第7話 前世
「どうして婚約を破棄なさるの? 踊り子を恋人にしたいのなら、結婚してからでも十分じゃないの」
胸を強調した派手な服に身を包むレィナ嬢が、チラッと俺のほうを見た。睨んでいるようには見えないが、気分がよさそうにも見えない。
それもそうだろう。自分との婚約を破棄した男が踊り子とお茶を飲んでいるところに出くわしたのだ。しかもここは庶民が集まるただの広場のパラソル付きテーブルの下で、そんな場所で大
傍から見れば、まるで
(そこらへんは、いまだに俺もよくわからねぇけどな)
でも、これがトリヤという男なのだ。俺はそういう
「その話は終わったはずだ。オオキリの家からも連絡があっただろう?」
「連絡はありましたわ。でも、あたしは納得していませんの」
「なぜだ」
「なぜって、だって
レィナ嬢が「何を言っているんだ」と言わんばかりの表情でトリヤを見ている。一方、トリヤは無表情のままコーヒーカップを傾けていた。
俺は多少の居心地の悪さを感じながらも、トリヤはやっぱり他の
(もしかして、俺のことを“前世からの恋人”だと思い込んでいるからか?)
いや、それでも
「商売の提携なら、結婚話がなくなっても解消されることはない。シキセンの当主はそれで納得したと聞いているが?」
トリヤの言葉に初めてレィナ嬢の表情が変わった。それはどこか悔しそうにも見える顔で、真っ赤なリップで光る唇をわずかに噛み締めている。
「きみが言うとおり、
トリヤは話は終わったとばかりにナイフとフォークを持ち、クレープを食べ始めた。普段なら柔らかい表情で食べるのに、いつも以上に無表情に見えるのはトリヤ自身の機嫌も急降下しているからだろう。
レィナ嬢は婚約を破棄されたことを侮辱だと感じているのかもしれないが、互いの利益が一致せずに婚約を破棄する
このままおとなしく帰ってくれるだろうかと窺っていると、レィナ嬢がスッと右手を挙げた。すると、少し離れたところにいた男たちが近づいてくる。
(相変わらず顔のいい男たちを連れて歩いてるんだな)
踊り子仲間の顔は見当たらないが、誰も彼もが整った顔立ちをしていた。そんな男たちの一人がポケットから何かを取り出すのが見えた。太陽の光に輝いたそれに一瞬目をすがめると、向かい側から「タマ!」と鋭い声が飛んでくる。
「え……?」
急に腕を引っ張られ中途半端に腰が上がった。引っ張ったのはトリヤだろうが、何事かとトリヤのほうに顔を向けたとき左脇腹に鋭い痛みが走った。
「い……っ」
痛みのあまり椅子に腰を下ろそうとしたものの、体が傾いたからか椅子が倒れ俺の体も石畳に落下してしまった。したたかに打ちつけた右肩も痛かったが、それよりも左脇腹の痛みが強くて息が詰まる。
「タマ!」
トリヤの大きな声が聞こえた直後、「踊り子のくせに生意気なのよ」というレィナ嬢の声が聞こえた気がした。
・
・
俺が初めて芸能の仕事をしたのは赤ん坊のときだった。オムツの広告でテレビコマーシャルにも使われたらしい。その後、俺は子ども劇団に入った。芸能界で生きていけると勘違いした母親によって強制的に入れられたのだ。
ところが俺には演技の才能がなかった。いくつかの事務所を渡り歩き、小学校を卒業する前に大手プロダクション事務所に入ることが決まった。正確には事務所の研究生という立場だ。
研究生になったのはダンスをしたかったからだ。初めてやりたいことが見つかったからか、毎日が楽しくて仕方なかった。学校が終わるとすぐにレッスン場に行き、終電近くまで踊り続けた。休日にはレッスン場が開くと同時に行って誰よりもたくさん練習した。それが苦にならないくらい夢中だった。
それだけ練習したダンスだが、結局は鳴かず飛ばずのまま高校を卒業する年齢になっていた。
その頃、テレビでは“オオトリ・ユウヤ”というアイドルが人気を博していた。アイドルながらダンスは本格的で歌もうまいと評判だった。海外デビューも果たし、アメリカやイギリスでライブを行うことが決まったと話題沸騰だった。
「……俺より年下のくせに」
高校を卒業したばかりの俺は、一歳年下のオオトリ・ユウヤを妬んでいた。同じくらい惹かれてもいた。この事務所に入ったのもオオトリ・ユウヤが所属していたからだ。
「結局、共演なんて夢のまた夢だったんだな」
俺がオオトリ・ユウヤを初めて見たのは小学生のときだった。たまたまドラマのオーディションの帰りに見かけたのがレッスン中のオオトリ・ユウヤで、踊る姿に一瞬にして目を奪われた。
俺はフラフラとレッスン場に入り、無心でオオトリ・ユウヤを見続けた。息をするのも忘れるくらい夢中になった。自分より体の小さい奴が踊る姿にただただ感動して、気がつけば涙をポロポロこぼしていた。
そのとき俺は、オオトリ・ユウヤに一目惚れした。
そんな俺をたまたま見かけた事務所の社長が声をかけてくれて、同じ事務所の研究生になることができた。俺は、オオトリ・ユウヤと同じステージに立つことを夢見てレッスンを続けた。もちろん初めて本格的にやったダンスは楽しくて、ようやく見つけた目標と楽しさに誰よりも真剣に向かい合った。
何回かは大きなステージに呼ばれたが、オオトリ・ユウヤと一緒になることはなかった。それでも諦めず練習を続け、オオトリ・ユウヤがレッスンに使っているレッスン場にも通い詰めた。
しかし、俺は大舞台に立つオオトリ・ユウヤに近づくことはできなかった。高校を卒業してからは、ほとんど夢を諦めかけていた。
そんなある日、とあるステージにオオトリ・ユウヤが出演するという話を耳にした。それはアメリカに旅立つ前の最後の公演で、舞台後は海外公演が続くから国内ではしばらく見納めになるだろうというステージだった。
(この機会を逃したら、もう二度と同じステージには立てない)
俺は何がなんでもステージに立ちたかった。ステージに立てなければダンスを辞めてもいいとさえ思った。
チャンスは全部で三回あった。一つ目は事務所内のオーディションだったが、二次選考で落ちてしまった。二つ目、三つ目も応募していたが、事務所内オーディションが一番可能性が高いと思っていた俺はショックのあまり満足に踊れなくなっていた。
このままじゃ、オオトリ・ユウヤと同じステージに立てない。大好きなオオトリ・ユウヤに俺を見てもらうことすらできない。
そう思ったら、なぜか体がブルブル震え出した。涙があふれて止まらなくなった。後から考えると、あのときの俺は追い詰められすぎておかしくなっていたのかもしれない。だから、あんな方法を選んでしまった。
俺は何としてもステージに立つために、舞台演出を手がける演出家に近づくことを考えた。その演出家は業界でも有名なバイで、とくに若いダンサーが好みだと聞いていた。
演出家と接触できた俺は、端役ながらオオトリ・ユウヤと同じステージに立つ権利を手に入れることができた。代償は俺の体だ。俺の初めては五十代の演出家のオヤジに捧げることになった。
「別に、同じステージに立てるならどうでもいい」
それに、いくら初めてを大事に取っていたとしても俺とオオトリ・ユウヤが寝るなんてことは一生ない。だから、誰が相手でもどうでもよかった。
「……そもそも、俺が勝手にトリを好きなだけだし」
「トリ」と口にするだけで股間が熱くなる。後ろ姿を見て、声を聞くだけでムラムラした。トリがいつも使っているレッスン部屋の近くの部屋を使っているのも、いつかトリに話しかけるチャンスがあるんじゃないかと期待したからだ。
でも、トップアイドルに末端の研究生の俺が声をかけるチャンスなんてあるはずがない。社長しか呼ばない「トリ」という愛称をこっそり口にするのが関の山だ。そうして遠くから姿を見て、勝手に興奮して妄想しながら自分の手で抜く。なんて情けない男だと自分でも笑いたくなった。
それでも俺はトリに憧れ続けた。トリのダンスに一目惚れし、トリの全部が好きになった。小学生のときから思い続けてきた俺の気持ちはどんどん膨れ上がって、自分でもどうにもできなくなっていた。
いつか同じステージに立つことを夢見て必死に練習もした。無茶をしすぎて足を大怪我したときだって、トリのことを思ってつらいリハビリに耐えた。おかげでもう一度踊れるまでに回復した。
そして、ようやく同じステージに立てるチャンスを手に入れた。正当な手段じゃなくても、トリと一緒のステージに立てるならどうでもいいと思っていた。
そんなふうに思うなんて、やっぱり俺は少しおかしかったのだろう。あまりにもトリのことしか考えられなくなっていた俺は、いろんなことが見えなくなっていた。だからあんなろくでもない方法を考え、選び、そうして体まで使ってしまった。俺が取った行動は、あっという間に関係者の間で噂になった。
「ねぇユウヤ、聞いた?」
「なに?」
「ほら、タマキ・ヨリチカの話」
「タマキ・ヨリチカ?」
「ユウヤと同じ事務所の……ええと、研究生だったっけ?」
「そいつがどうかしたのか?」
「今度のステージに出るために、演出のシイバさんと寝たんだって」
レッスン部屋に行く途中で耳にした俺の噂話。それを聞いていたのは、よりにもよってトリだった。
そのとき、トリがどんな顔をしていたのか知らない。なんて答えたのかもわからない。俺はトリの声を聞く前に踵を返し、建物をあとにした。
その後、俺はせっかく手に入れたステージに立つ権利を放棄した。他の奴らに知られるのは構わなかったが、トリに知られてしまった以上平気な顔で同じステージに立つことはできなかった。
当然、事務所からはこっぴどく叱られた。しばらく仕事はないと宣言されたが、元々多くない仕事だったからすぐに仕事はゼロになった。とっくの前に芸能界では生きていけないとわかっていたから仕事がなくなっても何とも思わない。ただ、トリと同じ舞台に立てなくなったことだけはショックだった。
「最初で最後の夢が叶ったと思ったのになぁ」
いや、今回のステージに立てたら何かが変わるかもしれないと密かに期待していた。これまでの努力が報われて、大好きなダンスを続けられるかもしれないと夢を見たこともあった。
そう、こんな俺でもダンスは本当に好きだったんだ。トリに憧れ、あんなふうに踊りたいと思い続けてきた。だから誰よりも練習してきたし、つらくても楽しいと思えた。
(それなら、真正面から進まないと駄目じゃん)
いまなら自分がどれだけ愚かなことをしたのかよくわかる。端役のオーディションはあと二回、チャンスが残っていた。そこでちゃんと競えばよかったのだ。そうして正々堂々と権利を勝ち取り、同じステージに立つことを目指すべきだった。
そんなチャンスを自ら潰してしまった。トリと同じステージに立ちたい思いばかりが先走って、最悪な方法を選んでしまった。
「あーあ。これからどうすっかなぁ」
芸能人として花開かない俺のことを、母親はとっくの前に見限っている。父親はステージママに変貌した母親についていけなくて、俺が小学生のときに家を出て行った。研究生として寮に入っているが、ここも出て行かないといけなくなるだろう。かといって俺に帰る場所はない。
(とりあえず部屋の片付けでもするか)
むしろ、それ以外にすることがなかった。最近は空腹も感じないし、ほとんど寝てばかりいる。たまに目が覚めてもテレビを見る気力すらない。以前はあれほどトリのステージを見ていたのに、テレビをつけて再生ボタンを押すこともできなくなった。
「うへぇ、空っぽかよ」
部屋に備え付けの小さな冷蔵庫を開けると、見事なほど何も入っていなかった。そういえば最後のコーラを飲んだのは三日前だったことを思い出す。
(飲み物くらい入れとくか)
小さな玄関で靴を履いてドアを開ける。部屋を出るのは何日ぶりだろうと言うくらい久しぶりだ。
寮のエントランスには、飲み物だけじゃなくパンやお菓子の自販機も置いてある。寮の近くにコンビニがないから、夜遅くに帰ってきたときのためにと社長が置いてくれているものだ。値段も格安だし、寮生の多くはこの自販機のお世話になっていた。
(……社長にも迷惑かけたな)
一向に大役を掴めない俺のことを社長は見捨てずにいてくれた。今回のオーディションだって、俺がオオトリ・ユウヤを目標にしていることを知っている社長が声をかけてくれて参加することができた。「タマも必ずステージに立てるからな」なんて、俺の顔を見るたびに言ってくれた。
(……俺も、トリみたいに大勢に見てほしかったな)
そうして大歓声を浴びたかった。わずかな時間ステージに立つたびに、視線と歓声に包まれる自分にたまらなく興奮した。もっともっと大勢を前に踊りたいと思っていた。しかし、それももう叶わなくなってしまった。
(自業自得だよな。っていうか、もう全部忘れたい)
そうだ、何もかも忘れてしまえばいい。ダンスのことも、オオトリ・ユウヤのことも忘れてしまえばいい。そうすれば、きっと楽になれる。
「そうだ、全部忘れてしまえばいい。……何もかも、二度と思い出さなくなればいいのに」
自嘲気味にそう思いながら階段を下りようと一歩踏み出したとき、目眩のようなものを感じて体が傾いた。咄嗟に足を踏み出したが、足の裏が床に触れることはなかった。
――そういや、四日くらい飯食ってなかったっけ。
だからふらついたんだ……体がやけにゆっくりと傾いていく。そうして階段を踏み損なった俺は十何段もあるてっぺんから踊り場に落下し、壁に体をしたたかに打ちつけたところで意識が途切れた。
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