第9話 前世からの恋人・終
その日、野外舞台とその周辺は大勢の観衆に埋もれることになった。大通りを挟んださらに奥まで埋め尽くす人波に、俺は舞台に立つ前からゾクゾクするほどの興奮を感じていた。
野外舞台の正面には、長年ご贔屓にしてくれたオオハギのご当主様はもちろんのこと、かつての恋人だった
「トリって、案外負けず嫌いなんだな」
今日は俺のご贔屓たちが大勢やって来るとわかっていて、そういう格好をしたのだろう。あれも一種の牽制に違いない。
「そんなことをしなくっても、俺はとっくにあんたのものなのにな」
思わず出た言葉に顔が火照るのを感じた。
俺には、いまだに前世の記憶がない。トリヤを見て特別な何かを感じることもなくなった。そのせいか、俺には“前世からの恋人”という強い気持ちはない。少し前までは、それが少し焦れったくもあり小さな不安にもなった。
(もし、トリの本当の“前世からの恋人”が現れたら……)
そんなことを思ってはドキッとした。しかし、そんな不安や焦りはもう必要ない。それもこれも、トリヤが“今生での恋人”と何度も口にするからだ。
「ったく、あれで本当に年下かよ」
トリヤの気遣いがうれしくて顔が緩みそうになる。
「タマ、そろそろだぞ」
「おう、わかった」
裏方の手伝いをしてくれているカイムが、ひょいと顔を覗かせた。そうして俺の顔を見てから、「ちょっと待て」と言って楽屋に置いてある自分の化粧箱の中をゴソゴソし始める。
「なんだよ?」
「んー……あぁ、あった」
「紅?」
カイムが手にしているのは踊り子が使う舞台用の紅だ。
「今日の火の鳥は特別だろう? それなら紅も特別なものがいいんじゃないか?」
「……これ、金紅じゃねぇか」
「この前ご贔屓にもらったんだ」
「俺が使っていいのか?」
「最高の火の鳥になってほしいからな」
微笑むカイムに礼を言い、紅筆で金紅を唇に載せる。楽屋の人工的な明かりのもとでも玉虫色に光り金に輝くのがわかった。
「さぁ、伝説に残る吉祥の舞、火の鳥になってこい」
「おうよ」
カイムに見送られた俺は白地に金と朱色の刺繍が贅沢にほどこされた衣装をひるがえし、大勢が待つ舞台へと向かった。
「やっべぇ。興奮が収まらねぇ」
舞台が終わってそこそこ時間が経ったというのに、俺の頭の中にはさっきまでの大歓声が鳴り響いていた。体の奥にも踊っている最中の興奮が残っていて静まる気配がない。
そんな上機嫌な俺をトリヤは少し困ったような顔で見ていた。いつもなら「なんだよ」と思うところだが、そんなことも気にならないくらい俺は上機嫌だった。
「本当に最高の花道舞台だった。こんなに最高な気分になったのは、街一番の踊り子になったとき以来だ」
あのときも体の内側から高揚感がわき上がり続けて大変だった。ついに一番になったんだと叫び回りたいくらいうれしかった。
当時の気持ちまで思いだした俺は、さらに機嫌よくワインを一気に飲み干した。酒には強い俺だが、舞台の余韻と何杯目かわからないワインで少し酔っ払っているような気がする。
「飲み過ぎじゃないか?」
「大丈夫だよ、こんくらい」
そう言ってワイングラスを置こうとした手がふらっと揺れた。「あれ?」と思っていると、俺の手からトリヤがグラスを取ってテーブルに置く。
「まったく、大丈夫じゃないだろう」
呆れたような声に少しだけカチンときた。俺はこんなに上機嫌なのにトリヤは違うのだろうか。あぁそうか、この後のことを心配しているのか。「やっぱり若いな」なんて思いながら口を開く。
「平気だって。もちろん、あんたの相手もちゃあんとしてやるって」
からかうようにそう言うと、なぜか小さなため息をつかれた。
「そんな状態で勃つのか?」
「ん~? 俺は勃たなくても平気だろ?」
「まぁ、たしかにそうだな」
「じゃあ問題ないな」
いまは、この高揚感とうっとりと蕩けるような気分を思う存分味わいたい。今日の踊りにはかつてないほど満足しているし、最後まで大勢の観客に拍手喝采を贈られた自分が誇らしかった。
(それにトリのおかげでもあるしな)
衣装もだが、練習に付き合ってくれたことにも感謝している。そんな最高の恋人であるトリヤとこれから一夜を過ごすのだ。そう考えるだけで、かつてないほど体が昂ぶってくる。
(ま、小言も今夜は許してやるか)
しかし熱い一夜は祝杯を堪能してからだ。
「タマがそれでいいなら、僕に不満はない」
「じゃあ、いいじゃねぇか……って、なんだよ」
ワイングラスに伸ばした手を、なぜかトリヤに握られてしまった。そのまま引っ張られて立ち上がった俺を、どこかへ連れて行こうとする。
「……って、ベッドかよ。ったく、恋人になった途端に我慢しなくなったな。あぁ、ちょっと待ってろ、汗流してくるから」
「そのままで構わない」
「いや、さすがにそれはまずいだろ」
「何がまずいんだ?」
「何がって、あれだけ踊ったんだ。楽屋じゃタオルで拭うことしかできなかったし、俺もさっぱりしたい……って、こら、待てって」
話している間に背中を押されて、正面からベッドに倒れてしまった。何をするんだと振り返ろうとしたが、トリヤにのし掛かれ動けなくなる。
「僕は別に構わないと言っている」
「いや、だから俺は汗をかいて……」
「タマの汗なら問題ない」
「はぁ?」
何を言い出すんだ。そう思って何とか顔を見ようとしたが、うまくいかなかった。
「全身汗まみれでも僕は気にしない。全身、くまなく舐めてやる」
「……っ」
耳元で囁かれた言葉に不覚にも反応してしまった。その程度の言葉に反応してしまうほど初心じゃないのに、トリヤに舐め回されることを想像しただけで下半身が熱くなる。
「こんな言葉だけで感じるなんて、タマは思った以上にかわいいな」
「うるせぇよ。っていうか、年下のくせに生意気だろ」
「……そう言われるのは三度目だ」
不意にトリヤの声が小さくなった。そういえば以前同じことを口にしたときにも「前にも言われたな」と言っていたのを思い出す。
「俺に前世の記憶はねぇけど、きっと魂が覚えてるんだろ。だから同じことを言うんじゃないか?」
「…………直接、言われたことはない」
「ん? 何だって?」
聞き返そうとしたら、耳たぶを噛まれて首筋が粟立った。まだ舞台の余韻が残っているからか、たったそれだけで全身が震えそうになるくらい気持ちがいい。
「タマは耳と首が弱いな」
「んなこと……んぁっ」
耳たぶから首筋にかけてを熱い唇で撫でられ、ぞわりとした快感が背筋を震わせる。俺は拳を握りしめながら額をベッドに押しつけ、小さな快感の波をやり過ごそうとした。
そんな様子に気づいたのか、小さな笑い声を漏らしたトリヤが首筋に舌を這わせてきた。同時にシャツのボタンを外し、ズボンの腰紐さえもあっさりと解く。
この日、俺は宣言されたとおりトリヤに全身を舐め回されるというとんでもないプレイをされることになった。本当にどんな年下だよと笑いたくなる。そして今回も気になることを言われた気がした。
「タマのことは僕が幸せにする。今度こそ……いや、今生の僕だからこそ……ヨリチカ」
あまりの快感に、正直トリヤの声はほとんど聞こえていなかった。それなのに最後の「ヨリチカ」という言葉だけははっきり聞こえた。
聞こえた瞬間、こめかみに鋭い痛みが走った。思わず「うっ」と唸り声が出たが、すぐにトリヤの動きに翻弄され痛みが消える。そのまま溺れるような快感に呑み込まれてしまった。そうして目が覚めたとき、何て呼ばれたのか俺は覚えていなかった。
・
・
「早朝の海ってのも、いいもんだな」
「そうだな」
朝焼けに紺碧の海が少しずつ明るさを取り戻し、砂浜がキラキラと眩しくなる。海沿いのホテルに来てから、俺たちは毎日のように早朝の浜辺の散歩を楽しんでいた。
花道舞台を無事に終えた俺は、踊り子を引退した。街の人たちからは「もう見られなくなるなんて寂しい」と言われたが、俺に未練はない。あんなに大勢の前で踊ることにこだわっていたのに、自分でも驚くほどの気持ちの切り替わりようだった。
その代わり、こうしてトリヤと二人きりのときに踊ることが増えた。本格的なものじゃないが、気持ちのまま自由に踊る。もちろん観客はトリヤだけで、ただ一人のために踊るのもいいものだと初めて感じた。
「恵みの水が、絶えず注がれることを願い――」
朝日を背景に
砂に足の指先を少し取られながらくるりと回った俺の右手を、トリヤの左手が優しく握る。そうして本来の
「やっぱり、トリには、踊りの才能が、あるよ」
踊りながらそう言うと、トリヤが少しだけ笑った。照れているというより少し寂しそうに見える笑顔が気になる。不思議に思いながらも、俺はトリヤの動きに合わせて
俺はどこで習得したのか何度か訊ねた。しかしトリヤは少し笑いながら「見よう見まねだ」としか答えない。そのときの笑顔もどこか寂しげな雰囲気が漂うものだった。
(ま、言えないことの一つや二つはあるよな)
気にならないわけではないが、無理に聞き出したいと思うほどでもない。それより、こうして二人で踊ることがいまは何よりも楽しい。
「そういや、いつまで、この街にいるんだ?」
「いつまで、とは?」
「だって、家に、帰らなくて、いいのかよ」
踊りながらも気になっていたことを尋ねることにした。
いま滞在しているのは、俺が怪我をしたときに押し込められていた海沿いのホテルだ。てっきり少し滞在してからトリヤの故郷の街に行くものだと思っていた。ところが何日経ってもホテル暮らしは変わらず、いつ移動するのかも聞いていない。
「しばらくは、この街に、住もうと思っている」
途切れ途切れに答えるトリヤの言葉に、どういうことだと首を傾げた。
「帰ら、ないのか?」
「タマも、この街が、好きだろう?」
「そりゃあ、この街で、育ったからな」
生まれはどこか知らないが、生後十日くらいからはこの街に住んでいると聞いている。生まれたときから踊り子になることが決まっていた俺は街の外に出たことはないし、踊り子としての生活以外も知らない。
「タマ」
くるりと回ったところで、トリヤに腰を抱かれた。
「なんだよ」
「タマが飽きるまでこの街に住めばいい」
「俺はいいけど、家のほうはいいのか?」
「問題ない。それに、元々僕はこの街や周辺の商売を任されている。それなら街に住んだほうが何かと都合がいい」
「へぇ……って、あぁ、だからか」
俺の言葉にトリヤが「なんだ?」と視線を向けた。
「いや、レィナ嬢との婚約も商売が関係してたんだろ?」
「……不愉快なことを思い出させないでくれ」
「なんであんたが不愉快になるんだよ。それなら俺のほうがよっぽど不愉快になるところだろうが」
「タマに傷をつけた女の名前を聞くだけで、一族もろとも握り潰してやろうかといまだに思う」
「ちょっと待て。本当にするんじゃねぇぞ」
トリヤの黒い目が光っているように見えるが、朝日のせいだと信じたい。本心じゃなかったとしても、そうできるだけの力を持つ大
俺の左脇腹には、うっすらと赤い傷跡が残っている。医者の話ではそのうち消えるはずだということだが、トリヤは「タマの綺麗な体に……」と言って俺よりも気にしていた。そのせいか、いまだにレィナ嬢の名前を出すと機嫌が悪くなる。
「とにかく俺は気にしてないんだから、あんたも気にするな」
「……タマがそう言うなら」
「うんうん。それに、男の肌なら傷の一つや二つあってもおかしくねぇだろ? まぁ、これが足だったらさすがに堪えたかもしれないけどな。足の怪我ってのは、どんなに治療や療法をしても完全に治すことは難しいんだ。とくに季節の変わり目なんかは古傷が痛んで、何でもないところでつまずきそうにもなるしな」
「……やけに詳しいんだな」
「おう、そりゃあ……、あれ? 足を怪我した踊り子なんていたっけか?」
そんな踊り子はいなかった気がするが、頭の中には足の怪我についてのあれこれが勝手に浮かんでくる。「誰かに聞いたんだっけな」と明るくなった空を見ながら考えていると、腰を抱いていたトリヤが急に抱きしめてきた。
「お……っと、なんだよ。どうかしたのか?」
ほんのわずかだったが、俺を抱きしめるトリヤの両腕が震えたような気がした。
「もしかして、俺が刺されたときのこと思い出したとか? 悪かったな。っていうか、俺自身が気にしてねぇんだから、あんたも気にするなよ」
「……そうだな」
「気にしすぎると早く老けるって話だぞ?」
冗談を言いながらギュッと抱きしめ返す。安心させるように背中をポンポンと叩いてから腕を解き、トリヤの右手をギュッと握った。そうしてホテルまでの砂浜をのんびりと歩く。
「で、この街に住むって本気なのか?」
「本当だ」
「まぁ、トリがそれでいいっていうのなら俺は構わないけど」
「気になることでもあるのか?」
「だってあんた、
そう答えたら、俺の手を握るトリヤの手に力がこもった。
「結婚なら、もうしてる」
「は?」
「いや、しようと考えいてる。というか、気持ちはもうしている状態だ」
「それって、誰とだよ」
もしかして、俺が知らない間に新しい婚約者ができて結婚までしたということだろうか。思わず立ち止まったら「空気を読め」と言われてしまった。
「いや、いまのでどんな空気を読めっていうんだよ」
「タマが好きなこの街に住むってことは、タマと一生一緒にいたいという意味しかないだろう?」
「……は?」
「だから、僕の結婚相手はタマだと言っているんだ。察しが悪いな」
「俺が間抜けみたいに言うな。……って、あんた、本気で言ってるのか?」
「当然だ」
いまさら何を言っているんだと言わんばかりの表情に、「いまので察しなかった俺のほうがおかしいのか?」と思ってしまった。
「いや、でもトリはオオキリのご子息様だろ? 子ども作って、一族を繁栄させなきゃいけないんじゃないのかよ」
「それは兄たちがやる。というより、すでに上の兄には四人、下の兄には六人の子どもがいる。これ以上増えては逆に一族内で争いが起きかねない」
「兄たちって、え? あんたの兄貴って次期ご当主様だけじゃなかったのか?」
「あれは上の兄で、もう一人兄がいる。それぞれいくつかの街で商いをしているし、これ以上ないほど一族は潤っている。これからはそれぞれの街に富を還元することになるだろう」
「なるほど、それで劇場ってことか」
例の事件でトリヤが提案した劇場に関しては、中央広場に近いいまの劇場を建て替えるか、新たに別の場所に建てるかの話し合いが続いていると聞いた。ツグマやカイムの話だと、海沿いに建てる案が一番人気らしい。
「それもあるが、踊りの神への謝罪というのは本心だ。それに、個人的な踊りの神への感謝も兼ねている」
「感謝? なんでトリが踊りの神に感謝するんだよ」
「今生でタマと巡り合わせてくれたことへの感謝だ」
真面目な顔をして、何を言っているんだか……そう思いながらも、こそばゆくて甘い気持ちになる。
「それを言うなら、俺だって感謝してる」
たとえ“前世からの恋人”じゃなかったとしても、トリヤと巡り合わせてくれたのは踊りの神様に違いない。それなら俺だって感謝してもしきれないくらいだ。
「タマはやっぱり強いな」
「なんだよ……って、ぅおっ」
急に繋いだ手を引かれた俺は、砂浜に足を取られながらトリヤに抱きしめられた。そのまま額をくっつけた俺たちは、どちらからとなく触れるだけのキスをした。
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