第8話 今世での恋人

 少しうたた寝していたせいか頭がぼんやりする。何度か目を瞬かせたものの、どうにもすっきりしない。


(そりゃ、毎日こんだけ寝てればぼんやりもするか)


 目の前に広がる紺碧の海を見ながら、思い切り背伸びをした。


「そんなことをすると傷が開くぞ」

「開かねぇよ。っていうか、開くほどの傷じゃなかっただろ」

「縫うか縫わないかの瀬戸際だった」

「結局縫わなかったんだから、大した傷じゃなかったってことだ」


 振り返ってそう答えると、トリヤが眉をひそめていた。


「それでもナイフの傷だ。出血もひどかった。甘く見ないほうがいい」

「はいはい。だからこうして、おとなしくされるがままになってるだろ」

「風呂やトイレの介助はさせてくれない」

「させるかっ」


 思わず叫んでしまったが、それで左脇腹の傷が痛むこともない。つまりそのくらいの傷だったということだ。まだ風呂で濡らすことは禁じられているものの、歩いたり飯を食ったり一通りのことは問題なくできる。あと六日か七日もすれば少しずつ踊りの稽古もできるようになるだろう。

 ところがトリヤは「絶対安静だ」と言って、オオキリが所有する海沿いのホテルに俺を押し込め甲斐甲斐しく世話を焼き続けた。立ち上がれば抱きかかえ、飯を食おうとすれば「はい」と言ってスプーンに載った食べ物を差し出す。極めつけは着替えを手伝おうとすることで、風呂を禁止された最初の五日間は体の隅々まで拭おうとした。

 俺は呆れ顔を隠しながら、よくわからない介助を一つずつやめさせた。もちろん風呂やトイレは始めから自分一人でやっている。


「刺し傷じゃなく切られただけだから、もう大丈夫だよ」

「まだ十日しか経っていない」

「医者も大丈夫だと言ってただろ」

「……しかし、」

「あんた、ちょっと心配しすぎ」


 そりゃあ目の前で傷害事件が起きたのだから心配するのも無理はないが、金持ちガニーユお抱えの医者が「大丈夫だ」と言うんだから信用すべきだ。

 それなのに、俺が少し体を動かすだけでトリヤは小言のように注意してくる。おまけに部屋の外に出ることを許そうともしない。


「……前は、助けられなかった」

「ん? なんだよ、前世でも俺は怪我したのか?」

「怪我じゃない。怪我なら……どうにかなった」

「?」


 最後のほうが聞こえず首を傾げたが、トリヤが答えることはなかった。


「しっかし、こういう目に遭ったら何か思い出してもよさそうなのになぁ」

「何をだ?」

「前世の記憶だよ。ほら、本とか演劇とかではよくあるだろ? 事故に遭ったり怪我をしたりすると、それがきっかけで記憶が蘇るとかさ」

「……無理に思い出す必要はない」

「何でだよ。あんただって、俺が前世を思い出して“前世からの恋人”だって確信できたほうがいいだろ?」


 そう言うと、トリヤが窓の外に広がる海へと視線を逸らした。

 そういえば、怪我をする前は一日に何度も前世のことを口にしていたのに最近はあまり言わなくなった。さっきみたいに口にしても、俺が聞き返すとうやむやにしようとする。


「俺が“前世からの恋人”だってのは、もうどうでもよくなったのか?」

「そうじゃない。ただ……、思い出さないことにも、きっと理由がある。それなら無理に思い出す必要はないだろう」

「せっかく思い出したいって思えるようになったんだけどな」


 思い出して、そうして心の底から“前世からの恋人”だと実感したかった。


「人は案外呆気なく死ぬ。そんなことになる前に、ちゃんと思い出したいって思ってんだけどなぁ」

「……死ぬ気なのか?」


 思いのほか低いトリヤの声に、慌てて首を振った。


「違うって。ただ今回怪我をしたせいか、そういうことを思うようになったってだけだ。おまけに、よくわからねぇ夢まで見るしなぁ」

「夢?」

「あー、小さい頃から見てる夢……と同じだとは思うんだけど、近頃は目が覚めると覚えてないんだよな。ただ、やたら苦しいっていうか、絶望的な気持ちになるっていうか」

「前にうなされていた悪夢か?」

「いや、それとは違う。んー、いや、違わねぇんだろうけど……覚えてねぇから、よくわかんねぇわ」


 ナイフで刺されたあと、俺は丸一日目を覚まさなかったらしい。その間、俺はずっと“夢の中の俺”を見ていた気がする。ただしいつもの踊りの稽古ではなくトリを思っている場面でもなかった。それは覚えているのに、どんな内容だったのかは思い出せない。それ以来、夢を見たことは覚えているのに内容を思い出すことができなくなった。


「よくない夢なら、忘れたほうがいい」

「まぁな。っていうか、そもそも覚えてねぇしな」


 ハハッと笑った俺に、ようやくトリヤが小さく笑った。


「お茶を持ってくる。テラス席で待っていてくれ」

「あ、俺もコーヒーがいい」

「コーヒーはまだ駄目だ。成分が傷によくないと医者が言っていただろう?」

「ってことは、またハーブティーかよ」

「今日のはリンゴの香りがするものだから、きっと気に入る」

「おぅ。俺って愛されてんなぁ」

「当然だ」


 少しからかっただけなのに、思ったよりも真剣なトリヤの声に俺のほうが照れくさくなった。そんな自分を誤魔化すようにテラスのほうへと歩き出す。


「……今度は、死なせたりしないから」


 トリヤの声が聞こえた気がして振り返ったが、そこにはもうトリヤの姿はなかった。



「もうっ、もうっ! ほんっとうに心配したんだからねっ!?」

「あはは。それはもうわかったから」

「ほんっとうに心配で、食事も喉を通らなかったんだから!」

「あー、その、悪かったって」

「悪いのはレィナ嬢でしょっ!」

「ええと、うん、そうだよな」


 ルゥ姉さんが太い腕を振り回しながら激昂している。俺が怪我をしたと聞いてずっと心配してくれていたらしい。それはうれしいし心配をかけたのは悪かったと思っているが、ひとまず落ち着いてほしかった。何より巨漢のルゥ姉さんが暴れると、物も人も簡単に吹っ飛んでしまうから危なくてしょうがない。


「ルゥさん、落ち着いて」

「やだっ、トリヤにルゥさんって呼ばれちゃった」


 あんなに暴れていたのに、トリヤに名前を呼ばれた途端におとなしくなった。頬を染めながらトリヤを見つめているルゥ姉さんにやれやれと思いながら椅子に座り直す。


「そういえば、四日前に街を出て行ったみたいよ?」

「ん? 誰が?」

「誰がって、あなたを刺したレィナ嬢よ」

「あぁ……」


 刺した、というか切りつけてきたのは取り巻きの男だ。ただ、それを指示したのはレィナ嬢だった。今回のことを聞いたシキセンのご当主様は、顔を真っ青にして卒倒したと聞いている。

 人を傷つけるのは被害者が誰であっても許されることじゃないが、踊りの神が創ったこの街で踊り子を害するというのは最大の罪だ。とくに踊りの神の申し子とまで呼ばれている俺が刺されたことで騒ぎが大きくなり、オオハギのご当主様はもちろんのこと街のすべての金持ちガニーユがシキセンの追放を口にした。同時に、この街におけるシキセンの財産はすべて没収されることも決まった。

 そんな金持ちガニーユたちを宥めたのはトリヤだった。「最初に自分の口からはっきり断らなかった僕の落ち度でもある」と言い、踊りの神への鎮魂の意味も込めてオオキリが大きな劇場を一つ造ることを約束した。

 金持ちガニーユや街の人たちは、俺の“前世からの恋人”がそこまで言うのならと一応は納得してくれたらしい。しかしシキセンへの風当たりは強くなる一方で、このまま街に居続けられるかはわからない。

 そんな街の雰囲気にレィナ嬢は耐えられなかったのだろう。そもそも、このままでは別の金持ちガニーユと結婚することもできない。それは金持ちガニーユであることを誇りにしていたレィナ嬢にとって耐えがたい状況だったに違いない。だから、この街を出て行ったのだ。


(ま、それも自業自得だよな)


 そうだ、あのときあんな方法を使った俺も自業自得だ――こめかみをツキンとした痛みが走った。


(いま、何か思い出しかけた気が……)


 思わず顔をしかめた俺に、ルゥ姉さんが心配そうな眼差しを向けてくる。


「ちょっとタマちゃん、本当はまだ傷が痛んじゃないの?」

「いや、大丈夫だって。それにオオキリお抱えの医者が大丈夫だって太鼓判を押してくれたしな」

「それならいいけど……」


 まだ心配そうな顔をしているルゥ姉さんに笑いかけると、ホッとしたように微笑み返してくれた。


「それより、例の衣装なんだけどさ」

「あぁ、それは任せて。いま極上の刺繍生地を取り寄せているところよ」

「手を煩わせてごめんな」


 頭を下げると、ルゥ姉さんが「気にしないで」と笑った。


「タマちゃんの花道舞台の衣装なのよ? あたし以外の誰が作れるっていうの?」

「うん、俺もそう思ってる」

「やだぁ、そんなこと言われると涙が出てきちゃうじゃない」

「泣くの早すぎだって」

「だって、タマちゃんの最後の舞台でしょ? タマちゃんの踊りが見られなくなるんだって思ったら、悲しくなっちゃって……」


 そう言って、太い指が濃紺のアイシャドウでキラキラ光る目元を拭った。

 俺はホテルに押し込められている間、たっぷりあった時間を使って自分の今後について考えた。踊り子を辞めるのはやっぱり残念だが、このまま続けるのも難しい。それならと、最後の花道舞台に立つことを決めた。


(ま、トリヤがいるからそこまで未練たらたらってわけでもないしな)


 以前はあれほど踊り子を続けたいと思っていたのに、いまはそこまで強く思うことがなくなった。むしろ花道舞台に全力を傾けたいとさえ思っている。

 花道舞台の踊りは吉祥の舞にした。元々俺の大好きな舞で、トリヤも気に入ってくれていたということですぐに決まった。衣装はもちろんルゥ姉さんに頼むことにした。トリヤが「金に糸目はつけない」と言ってくれたのをいいことに、少し値の張る刺繍の生地を選んだ。それを着て最高の火の鳥を舞うのだ。

 衣装の形を決め、簡単な採寸の確認をしてからルゥ姉さんの店をあとにした。そのまま庶民の憩いの場である広場へと歩いていく。


(っていうか、本当にまったく馬車を使わねぇな)


 そう思いながら隣を歩くトリヤを見ていたら、なんだか笑えてきた。「ハハッ」と小さく笑った俺にトリヤが不思議そうな顔をする。


「どうした?」

「いや、トリって本当に金持ちガニーユらしくねぇなと思って」

「そうか?」

「だって、トリが馬車で移動する姿なんてほとんど見たことがない。それに広場の屋台で普通に買い食いするし、相変わらず安いクレープがお気に入りだし」

「僕以外の金持ちガニーユでもすることだろう?」

「いいや、しねぇな。断言できる」


 そう言ってもう一度笑ったらトリヤが急に立ち止まった。どうしたんだろうと振り返ると、少し離れたところからじっと俺を見ている。


「トリ?」

「タマは、金持ちガニーユらしくない僕は嫌か?」


 聞かれた内容に少し驚いた。トリヤがそんなことを気にするような奴には思えなかったからだ。


「いいや? っていうか、見るからに金持ちガニーユらしいトリのほうが想像できねぇ」

「そうか」

「それにな、俺は金持ちガニーユのトリだから好きになったんじゃねぇよ」

「……え?」

「あんただから好きになったんだ。……まぁ、改めて言うのもいまさらって話だけどな」


 照れくさくなって慌てて顔を背けた。そのまま歩き出すと、右手をギュッと握られて足が止まった。


「前は……前世では、僕が注目される存在だったから見てくれたのかと思っていた。僕の周りの誰もがそうだった。そういう僕だからタマも好きになってくれたのかと思って、だから……」

「いまでもそう思ってるんじゃねぇかって? そりゃあ違うな」


 握られた右手を一旦解き、俺のほうから握り返す。照れくさいから顔を正面を向けたまま口を開いた。


「俺にとって金持ちガニーユのトリでもそうじゃないトリでも、トリはトリだよ。そんなことで気持ちが変わったりはしねぇって。それに、今回の衣装じゃあ金持ちガニーユのトリに助けてもらってるわけだし」

「金銭のことなら気にしなくていい」

「ありがとな。あぁ、だからって金持ちガニーユのトリのほうがいいって言ってんじゃないからな? 勘違いすんなよ?」


 そこまで言って、やっぱり照れくさくなった。それでも握った手は離さずに、引っ張るように大通りを歩く。時々街の人たちの視線を感じたりするが、舞台とは違う視線も悪くないなと思えるのが不思議だ。

 そう思っていた俺の手をトリヤがクイッと引っ張った。


「ん? どうした?」


 やや傾きかけた太陽を背景にしているからか、トリヤの顔は影になってはっきと見えない。またどうでもいいことを考えているのかと思って口を開きかけたとき、「タマは強いな」という言葉が聞こえた。


「トリ?」

「前も強かったのか、残念ながら僕にはわからない。もっと早くに気づいていたら、……いや、気づくきっかけがあれだったんだろうから、どうしようもなかったとわかっている。それでも、前のタマともこうして過ごす時間があったらと思わずにはいられない」


 前世の話をしているのだろうが、記憶がない俺にはまったくわからない。それよりもトリヤの声がやけに沈んで聞こえるのが気になった。


「何だよ、前世の俺とは仲が良くなかったとか? あぁいや、それじゃあ“前世からの恋人”にはならないか」

「……仲が良い悪い以前の問題だ」

「うん?」

「いや、何でもない」


 急に近づいてきたトリヤにギュッと抱きしめられた。


「きっと僕自身が“前世からの恋人”に固執しすぎていたんだ。それさえあれば、今度は確実にタマと一緒にいられると思って縋るように口にした。でも、そんなものは必要なかった」

「なんだよ。やっと俺も“前世からの恋人”を信じ始めたところだってのに」


 そう答えたら、耳元でフッと笑ったのがわかった。


「俺はもう“前世からの恋人”にはこだわらない。それよりも、いまこうして恋人でいられることを大事にしたい。そうだな、“今生での恋人”ということを大事にしようと思う」

「……トリって案外ロマンチストだよな。言ってて口がくすぐったくならねぇか?」

「タマは空気を読まないな」

「うるせぇよ」


 照れくさくて空気なんか読んでいられるか。そう思いながら、もう一度トリヤの手を掴んだ。温かい手に泣きたくなるような気分になりながら、夕飯を手に入れるべく広場の屋台へと向かった。

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