向くと、ガイドさんがいた。

 子供二人で参加するのは珍しいので、もしかすると、それとなく私たちのことを気にかけていたのかもしれない。

「どこから来たの?」

「山の上から」

「ここいらだったら、どこでも山の上だよ」

 そこで、言っていいのかどうか、ちょっと迷ってから、前から一度言ってみたいと思っていたセリフを口に出してみた。

「誰も知らない国から」

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