2.買われた睦美
玲子の提案は睦美にとって魅力的だった。でもすぐに飛びつくのは、ためらわれた。がつがつしていると思われたくないと見栄を張る気持ちもあったが、『取材』という言葉が怖かったのだ。
「取材って、私のことが新聞に載るってことですよね?」
「うん」
睦美が紙名を聞くと、地方新聞ではあるが、県民の多くが読んでいるものだった。一気に不安になり、目が泳いでしまう。
「そんな有名な新聞に載るなんて……」
「名前は伏せるし、大げさに考えなくても大丈夫よ」
「ちょ、っと、返事は待ってほしいんですけど、いいですか?」
「うん。でも、悪いけど明日の夕方までに返事くれない? それ以上時間かかると上司に叱られるから。もし受けてくれるなら、もっと詳しく話せるよ」
玲子は申し訳なさそうに言うと、ベッドサイドのうちわで顔を
「わかりました」
「ごめんね。今日はどうする? もう帰る?」
「そうですね、帰らないと」
「残念」
そう言いながら、玲子は自分の財布から一万円札を二枚取り出した。
「はい、これ」
「えっ? 何のお金ですか……?」
「私、あなたを買ったのよ。とってもいい思いをさせてもらえたから」
「……買った……」
『あなたを買った』という直接的な言い方に、睦美は怯んだ。目の前に差し出されている一万円札を手に取ってしまえば、買われたことになる。はっきりと考えたことはなかったが、きっと売春というのは――
「そのつもりだったんでしょう?」
「……売春って、こういうこと、なんですね……。体を重ねて相手の好きなようにさせて、お金をもらって」
「そうよ」
「でも、相手が最後の最後で渋ったりしたら……」
「それで済めばまだいい方。常に大きなリスクがあるの。事後に殺されることだって。知らない同士だと足がつきにくいし、ましてやほぼ治外法権の米軍基地の兵士だからね」
一万円札を手に持ったまま、玲子は低い声で言い放った。その真剣な眼差しは、おどおどと落ち着きなく目を動かす睦美を捉えている。
「睦美」
名前を呼ばれてはっとし、うつむきがちだった顔を上げると、目の前に玲子の顔が迫っていた。次の瞬間、玲子に手を回された腰に、三日前から居座っているアザの鈍い痛みが走る。
「な、何です……んっ」
玲子の薄い唇が睦美のぽってりした唇に重ねられ、その深いキスに心の奥の何かが反応する。泣きたいような、笑いたいような、単純なような、複雑なような、むず痒い気持ち。
「……やっ、痛っ……」
心の反応とは別に、肉体的な反応としてアザの部分に痛みを感じ、睦美は思わず顔をそむけて声に出してしまった。
「アザ、痛いよね? もうさ、どこ触られても痛くないようにしよ?」
「……え?」
「暴力男から逃げろって言ってんの。私は睦美に触りたい。でも睦美が痛がるのは嫌。取材、受けてよ」
◇◇
玲子の家は睦美の家から電車を使って三十分くらいの場所だった。時刻はもう午後三時を回っており、帰り道では真夏のギラギラした太陽が容赦なく地上に熱を与えている。
玲子は『私は睦美に触りたい』と言った。『あなたのため』とは言わなかった。あくまでも自分の意思で、睦美に提案をしたということだ。
カバンの中の財布には、玲子から渡された二万円が入っている。あのあと、一万円札二枚をローテーブルに放り投げると、玲子は何度も睦美の唇を求めた。彼女曰く『腰にアザがあるから今はやめとく』とのことで、キス以上のことはされなかった。
玲子との触れ合いを、嫌だとは思わなかった。心がむずむずする感覚も不快ではない。彼氏とのセックスのあとはいつも下腹部が痛くなってしまうのに、そんな痛みなど全然感じない。本当に『やった』のだろうかと疑問に思うくらいだ。女同士だからだろうか。ともあれ、知識もなく、昨夜のことを覚えていないのだから答えは出ないのだが。
「明日、返事しなくちゃ」
一人暮らしの家に着いて玄関を開けると、こもっていた蒸し暑い空気が睦美を襲った。玲子の自宅住所、電話番号なども書かれた名刺が入ったカバンを玄関に置き、窓を開けに部屋の奥へと急ぐ。
二箇所の窓を開けてほっと一息つくと、電話機の留守番電話ボタンの点滅が睦美の視界に入った。
『睦美、昨日どうだった?』
『うまくいったか?』
『おい、電話くらいよこせ。また殴られたいのかよ』
『俺は心配して言ってるんだ、わかってるよな?』
『おい、早くしろよ、ったく』
メッセージ再生ボタンを押すと、思った通り短くも攻撃的な言葉がいくつも録音されていて、睦美は深くため息をついた。普段なら慌てて彼氏に電話をかけていただろうが、今日はそんな気にはならず、窓を閉めてエアコンのスイッチを入れる。
「……暴力男って……、ふふっ」
玲子の言い草を思い出し、おかしくなって一人で声を出して笑う。昨日までの、彼氏の言動に一喜一憂していた自分もまとめて嘲笑したい気分だ。本当はずっと逃げたかった。でも反抗したりせず、言うことを聞いていた。それが一番良い方法だと思い込んでいた。
部屋が涼しくなってくるにつれ、まぶたがだんだん下がっていく。ごろりとベッドに横になるとほんの少し下腹部に違和感を覚え、これが『やった』証拠なのかと薄い意識の中で考えながら、睦美は眠りに落ちた。
◇◇
ドアチャイムが乱雑なテンポで部屋中に響き、睦美は目を覚ました。体を起こして時計を見ると午後七時になろうというところだ。
「おい! いるんだろ! 開けろよ!」
彼氏の怒鳴り声が聞こえ、身をすくめる。本当はドアを開けたくはないが、近所迷惑になるのは困るため、仕方なくドアを開けた。
「んだよ、やっぱりいたんじゃねえか。おまえ何やってたんだよ!」
「ご、ごめんなさい、その……、寝てたの……」
「はぁ? 寝てた? お気楽なもんだな。電話しても出ねえし、帰りが遅いみたいだったから、心配して気が気じゃなかったってのに」
何もかもが、睦美のせいにされる。睦美の帰りが遅かったから、睦美を心配していたから、睦美がこう言ったから、あの時の睦美の態度が悪かったから――
「……疲れてたから」
「まあいい、赦してやるよ。俺は優しいからな。で、稼げたんだろうな?」
そうして男は睦美に赦しを与え、自分の立場を上げようとする。目の前でいきり立つ男を怖いとは思うが、同時に睦美の頭の中には冷静な部分があり、自分は何かの宗教の信者のようだったと考える。宗教に救いを求め、『お布施をすれば救われますよ』という言葉にすがって何もかもを差し出す、狂信的で哀れな信者だ。それも、畏怖ではなく恐怖への信仰の。
「……えっと、これ……」
玲子から渡された二万円を彼氏に渡すと「これっぽっちかよ」と言いながら引ったくられ、小さな苛立ちが生まれる。お布施なんてしたって救ってくれやしないのに、と。
「おまえ今夏休み中で仕事ないんだろ? 今日も行って来いよ。今行けばちょうどいい時間になるから」
「そ、そんな……」
「俺はおまえのためを思って言ってんだ。優しくされたいだろ? 黙って言うこと聞いてりゃいいんだよ」
「……うっ……」
彼氏の自分勝手な物言いを聞いて突然の吐き気を覚え、睦美は口を押さえてうずくまってしまう。腹部の不快感から目を潤ませる睦美を心配することもなく、歪んだ言い分は更に続けられた。
「俺だって、本当はおまえに優しくしたいんだ。な、わかるだろ? おまえは俺の言われたことしてればいいんだから、楽なもんだ」
「……わかったわ」
睦美が了承の意を示すと、彼氏は「最初からそう言ってりゃいいのに。手間かけさせんなよ」と言い捨て、部屋を出て行った。ほっと息をついて足音が聞こえなくなったのを確認し、ドアの鍵をかちゃりとかけると、睦美は電話の受話器を取る。
「……もしもし、あの、深田と申しますが……あ、玲子さん……、取材のことなんですけど……」
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