第16話 再び山の上②

 本といえば、あの少年は、ここでゆっくり腰を落ち着けて本を書きたいとか言っていた。どんなものを書いているのだろう。

 本は読めないけれど、作者から直接話を聞くのなら私にもできる。

 少年がいつもなにかを書いている部屋をこっそりのぞくと、案の定彼は机に向かっていた。あまりに真剣な様子に声をかけるのをためらっていたら、彼は私の気配に気づいて振り返った。

「どうしたんだい?」

「忙しいようだったら、べつにいいんですけど」

「ちょうど休憩しようと思っていたんだ。お茶でも飲んでいくかい」

 合わせてくれたのかもしれないけれど、ラッキーだ。

「どんな本を書いてるんですか?」

「今は、蘭の栽培をしていた人たちの話を書いていたんだ」

「蘭?」

 私がいた世界の蘭とまったく同じものではないかもしれないけれど、旅人の石が訳してくれたところでは、一番近いのが蘭ということなのだろう。

「私がそこを訪れたときに、その村では、それまで林の中でひっそりと生えていた蘭を栽培できるようにしてお金に換えたら、村の暮らしが楽になるのではないかということで、まさに実行している最中だったんだ」

「それはうまくいったんですか?」

「まあ、そこそこだね」

「なにか問題でもあったんですか?」

「当時は、自然の中にある蘭を人の家に持ってきて、どうやって世話をしたらいいのか、まだよくわかっていなかったんだ。栽培する人は、なにをどうしたらいいかわからないまま、なんとなく勘を働かせながら世話をするしかなかった。蘭が心配で、家を空けてどこかへ行くこともできない。出かけるのが好きな人が多かったから、辞める人が続出したんだ。蘭が高く売れるといっても、水やりの苦労を考えると無理に栽培する必要はないってことになったんだよ」

「今でも、その村で蘭の栽培をしているの?」

「さあ、どうだろうね、もうずっと行っていないからな。多分、もう誰もしていないと思うな」

「珍しい蘭だったら、取りつくしてしまうと、自然破壊にもなるし……」

「そんなに取りはしないよ、食べるわけでもないんだし」

「でも、毎日家に飾ろうとして、栽培するんじゃなくて、生け花にするんだったら、あっという間になくなっちゃしんじゃないの?」

「毎日林に行くのが大変だよ。まあ、自分で取りに行くのも大変だし、人にとってきてもらったらお金がかかるし、そうまでして蘭を家に飾り続けたいという人は、あまりいないと思うな」

 そんなもんなのか。

「アリは、花が好きなのかい?」

「花というか、植物が好き。花が咲いたらもちろんうれしいけど、咲かないからといって、私は捨てたりはしないな」

「なんで植物が好きなんだい?」

「さあ……、植物は私に嫌な思いをさせたりはしないからかなあ」

「だったら、たとえばその辺の石なんかも、特にアリに嫌がらせはしないと思うけれど、だから石が好きだって思うかい?」

「石には悪いけど、石のことはあまり気にしてなかった。そうか、植物は、なんだか見ているといい気分になるのかも」

「たしかに、見ていていい気分になるんだったら、好きになる理由としては、十分だ」

 少年はうなずいた。

「まあ、でもそのために大変な思いをしないといけないとなると、好きではあるけれどあきらめようとか、違うことをしようだとか、そうなってくるんだな。私も旅は好きだったけど、今でも好きだけど、今はこうして旅の記録を残すことのほうが、したいことなんだ」

 そんなことを話しているうちに、また創作意欲がわいてきたようで、少年は机に戻った。

 今度はサリリを探してみる。

 サリリは、書庫に籠って本を読んでいる。外や、もしくは大きい窓があるところだと景色が見えて、その景色の向こうになにがあるか気になってしまうから、閉じ込められたような薄暗い狭いところでないと集中できないらしい。

 私にも、少しわかる。修学旅行で始めて新幹線に乗ったとき、周りの景色があまりにもめまぐるしく変わるので、窓から目が離せなかった。窓際の席で普通に新聞を読んでいる人を見ながら、私は何回乗ったらここに飽きられるんだろうと思った。修学旅行も学校も、そして私が住んでいた家のことでさえも、今となっては遠いことに感じられつつあるけれど。

あの町で、山の向こうになにがあるか、きちんと把握はしていないまでも大体は知っていた。学校が休みの日には、バスに乗って、山を越えて買い物へ行くこともできた。時間があるときだったら、親に頼めば、山の向こうまでドライブに連れて行ってもらうこともできた。 でも、自分の力で山を越えて、向こうの世界を見てやったと実感したことはなかった。私はただ座っていただけだった。そういうことをしてみたいと思わないわけではなかったけど、迷子になったと騒ぎ立てられたら困るので、実行したことはなかった。

 辛うじて、ハイキングなんかでそういう感覚をほんの少しだけ味わえたとしても、それは単なる楽しみの一つであって、生きるための手段ではなかった。生きるための手段として山を越えていたとき、みんなはどんな気持ちでいたんだろう。この世界でだったら、私にもそういうことが少しはわかるのだろうか。

 あの山の向こうになにがあるのだろうと、いつも考えていた。

 山の向こうの学校に通ってみたら、そうしたら、自分の思っていることを普通に口に出しても気まずくならないクラスメイトがいるかもしれないし、やってみたいと思うことを素直にやっても、誰からも咎められなくて、誰からも監視されなくて、ひそひそ言われることもないのかもしれない、一度、そういうところで暮らしてみたいと思っていた。

 あの山の向こうには、そういう生活があるのではないか、いつもそんなことばかり夢見て暮らしていて、あまり楽しいとは思えない日常から目を反らしていた、それが、学校にいたときの私だった。ただサリリと一緒に池に飛び込んだだけで、するりとあの町から出られてしまったのだ。帰りたくないと思うのは致し方ないことだった。

 陽が暮れると、三人で火を囲んで話をする、そんなことがいつの間にか日常になっている。

 これが普通のキャンプだったら、長くても二泊三日、日常から離れる期間としてはそれくらいが普通だろう。以前の私だったら、それだけのことでも別世界へ行ったように思っていただろう。

 もう一週間以上もそんな暮らしをしているだなんて、どこかだまされてでもいるような気になる。ちょっと前の私は、そんな未来がすぐ近くに待ち受けていたなんてことは、全然知らなかったのに。

 楽しいと同時に、少し怖い気持ちもある。でも、今は、このままいつまでもこうしていたい。こんなにいろいろな気持ちが自分にあったことを知るのは、驚くけれど、楽しい。

 向こうの世界では、私がいなくなって、誰か心配したりしているのだろうか。戻ったら、浦島太郎のように数百年後の世界になっていたらどうしたものか。二人とも「まあ大丈夫じゃない」などと、いい加減な返事しかしてくれないけれど。


 あるとき少年が、「旅に出るとき、どんなことを考えていたのか」について話した。彼は言った。

「僕は思うんだけど、みんな、あらかた物を持ちすぎているんじゃないかな。身軽じゃないんだよ。何かをしようとすると、今あるものの整理をしないといけないよね。普通の人には、まず家族がいて、一人で旅に出ようとすると止められるだろう。家族の中での自分の役割があるから、自分が出て行ったら残されたみんなは困るだろうと心配するし、家族からも出て行かないよう言われるだろうし」

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