第25話 湖にある島①
帰ってきてから三日が過ぎた。
私たちが出かけていた間、少年は本当に、きちんと水やりをしてくれていた。
出かけたときよりも植物が大きくなっていたのを見たときは、うれしかった。もっと大きくなったところが見たくなって、水やりにもさらに精が出る。水をあげすぎると植物が甘えて根を伸ばさなくなってしまうと聞いたこともあって、それも困るので、ある程度のところで我慢するよう、加減したくらいだった。
ここでは植物の成長がなんだか早く感じられる。どんぐりのような種は、この間芽が出たと思っていたら、今日はもう、私の膝くらいまでの背丈になっている。このまま、この早さでぐんぐん伸びていくのだろうか。種を蒔くとき気をつけて、こぶし一つ分くらいの間隔は開けるようにしていたのだけど、この調子だと、すぐに狭くなってしまいそうだ。
ぱらぱらした種から出た芽は、今はまだ、葉の太さは一ミリくらいでつんつんしているけど、あと三日もしたら、こんもりしてくるだろう。
「順調に大きくなってるね」
いつの間にか、後ろにサリリがいる。
「水をあげてるだけよ」
「一日に三回も」
「ひまだから」
水やりをするくらいしかすることもないし、ここはけっこう乾燥するので、朝、昼、晩と日に三度あげている。
「こう言っちゃなんだけど、二人とも、こんなこともできなかったの?」
「水を汲んでくるのに、片道十分はかかるよ」
「うん」
「僕達、ついほかのことに夢中になっちゃうんだよね、水やりが大事なのはわかってても」
「昔から、水汲みって女の人がよくやってる印象があるけど、なんだかわかる気がする」
私の腕も、気のせいではなく、日々太くなりつつある。
「有泉さん、こっちの世界に慣れてきたよね」
思わず顔がほころぶ。
「自分の世界が恋しくならない?」
急に顔がこわばる。
「ううん、どちらかと言うと、忘れ始めたかも」
竜宮城へ行った浦島太郎みたいに、楽しくて時を忘れる、と単純に言ってしまっていいのかわからない。だけど、だんだん、毎日学校へ行っていたことなんかが、そんなこともあったな、と思われつつある。私の頭や体が、ここで暮らすために不都合なところを、そうやって日々塗り替えているのかもしれない。ここにないもののことを覚えているよりも、ここで見聞きした新しいことのほうが、今ここに住んでいる私にとっては重要だから、いつの間にかそれらだけが、すぐ近くの手の届く範囲に配置されている。
私は実は適応が早いほうなのだろうか。その割には、あの地域には何年いても馴染めなかったけど。
昨日までは、はっきり言ってちょっと億劫になり始めていた。だけど私は、サリリに「やっぱり、行きたいな」と言った。だから私たちは、こうして今、バスに乗っている。
サリリと旅に出るのはこれで三度目だ。私がもし帰ることを選ぶのであれば、もうここにいる期間の後半に入っている。帰らないことを選んだら、――もしくはなんらかの理由で帰れなくなったら、二回とは言わず、もっと旅に出れるのだろうか。嫌というほど色々なところへ行けるのだろうか。
しかし、そううまく行くとは限らない。帰らないことを選択して、ここにとどまることにしても、その後なんらかのトラブルに巻き込まれてしまうことだってあるかもしれない。もしそうだとして、それを知った上でも、私は帰りたい気持ちにはなれないままなのだろうか。
今度こそはレーアに会いに行くのかと思っていたけれど、そうはならなくて、少年のおすすめの場所へ行くことになった。
前回、バスを間違えて全然知らないところへ行ってしまったとき、サリリは私以上に楽しかったらしい。
「行ったことのなかった街へ行くのがこんなに新鮮だってことを、忘れていたよ」
以前訪れたことのあるレーアのいる場所よりも、今まで行ったことのないところへ行きたくなってしまったようだった。
少年に相談したら、湖の中にある島のことを教えてもらった。
「あれは面白かったね。水際に生える、特殊な植物があるんだ。葉っぱも茎もしゅっと長くて、水の底に根っこを張ったまま、葉っぱだけ水面に出して、光合成を行っていてね」
光合成なんて、なんだか懐かしい響きだった。
「そうやって半分水の中で生きているせいか、その植物は、スポンジみたいに空気を含んでいるんだ。大量に集めて束ねて、最初は筏のようにして使っていたのかもしれないね。それがだんだんと、人が住むのに土地が足りなくなったのか地上を離れて、ずっと湖の上で暮らす人たちが出てきた。そうして今でもその人たちは、湖の上に浮島を作って、そこに家を建てて暮らしているんだ」
「へえ、面白そう。行ってみたいな。有泉さん、どう?」
「うん、私も行ってみたい」
湖と言われたので、てっきり低い方にあるものだと思っていたら、その湖は、こことはまた違う山の上にあるらしい。
私たちはいつものようにバスターミナルに移動して、バスに乗った。前回や前々回と違って、今回のバスはひたすら上り坂を進んだ。道もくねくねしていて、きっと向こうの世界にいた私だったらすっかり酔ってしまったことだろう。旅人の石のせいか、今は特に問題はないけど。
「ねえ、なにか話してよ」
「なにかって、なに?」
「そうだな……、あ、レーアっていう人の話をまだ全然聞いてないよ」
「じゃあ、レーアの話でもするかな。どう話していいかよくわからないんだけど」
サリリはちらっと窓のほうを見た。窓の外にちょっとレーアがいたりしないかな、とでも思いたかったかのようだった。
サリリは馬に乗りながら、肩には例の鳩を載せて、旅を続けた。
ただひたすら、遠くへ、もっと遠くへ行けることがうれしかった。自分の体で回った範囲が自分の世界だとすると、身の回りの世界がどんどん拡がっていくのが感じられた。
ある日、サリリはよほど楽しかったのか、夜になっても足を止めようとしなかった。鳩は一生懸命サリリの頭をつついた。サリリは「やめてよ」と鳩を払おうとするけれど、しかし鳩はやめようとしない。賢い鳩は、夜になると危険が増えることを知っていた。しかし、そのことを知らないサリリは、鳩が邪魔をしようとしているとしか思えなかった。
「そんなに僕が嫌いなら、どっか行けば。勝手にするといいよ」
それはそのまま鳩の思うことでもあった。二人は月明かりの中、別々の道を歩み始めた。
少し歩くと気持ちが落ち着いてきて、サリリはなんだか少し悪かったかなと思うようになってきた。
(僕は、コトリさんの言うことに全然耳を傾けようとしなかった…、まあ、聴いてもわからないんだけど)
日が沈む前に比べて、道が見えにくくなっていることに気づいて、はっとした。ついさっきまで、鳩が停まっていた肩が軽いのが妙に気に障った。
(コトリさん、どこにいるの。言う通りにするから、帰ってきてよ)
そのとき、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。
吸い寄せられるように笛の音がするほうへと歩いて行くと、やがて笛の主の姿が目に入った。その少年は、サリリより少し年上に見えた。彼はサリリの気配を感じたのか、笛を止めた。
「誰?」
「僕は……」
サリリは名乗ろうとして、そして、そのとき、笛の主の肩に、ついさっきまで自分の肩にいた鳩の姿を認めた。
「コトリさん…?」
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